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2009年7月

2009年7月30日 (木)

演奏会の予定を

演奏会の予定を更新しました。

http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/ensoukai.html

2009年7月29日 (水)

マのトリプル

北口君にヨー・ヨー・マの弾いているトリプルコンチェルトのDVDを借りて見た。ヴァイオリンはパールマンで、バレンボイムがベルリンフィルを弾き振りしているライヴ盤だ。

ヨー・ヨー・マがハイポジションを弾く時、左手の指はほぼ伸びきっているように見える。それでどうしてあんなにばっちりなのかまったくもって不思議だ。僕らだと指先に重さがのらないと思うのだけれど・・・。美しくよく伸びる音だし、素晴らしい音楽だと思う。
パールマンはふわふわのマシュマロのような手で、本当にそのとおりのふくよかな音がする。バレンボイムは自由なチェロやヴァイオリンのソロで揺れたテンポをしっかり締め、しかも時々茶目っ気がある。ベルリンフィルは、分厚い音で本当に素晴らしい。

何度も見たくなるが、あまり見てしまうとすっかりマ色に染まりそうなのでやめておこう。

2009年7月27日 (月)

今週の一枚を

今週の一枚を更新しました。

http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/konsyu/09_727.html

2009年7月26日 (日)

チェロの修理

チェロの横板とその補強材と裏板をくっつけなおしてもらった。

僕は気づかなかったのだけれど、f字孔からのぞくと昔誰かがした修理の跡があまり美しくないことがわかり、どうやら補強材と裏板が密着していないのではないか、ということを重野さんが指摘してくださった。

接合面から大きくはみだしていた膠(にかわ)を洗い、新しい膠で接着しなおしてしっかり固定する。 はたして、楽器が強くなったことは弾いた最初からよくわかった。なじむのに時間がかかる、と言われたとおり、数日は知らない楽器のようだった。今はかなりよくなりそうな感触がある。20センチにもならないくらいの長さの修理で大きく変わるから不思議だ。

楽器の状態はとてもよくなった。あとは人間。

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2009年7月25日 (土)

イッセー尾形「わたしの大手町」

イッセー尾形の一人芝居「わたしの大手町」を観た。(24日日経ホール)
おもしろい!2時間で7つの演目、実によく笑った。どうしてあんなにおかしいのだろう。こういう人きっといる、でもよく考えるといないかも・・・、というツボのくすぐられ具合と外し具合が絶妙だった。

初めて実際に観る一人芝居は、奥行きがあって見事だった。ひとつひとつのしぐさや、よく通る声、声量のコントロールもさすがと思った。
また観たい。

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2009年7月24日 (金)

いよいよ

10月の演奏会のチラシができてきて、チケットも発売されました。

東京 10月1日(木)19時開演 ムジカーザ(代々木上原)

名古屋 10月4日(日)14時開演 電気文化会館コンサートホール

ピアノ:鈴木慎崇

ラフマニノフ:チェロ・ソナタ他

全自由席 ¥3,000

東京・名古屋公演とも、お手数ですがお問い合わせは

ルンデ: 052-861-0162

までお願いいたします。

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2009年7月23日 (木)

大島も雨

22日は都響大島公演。

12月に行った小笠原も5月の八丈島も、今回の大島も雨、雨、雨。僕は雨男ということか。Photo

2009年7月22日 (水)

「音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク入門」

ペドロ・デ・アルカンタラ著「音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク入門」を読んだ。
実際にレッスンを受けないとアレクサンダーテクニークを理解することはできない、と本書の中で幾度も書いてあるからきっとその通りなのだろう。でもそれにしても示唆に富む本だった。演奏をする人間にとって、多くのヒントがある。テクニークの説明だけではなく様々な音楽家の言葉も紹介されていて、それらを読むと自分は変わらざるを得ないと思う。

「シュタルケルは次のように書いている。『本当に‘リラックスした‘演奏とは、筋肉の緊張が均等に分配された状態を言う。・・・力は、弓や左手を通して、弦との接点に伝わっていく。腕からのその力は背中の筋肉を源としている。両腕を上げるには、上腕ではなく、背中の筋肉が必要である。』」

「フェルッチョ・ブゾーニとディヌ・リパッティのものとされる金言がある。『ピアニストは、スパゲティのような腕と、鋼の指で演奏しなければならない』」(ゆですぎたスパゲティのような指と、がちがちの腕で弾かないように気をつけよう・・・)

ブゾーニの言葉として、「(ピアノの練習とは、)頭が次々に生えてきては、すぐにそのほとんどが切り取られてしまう動物のようだ」

「・・・それとは別の良くない要因となるのが『ずさんな感覚認識』である。簡単に言えば、平均的なコーディネーションの持ち主は、自分自身が何をしているのか明確に認識できていない。」
自分の演奏の録音を聴いて思っていたこととの違いに驚くのはまさにこれだと思う。自分がしていることを把握するのは本当に難しい。

また両側性転移(右手を鍛えると左手も強くなる、ということだろうか)に言及した章もある。今の僕にピアノをさらうことはとても意味があることだと思う。

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2009年7月21日 (火)

今週の一枚を

今週の一枚を更新しました。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/konsyu/index.html

2009年7月19日 (日)

水の入ったコップ

例えば鳥の羽ばたきをスローモーションで見るように、チェロの弦の振動を高速撮影してゆっくり見られたらきっと驚くほど複雑な動きをしているのだろうと思う。
もし弦が単純な往復運動をしているとしたら、行きと帰りのどちらかは必ず弓の動く方向と逆に振れていることになる。そこのところは一体どうなっているのだろうか?

小さい頃、きれいに洗ったコップに水を入れてその縁をぬらした指でなぞって音を出した。弦楽器の弓の使い方もそれに通じるところがあるのではないかと思う。音が伸びるちょうどいい加減がどこかにある。

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2009年7月18日 (土)

人間にも楽器にも

蒸し暑い今の時期は人間にも楽器にも快適ではない。高い湿度のために楽器が鳴らないなどと言い訳していては仕事にならないので、このことは気にしないようにしているのだが、どうも調子がよくないので重野さんに見てもらった。

もしかして魂柱に近い側の横板を裏板にくっつけている補強材と裏板の接着面が密着していないから、魂柱の圧力をしっかり受け止められず問題が生じているのかもしれない、という話になった。その通りなら楽器の調子がくるくる変わることも、場所を突き止められないノイズが出ることも説明がつく。楽器を箱としてみた時、接着面の強度不足で箱の強さが出ず、接着面が密着していないためにびりびりいう、ということだ。、
表板を開けるような大工事は必要ないが数日を要する作業なのでまた後日、ということになった。意外に変化がないのか、劇的に楽器が強くなるのか、たぶんどちらかだと思う。

2009年7月17日 (金)

ピアノでさらうピアノとさらう

ピアノ伴奏のついたソロの曲をさらう時、これまで左手のパートをチェロで弾いたり楽譜を見ながらCDを聴いたりはしていた。とうとう家にピアノが入ったので、弾けないなりにピアノパートを弾きながらさらっている。メロディーやリズムまでは無理でも、ハーモニーだけなら弾ける。どうして今までこうしてこなかったのだろう。
音楽が全く違う顔を見せ始めた。チェロで弾くか、口ずさむしかなかった音符を別の楽器、とてもしっかりとした楽器で音にできるのは、音楽がようやく地に足をつけたようだ。逆によちよち弾いているインヴェンションの一つの声部をチェロで弾いてみたりもする。ピアノと弾く時のことを考えると、チェロでひらべったい音を出す訳にもいかないことがよくわかる。

2009年7月14日 (火)

カザルスホール

カザルスホールで行われた頼近さんお別れの会で弾いた。

カザルスホールは学生時代よく通って多くの演奏会を聴いたし、何度も弾かせてもらってきた。
大変残念なことになくなってしまうそうだ。通い詰めた6日間のチェロ連続リサイタルをはじめとする主催公演は、斬新な企画が目白押しだったのだと今わかる。

我々14本の弦楽器を小澤さんが指揮してチャイコフスキーの弦楽セレナーデを演奏した。小澤さんは実際に音が出ている楽器より上に音楽を生じさせようとしているようだった。現実の世界より上を見ているようだった。

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2009年7月12日 (日)

最も才能のある人は

どのくらい本当の話か知らないが、ロストロポーヴィチが「一番才能のある人がピアニストになり、二番めがヴァイオリニストに、チェリストは三番目」と言ったそうだ。

オーケストラの仕事をしていると様々なピアニストに接する機会があり、確かにその通りと思いたくなる。もちろん戦車のようにばりばり弾く人もいる、でも時々こういう世界を創れる人は他の楽器ではいないなぁと思うことがある。ピアノは一人で旋律も和声も弾けるから、より広く深く音楽をとらえやすいのだと思う。
全ての音楽人口の中で、ピアノ人口はとても多いということもあるだろうけれど、巨大な才能を持つ人が何人もいると思う。

さて僕はよちよちピアノをさらっている。もちろん直接チェロの演奏に役立つのではないか、という下心は持っていた。ほんの一日二日さらっただけで、弓を持つ右手がものすごく柔らかく自由な感覚を持った。これまで僕の右手の指はあまり独立せず、ドラえもんの手のようにひとかたまりでしかなかったらしい。

ピアノ

ピアノが届いた。
部屋の片付けをしなくてはならなかったのはそのためだった。本当はもちろん本物のピアノが欲しかったのだが、寸法の問題で電子ピアノになった。うれしい。いろんな機能が付いていて、パイプオルガンの音色にしてハ短調の和音を弾くだけで、おーっとなる。

普通、音楽大学に入学して卒業するためには、どんな専攻でもある程度ピアノが弾けなくてはならない。でも僕はほとんど弾けない。桐朋のディプロマコースでは自分の楽器さえ弾いていればよかったのだ。一応副科のピアノは履修していたけれど、お話しにならない生徒だった。

ピアノが一般的だとは言わないが、チェロは特殊な楽器だと思う。チェロを弾く都合でしか音楽を捉えられないというのはどうにも狭すぎる。ピアノならかなり自由に和音が弾けるし、3声は難しくても2声ならどうにか弾けるかもしれない。ソロの曲の和声をもっと感じたり、バッハの無伴奏の違う姿が見えてきたりするはずだと思う。

何よりピアノのいいところは、ふたを開けたらすぐ弾けることだ。
チェロはまず楽器を出してエンドピンを伸ばし、弓を張り、松脂を塗り、調弦をし、と音を出すまでの作法が実に多い。気が進まない時はさらに、手を洗ったり、歯をみがいたり、コーヒーを飲んだり、CDを聴いたり、昼寝したりと儀式が増えてなかなか始まらない。それに30年以上まがいなりにも努力してきたからたとえ半歩でも前に進むのはとても大変だ。今日再び始めたピアノはぐんぐん伸びると期待しよう。

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2009年7月10日 (金)

オイストラフ

日曜日のプログラムにシベリウスのヴァイオリン協奏曲があるので、CDを聴いた。当然あると思っていたヌヴーの録音はなんと持っていなくて(実家のLPレコードをさんざん聴いたのだった)、オイストラフの演奏を聴いた。協奏曲ばかり入った10枚組のもので、全てライブ盤。

録音の状態は決していいとは言えないが、演奏するとはどういうことなのか考えさせられた。簡単に言えばとても感動したのだ。あの困難な時代にこんな素晴らしい演奏をする人がいた、というのは本当に特別なことだっただろう。
ロストロポーヴィチがオイストラフに関するインタヴューの中で、音楽は太陽に向かって開いた窓だ、この気持ちは西側の人たちには理解できないだろう、と言ったことを思い出した。

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2009年7月 9日 (木)

片付け

特に部屋を片付けることと物を探し出すことに関して僕には絶望的に能力がないが、今必要に迫られて片付けをしている。

オーケストラの仕事をしているとCDも仕事道具のようなもので、どんどん増える。大容量のCDラックが二つあるのにもうあふれてどうしようもなくなってきた。(CDも本も山積みにすると最悪で、たけのこのようにあっという間に山が成長してさらに別の山ができる・・・。)
CD店のレジ横でCD2枚をすっきり収納できるケースを見つけて、それで整頓することにした。バッハの無伴奏チェロ組曲に始まり、マーラーの交響曲、オペラ、グールドの様々なアルバムなど、2枚組みの大きなケースが半分以下の厚さになる。これでしばらくしのごう。

Cd

2009年7月 8日 (水)

雨の北九州

今日は北九州響ホールで仕事。いいホールで弾けるのは嬉しい。

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2009年7月 6日 (月)

今週の一枚を

今週の一枚を更新しました。

2009年7月 5日 (日)

さらうことⅡ(続き)

先日あるチェリストがとても興味深い練習をしていたので尋ねたら、不思議そうな顔をしながら、トルトゥリエの本の第3部と教えてくれた。
僕は倉田澄子先生に習い、倉田先生はトルトゥリエの弟子だった、彼はそのことを知っていたからだ。恥ずかしいばかりである。

帰宅してトルトゥリエの本「HOW I PLAY HOW I TEACH」を引っぱり出した。(この本は学生時代同級生から借りたままのもの。本当にすみません。)
今までろくに開いてもいなかったのだけれど、読んでみるとものすごくおもしろい。彼はいかにチェロを弾くか、ということを考え抜いていたことがよくわかる。早速始めてみよう。ただし、トルトゥリエの手は尋常でない強さだったはずだから気をつけないとすぐ手を壊してしまいそうだ。
トルトゥリエが部屋にこもって静かなまま何時間もしてから出てきて、今日はよくさらった、と言ったことがあったそうだ。弓を使わずにひたすら左手の練習をしていた、そういう逸話がある。

残念ながら僕の年でも気をつけていないと手や体や頭は硬くなり始めているし、放っておくとすぐおとろえるのがわかる。
トルトゥリエは最後の最後まで現役で、素晴らしいバッハの6番を弾いたそうだ。
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さらうことⅡ

毎週金曜日に「スーパーピアノレッスン 巨匠ピレシュのワークショップ」という番組が放映されていて、欠かさず見ている訳ではないが、とてもおもしろい。

弦楽器のレッスンでは先生と生徒で楽器や弓が違うので、どうしても言い訳が入る余地がある。ピアノは同じ楽器を使うのに残酷なほど差が出て(弦楽器でも結局はそうなのだろうけれど)、見る側にはその分はっきりわかる。
若い子のレッスンの時ピレシュが、「ピアニストはマシンガンのような練習をしたがる」ということを言った。僕が理解した意味はこうだ。均一に弾けるように徹底的に、機械的に練習すること。例えばあるパッセージをリズム練習するとかメトロノームで一目盛りずつ上げていくとか。
彼女が言いたかったのは音楽から離れて技術のみを追求する練習には気をつけた方がいい、ということだと思う。そういう練習をしていると、状況が変わった時に対応できなくなる、とも言っていた。

この言葉を聞いて僕はとても楽になった。
技術を追求することは確かにおもしろいし、職業音楽家としてある程度鍛錬されたものは持っているべきだろう。しかし音楽の表現が第一にあるという当たり前のことがおろそかになっていた。
技術的な都合で歪んだ演奏は、技術を改善することで多少よくなるだろうが、それは本質的になにも解決されていない。ただ音楽に従えばいいのに。そのための技術だ。どうして今まで気づかなかったのだろう。ちょっと恥ずかしい。(続く)

2009年7月 3日 (金)

ちらしの校正

昨日、10月の演奏会のちらしの最初の校正をした。デザインは任せてあるのだが、いい意味で予想に反していてうれしかった。いくつか手直しをして、あとどれくらいで印刷にかかれるだろう。
ちらしができあがると、演奏会がとうとう形あるものになってくる。

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2009年7月 2日 (木)

久しぶりの江ノ島

先日久しぶりに江ノ島に行った。写真に夢中だった頃はおそらく2ヶ月に一度は行っていたと思うが、今回は半年ぶり。

江ノ島の猫は穏やかな顔をしているように見えて、よく通った。
でも数が減っているかもしれないと今回思った。猫は好きな人もそうでない人もいるから、外から来る人間がとやかく言うべきではないだろうし、江ノ島にも猫の世話をしている人たちがいるからこそあの穏やかな表情があるのだと思う。
初めて江ノ島に行った時、とても印象深い写真が撮れた。菜の花を背景に人間のオヤジのようにどっかり座った、鼻の黒いぶさいくな猫だ。不思議なことに、その猫には先日も会えた。何歳になるのだろう、もしかして子孫なのかもしれないけれど、いつも同じ場所にいて会えるとほっとする。

夢中で猫の写真を撮っていたころ、行く先々で忘れ難い個性的な猫に会えた。最初は上野の不忍池、江ノ島、城ヶ島、京都、倉敷、長崎、名古屋の実家の近く、鎌倉、横浜、初島、川崎の貝殻海岸、・・・。地図や口コミで見当をつけて行くと期待を外すことはあまりなかった。
でもしばらくしてその楽しい記憶を頼りに再訪すると、ほとんどの場合猫はいなくて空っぽの空間があるだけで、僕だけ取り残されたようだった。
今ああいう出会いをするのはなぜかとても難しくなった。猫は不思議な生き物で、追いかけるといなくなるような気がする。

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2009年7月 1日 (水)

「セザンヌ」

ガスケ著「セザンヌ」をとてもゆっくり読み進んでいる。こんな箇所があった。

『ところが、先生たちというものは自分の知っていることしか教えられない、しかも何も知らないのだ。芸術はこつとか、処方というものには用がない。本当の巨匠はそんなものを使っていない。セザンヌは、この時代の不幸のひとつだが、師を持たなかった。独りきりで、自分を求め続けた。一生をそのために費やしてしまった。シエナやフィレンツェの画家以来、ヴェネツィア派以来、一つのアトリエから他のアトリエへ次々と、ダヴィッドまで伝わってきたあの伝統、あの体験された、同業組合的な稽古を、たった一人で再発見しなければならなかった。彼は殉教者としてそれを生きた。』

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