2018年2月18日 (日)

受け継ぐもの

都響はオペラ、ローエングリンの最中。昨日からオーケストラピットに入っている。

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ワーグナーのオペラは初めて。楽員の間で、あるモチーフがチャイコフスキーの白鳥の湖に似ている、という話になった。その他にも弾いているとマーラーやR.シュトラウスの曲はここから、と感じるところがたくさんある。
ローエングリンの初演は1850年。僕の勝手な想像で、ワーグナーのオペラは音楽的な内容はもちろん、規模など様々なことを含めて当時の最先端だったのだろう、と思う。規模の大きな音楽が、しかも精緻に書き込まれているのに驚く。それはきっと続く作曲家たちに強い影響を与えたに違いない。ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、R.シュトラウス、そうした人たちは一人一人がとても大きい。でも彼らも受け継ぐものがあり、そうして発展したものを今の僕たちは享受しているのだと思った。

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2018年2月16日 (金)

素晴らしいジャンプを

平昌オリンピックの男子ノーマルヒル決勝、日付が変わる頃テレビをつけた。風が強く吹く中、選手はスタート位置については戻り、位置については戻りを繰り返していた。深夜の寒い中で何度も待て、を繰り返す状況をライヴで見ていて、本当にすごいなと思った。おそらく10分くらい待った後で彼は(待ちきれない様子だった)見事なジャンプをした。スイスのシモン・アマン。そして後続のロベルト・ヨハンソン(髭の人です)も素晴らしいジャンプで銅メダル。驚くほかない。この人たちはいったい何だろう、と思った。凍える寒さの中で、その上自分の思い通りにならないタイミングを待つ、でも素晴らしいジャンプをする。

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2月16日の日経新聞に掲載された三浦知良さんの記事はやはりオリンピックに触れていた。その中から

『・・・例えばスキージャンプ。4年に1度、何秒間かの踏み切りや飛躍に全てをかける。それでいて、その一瞬が必ずしもいい環境に恵まれない。気まぐれな風。寒さ。悪条件。過酷というか、不条理にさえ思えてくる。
 色々な条件がピタリとかみ合わないと、自分のパフォーマンスを出し切れないときは僕にもある。・・・』
『考えてみればストリート育ちのブラジル選手は、どんな条件でサッカーをさせてもうまい。いい芝生、硬い地面、ぬかるみ。様々な状況でやってきて、本当の意味で使える技術を持っている。僕自身もブラジルに渡った10代にはあらゆる悪条件でサッカーをした。「こういう場でもプレーできなければ、本物じゃない」と言い聞かせながら。
 経験とは、いろんな条件の下で戦い、生きてきた幅のことだ。そして生き残るということは、状況に順応できるということ。理想の条件ばかりは望めない。言ってみれば、僕らには泥沼しか与えられない。それでも合わせていく。それを「力」とも言い換えられるのだろうね。』

2018年2月 8日 (木)

シューベルト

海へ。海の上に雲が出始め、雲の透き間には短い虹も見え、振り返ると山側には黒い雲がかかっている。夕立の時の雲と同じ、でもまさか、と思っていたら雪まじりの雨が降り始めた。空気が動いているときの景色はドラマチックだ。夢中で写真を撮っていたら、シャッターを押せなくなるくらいの寒さになっていた。

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「群像」2018年1月号に掲載されたヴァレリー・アファナシエフと吉増剛造さんの対談から。
『先ほど吉増さんが触れられたシューベルトの最後のソナタは長い曲なので、構成をまとめるのが難しいと言う人がいます。でもわたしは、個々の要素をうまく一つにまとめようとは考えないほうがいいと思います。一度自分の中で作品の和声感を完全に感じることができるようになれば、好きなように、自由に弾いていいんです。これは矛盾した結論と思われるかもしれません。しかし、いったん自分の中で空間と時間の使い方が確立されてしまえば、形式は自然と現れるので、その中で自由にいろんなものが作れるようになるのです。』
『メロディーとハーモニーの関係は音楽家がもっと真剣に考えなければならない問題ではないでしょうか。このところよく思うのですが、メロディーは、いつも邪魔されるというか、中断されてしまう危険をはらんでいます。しかしハーモニーは、いつもそこに存在しており、それだけで完璧なものです。実際にコンサートホールで演奏しているときにも、ハーモニーの働きによってメロディーそのものが横に延ばされ、時間を拡張されたハーモニーになってくるときがあります。そうなると、もうわたしではなく、コンサートホール自体が演奏しているようになる。演奏していると、そんなことが起こるのです。』

演奏という感覚的なことを言葉にするのは難しい、でもアファナシエフはまさに言いあらわしていると思う。新日フィルにいた頃、彼が指揮する演奏会があった。プログラムはシューベルトの「未完成」とブルックナーの9番(どちらも未完の曲だ、でもどちらも見事な曲だ。)。指がぬっと出てくるような指揮は独特だったけれど、音楽はよく伝わってきた。

『・・・シューベルトは決して音楽に成長を強いようとしたりはしないんです。言うなれば、一人の人間の中から何かが自然に成長していく。だから作曲するときにも、ずっとこのままだと単調だから、ここで違うフレーズを入れよう、などとは考えない。・・・』(アファナシエフ)

昔クリスチャン・ツァハリアスにシューベルトの変ロ長調のピアノ三重奏のレッスンを受けた時、彼は「シューベルトの音楽は、今ここにいることの心地よさだ」と言った。その言葉に目を開かれるようだった。このピアノトリオも、他の多くのシューベルトの作品と同じように、旋律が何度も何度も繰り返されていく。転調やモチーフの小さな変化は伴うけれど、ベートーヴェンのように大きな展開をしたり、その恩恵を受けた壮大な結末を迎えたりはしない。旋律は湧き続ける泉のように自然で美しく、どんな小さなモチーフにも、いつまでも手元に置いて弾いていたくなるような愛らしさがある。こうした音楽に接するといつも、書いた人に畏敬の念を覚え、同時にこんなに素晴らしいものを残してくれたことにただただ感謝したくなる。こんな音楽を書くことができたなんて。

アンドラーシュ・シフがフォルテピアノで録音したシューベルトの即興曲、ソナタ(D894、D960)のCDがある。シフが書いたライナー・ノーツから。

『・・・19世紀には(さらに後になっても)、シューベルトはビーダーマイヤー風にセンチメンタルで無邪気に演奏されがちであった。彼のドラマチックな才能、その音楽の暗い力と計り知れない深さは、正当には認識されていなかった。爆発力と力強いクライマックスだけでなく、シューベルトが他の誰にも比べられないほど我々の心に迫るのは、静かな、最も静かな瞬間なのだ。彼の楽譜ではpとppが支配的である。pppも稀ではない。・・・』

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僕がたった一冊持っているピアノソナタの楽譜が、シューベルトの最後のソナタ(D960)だ。初めて楽譜を開いた時、冒頭がピアニシモで始まることと、重ねられている音の多さに驚いた。今日楽譜を開いて、冒頭だけでなく、第2、第3楽章もピアニシモで始まることに気付いた。これほど規模の大きなソナタがピアニシモで始まることは普通ではない。きっと大切なことは規模ではなく、まるで自分一人のために書かれたかのような親密さなのだと思う。

ルービンシュタインがシェリング、フルニエと録音したシューベルトの変ロ長調のトリオの素晴らしい録音がある。ライナー・ノーツはリン・S・マッツァが著し、書き出しには様々な人の言葉がある。
『シューベルトは、死というものにまっすぐ向き合うことができた唯一の作曲家だろう・・・・自分が死ぬとき、私は周りに誰もいてほしくない。威厳をもって死ぬために森の中に消えていく動物のように、私は死にたい ー たったひとりで」(ルービンシュタイン)
『人生は時によって、われわれの愛や成功や自由や健康や幸運を奪い取ってゆく。しかしながら人生はわれわれの思考、想像力、あらゆる芸術や本や花への愛、そしてあらゆるものへの興味を奪うことはできない』(ルービンシュタイン)
『音楽は、人間本性がそれなしではすごせないようなある種の快楽を作り出す』(孔子)
『シューベルトのトリオ(Op.99)を一瞥するだけで、われわれの人間的な経験における困難は消えうせ、世界は再び新鮮で輝かしいものとなる』(シューマン)

こんなに印象的なライナーノーツはそうない。それぞれの言葉の出典が記されていないことを残念に思う。もしかして何かわかるかもしれないと思い、ルービンシュタインの自伝を図書館で借りてきた。生き生きとした冒険譚のようなこの本の後ろには、今は使われなくなった図書カードが挟んであった。日付は全て昭和だった。

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2018年1月31日 (水)

皆既月食

15分ごとにタイマーをセットして、皆既月食を見ている。だいぶ欠けてきた。昔の人は本当に驚いただろうと思う。

シャネルネクサスホールで「フランク ホーヴァット写真展」(chanelnexushall.jp/program/2018/un-moment-dune-femme)を見てから銀座メゾンエルメスへ。「グリーンランド/中谷芙二子+宇吉郎展」。ちょうど霧のインスタレーションが稼働している時に会場に入ったので、ほとんど何も見えなかった。(www.maisonhermes.jp/ginza/le-forum/arvhives/405275/)

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この霧のために、建物の最上階の床を上げ(おそらく防水を施して)、部屋の隅には溝を設けて水を循環させるシステムをつくっている。なんとまぁ。(世界に名だたるブランドの建物にお邪魔しましたが、僕は何もそうしたものを身につけていません。すみません)

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その後はヤマハへ楽譜を買いに。

2018年1月24日 (水)

言葉

トゥーランガリラ交響曲の第6楽章「愛のまどろみの庭(Jardin du Sommeil d'Amour)」は弾くのにけっこう大変な曲で(多くの弦楽器奏者に同意して頂けることと思います。コントラバスは休みです。)、そんな時は楽譜に書かれたフランス語を見つめたりしていた。「Jardin」も「Amour」も見たことのある言葉だったけれど、はて「Sommeil」?
家で辞書をひくと、眠りや睡眠を意味する言葉だそうだ。なるほど。「愛の眠りの庭」と訳しては感じがでないものね。用例に進むと「premier Sommeil」は「寝入り端(ばな)」とある。ふうむ。直訳すると「最初の眠り、第一眠り」かな。でも英語で「first sleep」とはきっと言わないだろうし、同じラテン語由来のイタリア語やスペイン語なら「プリモなんとか」と言ったりするのだろうか・・・、と考えたりした。言葉は楽しい。

先日電車に乗っている時、僕の前に立った女性が使いこまれたネパール語会話集のような本で熱心に勉強を始めた。きっとすでにネパールに行ったことがあり、そしてまもなくまたネパールに出かけるのだろう、そんな感じがした。その女性が僕の隣に座ったのでその本を横目で見ると(ごめんなさい、とても興味深かったのです)、まるで知らない不思議な文字と、その読みと、日本語訳が記してあった。もし明日からネパール語で話さねばならないとしたら、それは大変なことだと思った。

普段の生活はもちろん日本語を使い、時おり、英語やヨーロッパの言葉が入ってくる。でも当たり前のことだけれど、世界には僕のまったく知らない、文字も文法も表記も想像できないような言葉がたくさんあるんだな、と思った。日本にいるとなんだか右も左も英語英語という感じで、しかもそれが世界共通語みたいに扱われているのは少し残念な気がする。僕の貧しい経験から言えば、聞いていて楽しいのはイタリア語、美しいのはフランス語、演説に向いていそうなのはドイツ語、「ありがとう」しか知らないのはフィンランド語、ロシア語・・・。多くの言葉がある世界はきっと、豊かな世界だと思う。名古屋を離れて20年以上、僕の名古屋弁はすっかりいんちきくさくなってしまったけれど。

テレビのクイズ番組でアイスランドを取り上げられたとき、アイスランド語はこの1000年変わっていない、とのことだった。信じられない、本当かな。日本で言うとたとえば、古事記は無理でも源氏物語なら誰でもすらすら読める、ということになる。もう一つ聞いたところでは、彼の国では外から来た言葉は自国語にできるだけ訳して使うそうだ。(僕は中国語をほとんど知らないけれど、例えば中国語の宇宙ロケットを調べてみると「宇宙火箭」と書くそう。こんな感じだろうか)
日本語にはカタカナという便利なものがあるせいか、外来語があふれているし、しかもそれが日本語化して新たな意味を持ったりする。釣りに夢中だった頃不思議だったのは、ブラックバス釣りをする人たちがカタカナ言葉をよく使うこと。例えば「昨日のプラクティスでシャローにネストが見えたので、今日はヘビータックルでボトムを・・・」とか。

昔イタリアに行ったとき、イタリアの悪ガキたちが僕の読んでいる文庫本を見て日本語の話になり、
「日本語には3種類の文字があって、ひらがなが50文字、カタカナも50、漢字は」
「それも50でしょ」
「いや、何千もある」と言ったら、正気か、という顔をされた。

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毎年暮れの放送を楽しみにしている沢木耕太郎さんのラジオ番組「Midnight Express(J-Wave)」、昨年も素晴らしかった。番組の終盤に父上の句が紹介され印象深かった。(放送から起こしたので、文字使いが違っているかもしれません)

『聖夜なり 雪なくば せめて星光れ』
『差し引けば 幸せ残る 年の暮れ』

沢木さんは昨年7,8月、執筆のため毎日ハワイ大学の図書室に通ったそうだ。夏休みで閑散としたその図書室には、沢木さんと同じように毎日姿を見せる二人がいて、彼らは窓際の席に並んで座り、休憩もなく朝の9時から13時まで、中国語の方言らしいものを教え教えられしていた。その東洋人の老人と女子学生の真剣な後ろ姿を、『滅多に見られない美しいものを見た気がした』と沢木さんは言った。確かに、それはとても美しい光景だっただろう、と思う。

2018年1月22日 (月)

アナログレコード

正月帰省した折りに、久しぶりにLPレコードを何枚も聴いた。
驚いたのは、最近CDで買った録音が昔から実家の棚にあったこと(例えばズッカーマン&バレンボイムのブラームスなど)、もう一つ本当に驚いたのはレコードの音が良かったこと。このことは言い古されたことで興味深くもなんともないけれど、それでも驚いた。家にあるレコードプレーヤーはオーディオファンが憧れるような名器ではなく、手入れもろくにしないまま30年くらいたっている。それに僕が生まれる前からあるレコードを乗せて聴くと、これ以上のものはないように思われた。幸せな時間だった。
80年代レコードがCDに席巻され、さらにSACDという規格が出て(あまり普及していない気がする)、ハイレゾと呼ばれるものが今のはやりのようだ。でもその技術の素晴らしい進歩のようにみえたものはなんだったのかな、と思わずにいられなかった。

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CDの規格を作る時に、人間の耳に聞こえないであろう高い音域をカットした、というのはよく知られた話だと思う。それがどうもよくない、というのでその高い周波数域を入れたのが「ハイレゾ」だと僕は理解している。でもそれはそもそもレコードに入っていたものではないだろうか?ただし両者の音の違いにはきっと他にも多くの要因があり、単純な比較は難しいのかもしれない。なんといってもデジタルオーディオは便利だ。でも不便で、大きなレコード盤をターンテーブルに置き、ホコリを取り、針を降ろすといった儀式的なことすら必要なアナログレコードの方が楽しい、というのは本当におもしろいところだと思う。
昨年12月8日の日経新聞夕刊に掲載された大橋力さんの記事の中から

『CDの規格を決める際に高周波を含む音と含まない音を10~20秒間交互に被験者に提示して違いを判別する心理実験が行われました。その結果、20キロヘルツ以上は違いを判別されないとされました。脳を同じ条件で一定の反応を示す機械のように扱っています。しかし脳の状態は40秒以上高周波にさらされたとき変容し、影響が100秒以上尾を引くことがわかりました。心理実験はいわば「心」に違いを尋ねる実験ですが、私たちの陽電子放射断層撮影(PET)の実験は「体(脳)」に尋ねました。
 米生理学会の学術誌は「最も読まれた論文」を毎月公表しています。2000年のPET実験論文は今もベストテンに入り読まれ続けている。CDを超える音を求める昨今の高音質のハイレゾリューション・オーディオのブームの火付け役にもなりました。でも、私は不満です。
 その後の研究で2つ新たなことがわかりました。まず高周波を感知するのは聴覚ではなく体表面の皮膚であるらしいこと。2つ目は、特定の高周波帯域では脳の活性を抑える負の効果もあることです。ハイレゾについて、こうした事実を踏まえる必要があります。』
『人工知能が人間の知能をしのぐといわれますが、この世界には機械では置き換えられない別の情報領域があります。かつて人類は森で暮らし豊かな音に囲まれていました。今や人工物であふれる生活を送っています。音と人間との関係からみて、私たちの科学技術文明の今後について、今とは違うもう一つの戦略がありえるのではないかと思います。』

理屈で考える以前に、人間にはもともと備わった大きな力があるのではないか、と最近感じるようになった。それは多くの情報を取り入れ、頭ばかり使っていると見えにくくなってしまうものではないだろうか。
諦めていたレコードプレーヤーがまた欲しくなった。一番の問題はレコード盤を置く場所・・・。

2018年1月20日 (土)

トゥーランガリラ交響曲

1月18日の都響定期演奏会は東京文化会館で大野和士さんが指揮するトゥーランガリラ交響曲。よい流れがあったのではないだろうか。オンド・マルトノについて原田節さんに伺った。スピーカーのように見えるものは、銅鑼だそうだ。シンバルくらいの大きさ。これを響かせるならきっと倍音が上まで伸びますね、と言ったら、そのとおりで、オンド・マルトノの音を聞くと気持ちが良くなって眠くなる、とのことだった。昨年の日経新聞に大橋力さんによるハイパーソニック効果についての興味深い記事が載っていたことを思い出した。(耳に聞こえない高い音も人間に影響を与えるのではないか、というもの。以前から言われてきたLPレコードとCDの音の違いも、この高い音の成分が関係しているのでは、と思う)

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昨日19日は仙川へ散髪に。それからアンカーヒアで昼ご飯。久しぶりにアンカーの唐揚げを食べた。来月から改修のため2ヶ月ほどお店を閉めるそう。いいタイミングで行けてよかった。仙川に住んでいた頃の食生活はアンカーの唐揚げ、仙川とんかつ、家族庵(経営が変わってしまったけれど)のけんちんうどんがローテーションの3本柱だった。

今日は東京芸術劇場でトゥーランガリラの2日目。2日目の方が緊張した。「愛のまどろみの庭(Jardin du Sommeil d'Amour)」という題名のついた第6楽章は、オンド・マルトノと弦楽器が弾くゆっくりとした旋律(他にあまりないゆっくりとした長い長い旋律だ)に様々な楽器が不思議な感じで関わってくる。特にピアノを聴くと、深々とした森の中にいて鳥の鳴き声を耳にしているようだ。それにしてもよくこんな壮大な曲を書いたものだと思う。メシアンが書くまで世界にトゥーランガリラ交響曲はなかったのだから。
楽譜はレンタルで、おそらく日本の中で使われているものと思うけれど、いろいろな書き込みがあり、それらに助けられたり、もう少しすっきりしていた方が見やすいと思ったり、その時々の様々な様子がうかがえるような気がした。今回の楽譜、ところどころ締まりのないおたまじゃくし(音符)がガイドに書いてあり、見てすぐぴんときた。ずいぶん以前、九響で弾いた時の僕の書き込みだった。

2018年1月15日 (月)

1月14日、日経新聞に掲載された大田弘子さんの記事から

『鹿児島の伝統校、鶴丸高校には知識よりも知性を育む校風があり、学んだことは「ずしんと染みついている」。特に記憶に残るのは、化学の先生の「教養とは、はにかむことである」という言葉だ。半可通がとうとうと正論を述べ、知識をひけらかすのは慎まねばならないと諭された。』

2018年1月13日 (土)

レイモンド・チャンドラー

雑誌「MONKEY」vol.7掲載の対談の中で村上春樹さんが

『僕は比喩に関しては、だいたいレイモンド・チャンドラーに学びました。チャンドラーってもうなにしろ、比喩の天才ですから。たまに外してるものもあるけど、良いものはめっぽう良い。』

と語っているのを目にして、なるほどそうだったのか、と膝を打ちたくなった。確か「ロング・グッドバイ」の中にあった僕の大好きな比喩を思い出した。サンドイッチの中の乾いてぱさぱさになったレタスをたとえに使っていたような。続けて村上さんは

『比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのが、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。読者を眠らせるわけにはいきませんから。そろそろ読者の目を覚まさせようと思ったら、そこに適当な比喩を持ってくるわけ。文章にはある程度そういうサプライズが必要なんです。』
 ー ここに落差入れようっていうのは、学んで、書いているうちにここだなとだいたい目星がついてくると。そこに入れる比喩は自然に思いつく。
『自然に思いつきます。さっきも言ったように、比喩みたいなのは自然に出てこないと意味ないと思っているから。』

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この対談を読む前にいくつも村上春樹さんの長編を読んでいて(一度読んだものが多かったけれど夢中になって、電車を乗り過ごしたりした)、彼の比喩はいつも楽しかった。物語の大きな流れには関係のない、実に気の利いた箸休めのようだった。この対談を読んだ後、久しぶりにチャンドラーを読んでみようと思った。それで年末に読んだのが村上さん訳の「大いなる眠り」。巻末の解説も訳者によるもので、この文章がまるで仕事を離れたかのように生き生きしている。その中から

『この作品の映画化にあたったハワード・ホークスが、原作者チャンドラーに電報を打って、「スターンウッド家のお抱え運転手を殺した犯人は、いったい誰なのですか?」と尋ねた逸話はあまりにも有名だが(「私は知らない」というのが著者の返した電文だった)、そのように思わず著者に真相を問いただしてみたくなる部分は、この本の中に何カ所かある。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールド君は「本を読み終えて、その著者に電話をかけたくなるような本は素晴らしい本だよ」みたいな意見を述べているが、そういう意味では(ちょっと意味合いは違うけれど)『大いなる眠り』も「素晴らしい本」のひとつに数えられるかもしれない。
 しかし「すべてはロジカルに解決されているけれど、話としてはそんなに面白くない」小説よりは、「うまく筋の通らない部分も散見されるものの、話としてはなにはともあれやたら面白い」小説の方が、言うまでもなく読者にとっては遙かに魅力的であるわけで、もちろんチャンドラーの小説は後者の範疇にある。というか逆に、多少「わけがわからん」というファジーな部分があるくらいの方が、小説としての奥行きが出てくるのではないか、と断言したくなってくるくらいだ。』

年が明けて1月4日と5日の日経新聞にチャンドラーの長編7作の翻訳を終えた村上さんの文章が載り、ふむふむと読んだ。今読んでいるのは「高い窓」。僕が感じるチャンドラー作品の魅力はやはり、主人公フィリップ・マーロウだ。

2017年12月31日 (日)

どうぞよいお年をお迎えください。

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