2017年7月30日 (日)

先日出かけたのは「AMBIENT 深澤直人がデザインする生活の周囲展」https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/170708/index.html
興味深く見て、それから深澤さんの著作「デザインの輪郭」も読んだ。うまく言えないけれど、単に製品の外観を作るのではなく、何かのアイデアを目に見える形にして、使うことのできるものにすることなのかな、と思った。それまでなかった何かを世の中に現す、ということだろうか。こういう仕事はきっとおもしろいだろうなぁ。

Ambient

こんなことを考える。日本の軽自動車という規格、車幅を広くしてエンジンも少し大きくする。すると安定性、安全性、快適さ、どれもぐっと増すような気がする。(現実は、こんなことを言い出したら大変なことになるだろうけれど)
運転はしないけれど、車に限らず、乗り物が好き。それにしても、たまに昭和の時代の車を見ると(個性的なデザインにひかれる)、今の車が大きくなっていることに驚く。車の長さが、例えば50センチずつ短くなったら、渋滞の緩和にはつながらないのだろうか。誰かそんなことを研究していないかなぁ。

2017年7月11日 (火)

7月10日都響定期演奏会のメインはブルックナーの3番。これまで弾いたことのない1873年版(初稿)で、きっと演奏されることは多くないと思う。冗長に感じられたり、この書き方は上手いとは言えない、という箇所はあったけれど、良い意味でプリミティブで、ブルックナーがどんな人だったのか感じられるような気がした。

第2楽章で次のフレーズの前にチェロのトリルだけが残るところがある。その後すぐにコントラバスだけのトリルもある。そこに来るとシューベルトの最後のピアノソナタを思い出す。変ロ長調D960のソナタには、美しい旋律の合間に、その美しさにぶつぶつ不平を言うような低音のトリルがある。
そして交響曲の終楽章の終わりの方にそれまでの楽章を回想するところがあり、木管楽器が吹く旋律が、どうしてもシューベルトの子守歌に聞こえてしまう。

指揮はマルク・ミンコフスキ。およそコンパクトとは言えないこの曲が長く感じられなかった。終始にこやかに、しかも集中は途切れずに。
それにしても第1ヴァイオリンの音符の密度と量は大変なものだ。あの人たちの仕事ぶりには頭が下がるばかりだった。

2017年7月 9日 (日)

須賀敦子さんの本、続けて「トリエステの坂道」を読んだ。以前は文章の心地良さを読んでいたところがある、今は身に沁みる。

登場する様々な人たち、豊かな境遇にあるとは言えない多くの人たち、裕福な、名の通った人たちも、同じように共感を持って描かれている。この須賀さんの視点にすっと心をつかまれるのかもしれない。生きることはどの人にとっても決して軽くない、ということに心動かされる。

同書でもナタリア・ギンズブルグの「ある家族の会話」が言及される。もしかして「トリエステの坂道」は須賀さんにとっての「ある家族の会話」ではないか、と思った。「ふるえる手」から。

『しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だって思った。
こうして、「ある家族の会話」は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。イタリア語で書くか、日本語で書くかは、たぶん、そのときになればわかるはずだった。』

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2017年6月30日 (金)

今年最初の読書は南方熊楠著「十二支考」。密度が高く、読み進むのに少々骨が折れたけれど、ページを開ける度、熊楠さんの自由さに触れることができ、まるで清涼剤のようだった。
その後は太平記。ゆっくりゆっくり読んでいて、今ようやく岩波文庫版の第5冊に取りかかったところ。ふぅ。いったんその言葉のリズムに入ることができれば、進めるのだけれど、戦いに次ぐ戦いの描写に疲れてくると、脱線して他の本を開く。ずいぶんたくさん脱線してきた。

ある本を読んでいたらその中にイタリア、オリヴェッティ社のタイプライターが大切な役割を持って登場し、さらにオリヴェッティ社と作家ナタリア・ギンズブルグとの関係も語られた。名前は知っていたナタリア・ギンズブルグの著作を読んでみようと思った。

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「ある家族の会話」、続いて「モンテフェルモの丘の家」もあっという間に読んでしまった。あっという間に読んでしまったのは、もちろんギンズブルグの書くものが素晴らしいのだけれど、須賀敦子さんの訳によるところも大きいのだと思う。僕にギンズブルグの原文を読むことはできない、でもきっとギンズブルグの文章と須賀さんの訳文は見事に一体となっている。

須賀敦子さんの本は10年以上前によく読んだ。ギンズブルグの名前を知ったのも須賀さんの文章からだった。彼女がローマのギンズブルグを訪ねていく文章がどこかにあったはず、と本棚を探した。(「霧のむこうに住みたい」という本の中の「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」) この本もあっという間に再読し、今は「コルシア書店の仲間たち」。読書の喜びここにあり、という感じがする。

ギンズブルグと須賀さんの著作を読んで共通していることに一つ気付いた。自分のことを声高に語らない。間違いなく大変なことでも、まるで他人事のようにごく短く書く。彼女たちのこの強さは一体どこから来ているのだろうか。

2017年6月17日 (土)

昨日はJTアートホールで向山佳絵子さんを中心としたチェロアンサンブル。4年ぶりの演奏会は、何だか夢のようで、あっという間に終わってしまった。

95年に始まったこの公演は、僕にとって大きなものだった。素晴らしい人たちに混じって弾かせてもらう機会は何より得難いものだった。力不足だったり、周りが見えていなかったり、そういうことは多々あったと思う。
久しぶりに個性豊かな12人が集まると、やはりにぎやかで、楽しい時間が戻ってきた。20年以上たっても変わらず楽しくなる人たちを選んだ向山さんにはただただ感服する。そしてこの12人の中に入れてもらった幸運に感謝するしかない。

以前よりずっと、それぞれの人たちのそれぞれの素晴らしさを感じた。様々な音楽の方向があり、それぞれにいぶし銀のような仕事の仕方があることが、間近で接して、ひしひしと伝わってきた。そんな中で弾ける時間は密度が濃く、幸せだった。

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2017年5月 3日 (水)

Bunkamuraで開かれている「写真家 ソール・ライター展」へ。http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_saulleiter/
彼のドキュメンタリー映画は見ていて、素晴らしい写真だな、とは思っていたけれど、実際に大きなプリントの前に立つと時間を忘れて見入った。カラー写真の美しさと言ったら・・・。

ソール・ライターの言葉から
『重要なのは、どこである、何である、ではなく、どのようにそれを見るかということだ。 It is not where it is or what it is that matters but how you see it.』

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5月2日日経新聞夕刊に掲載された沼野充義さんの記事から
『同語反復的だが、「世界文学とは何かと考えることが世界文学である」というのが今の状況だ。文学の道を極めた偉い先生が「これを読めば大事なことは大体わかるから読んでおきなさい」というものをありがたがるのではなく、読み手一人ひとりが自分にとって切実な作品を手にしながら、自分だけの地図を作っていくことが大切だと思う。
世界文学について考える際に大きな問題となるのが翻訳だ。翻訳という営為の本質は、容易にはわかり合えない二つの文明圏をつなぐこと。「うまいか下手か」という技術の話ではない。
仮にテロリストと呼ばれる人間の気持ちを我々が理解するためには、翻訳が必要だ。だがそれがないままに「あいつらは敵」というプロパガンダばかりが声高に叫ばれ、世界各地で血が流れている。「文明の衝突」とは翻訳の拒否、あるいは巨大な誤訳によって生じる事態なのではないか。
・・・・・・
文学作品を読むとは、冒険のような具体的な「経験」だと私は考えている。読み終えて、内容をすっかり忘れてしまったとしても、その経験は必ず心に痕跡を残す。そして読む前と読んだ後とで、自分の中の何かが確かに変わっている。
文学は旅に似ている。目的地へ急ぐより、ゆっくり行く方が面白い。だから文学作品もできるだけゆっくり読んで、細部を楽しむべきだ。およそ功利的でなく、この時代において全く反時代的なことだけれども。』

2017年4月26日 (水)

大阪からの帰り、車窓からまだ山に咲く桜が見えた。
東京の花は終わり、新緑となった。柔らかな緑、この季節が一番好きだ。

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2017年4月24日 (月)

先週先々週と、都響にはアラン・ギルバートが来ていた。昨日一昨日はベートーヴェンプログラム。
「英雄」を弾きながら、30歳を過ぎて初めてこの曲を弾いた時のこと、試用期間が始まる前の新日フィルで、小澤さんの指揮で7公演のツアーを回ったことなどを思い出した。
アランの指揮はよく練られた中に即興性を持ったものだった。今の僕は以前よりはるかに曲の重さを感じる。ベートーヴェン渾身の、驚くべき革命的な音楽だったのだと思う。演奏の度に僕たちはその世界を旅していく、ということだろうか。人間にこんな曲が書けたことは信じられない。便利に快適に生きる現代の人間にはもはや不可能なことでは、と思う。

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プログラムの前半はイノン・バルナタンのソロでラフマニノフの狂詩曲。彼の素晴らしい集中力は、こちらまで楽しくなるようだった。
昨日は大阪公演。街に着くと東京とは別の国にすら感じる。街の人たちも聴衆も明るかった。もう一つ、新幹線の弁当売り場、東京より大阪の方が安く品揃えも豊富に感じたのは気のせいか。

2017年4月20日 (木)

昨日は楽しみにしていた原美樹子写真展「Change」へ。http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2017/04_shinjyuku.html#02
素晴らしかった。ただ、それを言葉にすることはとても難しい。特別なことが写っている訳でも決定的瞬間が写っている訳でもない気がするし、もしかして直接写っているものはさほど重要でないような気さえする。でも写真なのだから写っているものが・・・。
あぁこんな世界がある、と思った。アサヒカメラ誌4月号別冊に掲載された原さんのインタビューから

『ピントは目測なので適当にピントを合わせて、ファインダーも曖昧なのであまりのぞかない。目の前を通り過ぎていく風景であったり人であったりを、なるべく静かにすくい上げたいと思っています。目の前のものに対して感情、言葉が湧き上がってくる一歩手前が気になっているのかな。見てくださったそれぞれの方の記憶の断片に触れるような、そんな写真であればいいなと思います。』

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アルキメデスではないけれど、僕も風呂に入っていて思い付いた。楽器にかかる力を考えたエンドピンのストッパー。東急ハンズで材料を加工してもらい、早速組み立てた。さて。

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2017年4月 9日 (日)

やはり桜が咲くと嬉しくて、リハーサルの合間に上野公園を歩いた。笑顔の人たちの中にいるのは楽しい。

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