2017年10月 5日 (木)

新しいレンズ

ずっと欲しいと思っていたマクロレンズ(接写用のレンズ)が手元に来た。マイクロニッコールの55ミリ/2.8。何十年も前の設計で小さいのによく写る。
窓際に鎮座して、空を撮る専用になっていた大柄なデジタル一眼レフの出番が増えた。足元には豊かな世界が。

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昔持っていたライカの伝説的なマクロレンズを思い出した。凄みがあったなぁ。手放したことを後悔している機材の一つ。それにしても、あの頃よくあんな身分不相応の買い物ができたものだと思う。
今度のマイクロニッコールは新宿のM商会で程度の良い中古を見つけた。知識の深いお店の人たちと話すのは楽しかった。

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遠くを撮ってもいい。高いところにも素晴らしい世界が広がっている。

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2017年10月 4日 (水)

青山スパイラルで開かれている窓学展へ。http://madogaku.madoken.jp
展示を見て、ロストロポーヴィチの言葉を思い出した。
(オイストラフに関するドキュメンタリーの中、当時の体制下で)
音楽だけが太陽に向かって開かれた窓だった、この気持ちは西側の人たちにはわからないだろう、こんなことを彼は言っていたと思う。

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月刊都響6月号、奥田佳道さんの文章の中に大変興味深いロストロポーヴィチの言葉があった。
『「私(ロストロポーヴィチ)はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が大好きです。あなた(筆者)もそうでしょう」と言い、冒頭のオーケストラの調べをティーラララ~と歌い出す。
「ところであなたは、チャイコフスキーがニ長調のロマンティックなメロディを作曲した時、どんな天気だったかを考えたことはありますか?ないでしょうね。そんなこと、誰も考えません。ロシア人音楽家以外は(笑)。
あのメロディは晴れた空を表現したか、そのイメージです。昔のロシア人ならば、歌ったり踊ったりしたことでしょう。
私は歴史家ではありません。しかしチャイコフスキーがヴァイオリン協奏曲のスケッチを始めたときのお天気は、第1楽章のメロディから判断する限り、晴れ以外、考えられないのです。晴れた日のチャイコフスキー、いいでしょう!」』

2017年9月 3日 (日)

9月1日、日経新聞に掲載された三浦和良さんの連載「サッカー人として」から。

『不思議なもんでね。それが大観衆の国立のピッチに立つと、スッと心が落ち着いていく。移動の車中や控え室での方が「勝たなきゃいけない」「ゴールをどう取るんだ」「負けたらどうしよう」と色々考えて。ところが通路を渡りピッチへと踏み出せば、理由は分からずとも自信が湧いてくる。大歓声を、自分の力として受け止めることができる。』
『巡り巡る大勝負で求められるのは何か。「ノン・テン・セグレード」とブラジルの人は言う。体と心をいい状態に、いい準備をする。特別な秘訣(セグレード)などはない。そう心からスッと思えるなら、少なくとも乗り越える準備はできているんだ。』

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2017年8月29日 (火)

日曜日夜の列車で帰京。

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今年は仕事の合間に美ヶ原高原、中綱湖・木崎湖、波田地区に出かけた。松本市街から少し足を伸ばせば素晴らしい自然がある。でも駅前から10分も 歩けば、水の流れる音と虫の声が聞こえてくる。山が近い空は表情がはっきりしていて美しい。東京のぼんやりとした空を見ると、松本が懐かしくなる。

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2017年8月25日 (金)

今週の松本はBプログラムに小澤さんの指揮でレオノーレの3番がある。
先週のマーラー9番は演奏時間一時間半ほど、でも結局あっという間に最後の和音を弾いていた。必ずしも時計が刻むようには時は流れないようだ。今週のレオノーレはおよそ15分、その時間はとても密度が濃い。言葉ではうまく言えないけれど、手に取ることができるような何かがある。

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プログラムの後半はシュトゥッツマンの指揮でマーラーの歌曲とドヴォルザークの交響曲。今週はチェロの場所が外側になり、管楽器がよく見える。言うまでもなく彼らの演奏は素晴らしい。溶けるような音色、彫りの深さ、飛び立つような自由、そうしたものは愛するものを慈しむような演奏から出てくることがよくわかる。僕たちもその中に誘い込まれるようだ。

2017年8月21日 (月)

昨日がファビオ・ルイージが指揮するマーラー9番、2回目の本番。本当になんという曲だったのだろう。あまり経験しない、ずっしりとした重さを感じていた。でも演奏会が終わった今、当分この曲を弾かないことをさみしく思う。

本番の舞台ではいつも、気が付くと終楽章の入り口にいた。それまでにずいぶんたくさんの難しいことを、おそらく一時間は弾いたはずなのに、その時間は飛び越えて終楽章の入り口にいる。
そしてやはりこの曲は終楽章なのだな、と思う。あんなに素晴らしい冒頭のヴァイオリンを聴ける機会はそうない。後半、多くの楽器と一緒に旋律を弾くとき、あたたかい光に包まれる。その時、あぁこの曲はこの人の最後の・・・、と胸がいっぱいになる。(その感じはブルックナーのやはり9番の終楽章で感じるものと同じだった)
ニ長調で始まる第一楽章は霊感にあふれ、提示部も再現部も比類ない美しさだ。その音楽は様々な道をたどり、変ニ長調で終わる。人間の創造の可能性と、素晴らしい演奏家たちの可能性に触れた一週間だった。

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今日は少し譜読みをしてから大糸線に乗った。毎年のように出かける中綱湖、木崎湖へ。草の匂い、鏡のようにないだ湖面に映る山、その湖面に魚たちの波紋が広がる。張った気持ちが溶けていくようだった。

2017年7月30日 (日)

先日出かけたのは「AMBIENT 深澤直人がデザインする生活の周囲展」https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/170708/index.html
興味深く見て、それから深澤さんの著作「デザインの輪郭」も読んだ。うまく言えないけれど、単に製品の外観を作るのではなく、何かのアイデアを目に見える形にして、使うことのできるものにすることなのかな、と思った。それまでなかった何かを世の中に現す、ということだろうか。こういう仕事はきっとおもしろいだろうなぁ。

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こんなことを考える。日本の軽自動車という規格、車幅を広くしてエンジンも少し大きくする。すると安定性、安全性、快適さ、どれもぐっと増すような気がする。(現実は、こんなことを言い出したら大変なことになるだろうけれど)
運転はしないけれど、車に限らず、乗り物が好き。それにしても、たまに昭和の時代の車を見ると(個性的なデザインにひかれる)、今の車が大きくなっていることに驚く。車の長さが、例えば50センチずつ短くなったら、渋滞の緩和にはつながらないのだろうか。誰かそんなことを研究していないかなぁ。

2017年7月11日 (火)

7月10日都響定期演奏会のメインはブルックナーの3番。これまで弾いたことのない1873年版(初稿)で、きっと演奏されることは多くないと思う。冗長に感じられたり、この書き方は上手いとは言えない、という箇所はあったけれど、良い意味でプリミティブで、ブルックナーがどんな人だったのか感じられるような気がした。

第2楽章で次のフレーズの前にチェロのトリルだけが残るところがある。その後すぐにコントラバスだけのトリルもある。そこに来るとシューベルトの最後のピアノソナタを思い出す。変ロ長調D960のソナタには、美しい旋律の合間に、その美しさにぶつぶつ不平を言うような低音のトリルがある。
そして交響曲の終楽章の終わりの方にそれまでの楽章を回想するところがあり、木管楽器が吹く旋律が、どうしてもシューベルトの子守歌に聞こえてしまう。

指揮はマルク・ミンコフスキ。およそコンパクトとは言えないこの曲が長く感じられなかった。終始にこやかに、しかも集中は途切れずに。
それにしても第1ヴァイオリンの音符の密度と量は大変なものだ。あの人たちの仕事ぶりには頭が下がるばかりだった。

2017年7月 9日 (日)

須賀敦子さんの本、続けて「トリエステの坂道」を読んだ。以前は文章の心地良さを読んでいたところがある、今は身に沁みる。

登場する様々な人たち、豊かな境遇にあるとは言えない多くの人たち、裕福な、名の通った人たちも、同じように共感を持って描かれている。この須賀さんの視点にすっと心をつかまれるのかもしれない。生きることはどの人にとっても決して軽くない、ということに心動かされる。

同書でもナタリア・ギンズブルグの「ある家族の会話」が言及される。もしかして「トリエステの坂道」は須賀さんにとっての「ある家族の会話」ではないか、と思った。「ふるえる手」から。

『しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だって思った。
こうして、「ある家族の会話」は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。イタリア語で書くか、日本語で書くかは、たぶん、そのときになればわかるはずだった。』

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2017年6月30日 (金)

今年最初の読書は南方熊楠著「十二支考」。密度が高く、読み進むのに少々骨が折れたけれど、ページを開ける度、熊楠さんの自由さに触れることができ、まるで清涼剤のようだった。
その後は太平記。ゆっくりゆっくり読んでいて、今ようやく岩波文庫版の第5冊に取りかかったところ。ふぅ。いったんその言葉のリズムに入ることができれば、進めるのだけれど、戦いに次ぐ戦いの描写に疲れてくると、脱線して他の本を開く。ずいぶんたくさん脱線してきた。

ある本を読んでいたらその中にイタリア、オリヴェッティ社のタイプライターが大切な役割を持って登場し、さらにオリヴェッティ社と作家ナタリア・ギンズブルグとの関係も語られた。名前は知っていたナタリア・ギンズブルグの著作を読んでみようと思った。

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「ある家族の会話」、続いて「モンテフェルモの丘の家」もあっという間に読んでしまった。あっという間に読んでしまったのは、もちろんギンズブルグの書くものが素晴らしいのだけれど、須賀敦子さんの訳によるところも大きいのだと思う。僕にギンズブルグの原文を読むことはできない、でもきっとギンズブルグの文章と須賀さんの訳文は見事に一体となっている。

須賀敦子さんの本は10年以上前によく読んだ。ギンズブルグの名前を知ったのも須賀さんの文章からだった。彼女がローマのギンズブルグを訪ねていく文章がどこかにあったはず、と本棚を探した。(「霧のむこうに住みたい」という本の中の「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」) この本もあっという間に再読し、今は「コルシア書店の仲間たち」。読書の喜びここにあり、という感じがする。

ギンズブルグと須賀さんの著作を読んで共通していることに一つ気付いた。自分のことを声高に語らない。間違いなく大変なことでも、まるで他人事のようにごく短く書く。彼女たちのこの強さは一体どこから来ているのだろうか。

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