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2009年8月

2009年8月31日 (月)

毎回違う景色が

8月30日、戦争レクイエム4回目の本番。
4回の演奏会は毎回まるで違う景色が見えた。28日の演奏会は遠くまですっきり見通せるような印象だったけれど、最終日は戦争レクイエムの歌詞のまま、とにかく重かった。
午前中かなり集中したパッチセッション(戦争レクイエムの部分的な録音)があって、皆が疲れていたのか、本番中具合が悪くなる人がいたり、弦を切る人がいたり、普通ではなかった。あまりこういうことは感じないし言いたくないが、何かがホールに来ている感じだった。
小澤さんの集中力はいつも変わらず、本当にすごいと思った。

終演後松本でゆっくりして、今日は名古屋へ。夕方時間があったので実家の近く、以前猫の写真を撮ったところにカメラを持って出かけた。不思議なことに気配もなかった。

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2009年8月29日 (土)

生き生きと澄んだ目で

エリザベス・ウィルソン著「ロストロポーヴィチ伝」を読み終わった。
ものすごくおもしろかった。白眉はなんといっても、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ブリテンとの関わりだと思う。楽譜でしか知らない作曲家たちの生の姿や、作曲の課程がありありと浮かび上がる。戦争レクイエムのことも少し出てきた。
モスクワ音楽院でのロストロポーヴィチの弟子たちの証言も興味深い。僕が20年近く前に霧島の音楽祭でナターリャ・シャホフスカヤに習った時、彼女は数々のエピソードを話してくれたし、例えをたくさん使った厳しく素晴らしいレッスンをしてくれた。そのおおもとはモスクワ音楽院での彼のクラスにあったことがよくわかる。

人生にif(もし)という言葉はないと思うが、去年読んだシュタルケルの自伝やこのロストロポーヴィチの伝記が、20年前とは言わなくても、せめて10年前に存在して読んでいたら、僕の人生はずいぶん違っていたのではないだろうか。そのくらい楽器を演奏する面でも生きていく上でも示唆に富んでいる。

今日はロバート・マンさんの演奏会。すべてのプログラムを暗譜で、立ったままの指揮だった。皆が多少の緊張か、とても真剣な顔で弾いていても、マンさんは明るく楽しそうに、生き生きと澄んだ目で音楽を生み出していた。

3回目の本番

8月28日、戦争レクイエム3回目の本番。
オーケストラのように大人数の仕事になると、人間の力の及ばないところの何かがあるような気がする。もちろん皆がいい演奏を願っている訳だけれど、何故かうまくいったりいかなかったりする。
うまくいっているときは、気の流れが滞らないですっと通るような、全員の方向性が自発的に揃ったような、そんな感じがする。そしてどんなに長い曲でもあっという間に最後のページになっている。

今晩の演奏会はそんな様子だった。戦争レクイエムは、僕にとって何度弾いても体に入らず馴れないし、終曲のリベラ・メにややこしいところがあるから、静かな2拍子にたどり着くまで、気が抜けない。
でも今日は気がついたら最後のページにいた。

明日はマンさんの演奏会。

2009年8月28日 (金)

いい流れが

8月27日、早起きして犀川にちょっとだけ釣りに行く。
木戸橋下流のいつものポイントに入ったら、水が多くてびっくりした。川底の形も変わってしまったと思う。今回は釣果なし。後で聞いたら橋の上流の方に魚はいるらしい。

夜は戦争レクイエムの2回目の本番。これだけ複雑な仕掛けの曲だからもちろん無傷ではなかったけれど、良い流れの演奏会だったと思う。
終演後チェロの飲み会。戦争レクイエムとAプログラムは珍しく男だけ。いい時間まで楽しく飲んだ。

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2009年8月26日 (水)

誰よりも明るく

今日からロバート・マンさんの指揮するベートーヴェンの8番のリハーサルが始まった。
マンさんは89歳、でも誰よりも明るくポジティヴだ。同じ舞台にいると当然こちらも楽しくなる。

戦争レクイエムはもちろん素晴らしいけれど、チェロの果たす役割は決して大きくない。より黒子になり、より職人的な仕事をすることが要求されると思う。
シンフォニーを弾くのはやはり楽しい。

2009年8月25日 (火)

松本の気候

8月の半ばに蓼科にいたとき、今年は秋になるのが早いと思った。松本の日中は暑いが、朝晩はすっかり秋の空気になっている。
楽器も弓も、松本の乾いた気候で夏の重い感じがなくなった。高くてきつかった弦も落ち着いたし(じっさいにはたぶん1ミリ弱の変化だろうけれど、僕のへなちょこの指には辛かった。)、弓の毛も乾燥してずいぶん短くなった。

今日は戦争レクイエムの初日。昨日の閉じた感じはなかった。あれは何だったのだろう。

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2009年8月24日 (月)

困難だからこそ

ネイガウスはこんなことも書いている。
「耳の不自由なベートーヴェンは、前代未聞のピアノの響きを生みだし、何十年先を見越したピアノの発展を決定づけました。」
また別の箇所では、耳が不自由だったからこそ、ベートーヴェンはあのような素晴らしい音楽を書けたのではないかとも述べている。

ソ連時代の音楽家も、あのような困難な時代だったからこそ、あれほどまでに素晴らしかったのではないか、と僕は考えたりもする。
エリザベス・ウィルソン著「ロストロポーヴィチ伝」を読んでいる。ものすごくおもしろい。

今朝は久しぶりに釣りをした。松本駅近くの釣り道具店であれこれ教えてもらって梓川に出かけた。小さかったけれど魚に遊んでもらって、何となく頭のすっきりしない感じが吹き飛んだ。
チェロに夢中になると、どうもやりすぎるらしい。気持ちのふくらみはやはり大事だ。

夜は戦争レクイエムのゲネプロ。公開で、たぶん8割以上は客席が埋まっていたと思う。
音は、どうしてだろう、開いていかない感じだった。皆が緊張していたのか、人がたくさん入って響きが吸収されてしまったのか。

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2009年8月23日 (日)

ネイガウス

アレクサンダーテクニークの本であまりにたびたびロシアのピアニスト、ネイガウスのことが取り上げられていたので、エレーナ・リヒテル著「ネイガウスのピアノ講義」とゲンリッヒ・ネイガウス著「ピアノ演奏芸術」を読んだ。後者は読むのにちょっと骨が折れるけれど、本を読んでこんなに音楽的に何かを得られるとは思わなかった。
ネイガウス自身の録音もいくつか出ていて、ベートーヴェンのソナタが入ったCDも聴いた。音楽とは何か、何が音楽なのか少しわかるような気がする。楽譜の表面ばかり追いかけていた自分が恥ずかしくなる。

演奏する楽器によって人間の性格はずいぶん変わってしまうと思う。でもその中でもピアノは特別だと思う。「ピアノ演奏芸術」の中に、
『ピアノよりは感覚的という点ではるかに<具体的>で表情豊かな楽器類、すなわち、人間の声、フレンチホルン、トロンボーン、ヴァイオリン、チェロ、その他に比べて、ピアノの音にはある種の抽象性があります。この<抽象性>、<知的探求性>でさえ、強いて言うなら他と比べることのできない高度な資質であり、争う余地のないピアノの特性であるとも言えます。ピアノは楽器のなかでもっとも知的であり、それだからピアノはもっとも広い演奏範囲を支配し、はてしない音楽上の巨大空間を引き込んでくるのです。
・・・・・
ピアノは―私の考えでは―もっとも知的な楽器で、他の楽器のもつ官能的<肉体>はもっていないというまさにこの理由からこそ、ピアノのもつ豪華きわまりない可能性のすべてを完全に解明するためには、演奏する人の想像力のなかにより感覚的で具体的な音のイメージが存在することが、許されるとともにまた必要でもあり、さらには人間の声や、地上に存在する各種の楽器の音に具体的に現れるさまざまな様相を呈した現実的な音色や音の味わいが、演奏家の心にすでに宿っていることが、許され、また必要でもあります。しかしこれらすべてをピアニストが完全に知り、感じなければならない主な理由は何でしょうか?
・・・・・
ピアニストはたったひとり、孤立無援で一つの楽器と対峙し、だれの援護をも必要とせず、絶対的に統一性のあるイメージを生みだし、何か、最高の、完璧なもの―ピアノの作品― を創造していくからです。音楽すべてがピアニストの手にかかっている、彼ひとりにだけかかっているからです。・・・』

2009年8月22日 (土)

席から見える景色

戦争レクイエムではとにかく舞台上が込み合っているのであまり見通しはよくないのだけれど、僕の座っている席からは「室内オーケストラ」のホルンのバボラク、打楽器のゼーガースの二人がよく見える。

ホルンは難しい楽器のはずなのに、バボラクにはまったくあてはまらないらしい。時として大きな森のような音楽だったり、またある時は最上級の青磁の器のようにひんやりと美しい光沢のある音だ。

打楽器はいつもオーケストラの後方にいるので、演奏しているゼーガースを見るのは初めて。仕事をしている時の横顔は本当に格好良く、ほれぼれと見てしまう。
何気なくたたいているようなのに、完璧なタイミングは言うまでもなく、抜群の音程感や引き締まった音色が出てくるのは魔法のようだ。

二人の体の使い方には共通点があると思う。無駄な動きがなく、自分の出している音をものすごく冷静に聴いているように見える。

2009年8月21日 (金)

年に一度

例えば松本のように年に一度の仕事に来ると、去年のことやこの一年過ごしてきたことをどうしても考える。
もちろん一年のあいだにはいろいろなことがあり成長しているつもりではあるけれど、今年は特に自分のいたらなさ、去年はさらにいたらなかったことが身にしみる。

でも松本にきてうれしいのはさまざまな素晴らしいプレーヤーの音を間近に聴けることだ。
昨日までのリハーサルは部分部分を取り出すものだった。今日からは全体の流れが見られそうだ。

2009年8月20日 (木)

戦争レクイエム

ブリテンの戦争レクイエムのリハーサルが始まった。
指揮台の小澤さんの両隣にテノールとバリトンが立ち、その3人を11人の管弦打楽器奏者による「室内オーケストラ」がぐるりと囲み、その後ろに14型の弦楽器、管楽器、打楽器、オルガン、合唱団、最高列にソプラノのソリスト、というように並ぶ。だからステージはぎっしり人間で詰まっている感じだ。さらに児童合唱もいて、彼らはまた別の場所にいる。
まだ全ての部分の音を出した訳ではないが実際に演奏してみると、いい曲かもしれないと思った。内容がシリアスなので、弾くのもとても辛いかと思っていた。

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2009年8月19日 (水)

今年は

今日からサイトウキネンのリハーサルが始まる。

去年は疲れていたせいだと思う、期間の半ばで大風邪をひいてしまった。今年はそういうことのないように過ごそう。

2009年8月18日 (火)

秋の気配

8月前半までは東京にもよく雨が降り空気が湿気でこれ以上ないほどふくらんで、その過ごしにくさにひたすら耐えていた。
たぶんその湿度のせいで、普段低めの僕のチェロの弦高(指板と弦の距離)がかなり高い。指板が下がったのか楽器の胴がふくらんで駒が上がったのか、その両方か。なまくらな指にちょっと辛い状況だけれど、冬になればまた低くなるはずなので、それまでなんとかしのごうとしている。

お盆が過ぎて空気が入れ替わり、からりとした暑さになった。空気が乾燥してくるのはやはりうれしい。楽器の重たい感じも抜けてきたし、弓の毛が伸び続ける感じもなくなった。松本は暑くても乾いているので、たぶんこのまま楽器の調子は上向きになり、弦高も落ち着いてくれると思う。

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2009年8月17日 (月)

今週の一枚を

今週の一枚を更新しました。

http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/konsyu/09_817.html

2009年8月16日 (日)

カルテットの手

蓼科にいる間は、朝10時から夕方の5時半くらいまで、けっこうまじめにカルテットの練習をしていた。
自分の練習はほとんどせず、合わせだけしていたのでちょっと心配だった。ラヴェルでは高い音域が少し出てくるけれど、ベートーヴェンもモーツァルトも低いポジションばかりなので、トリプルやリサイタルで弾く曲で多用するハイポジションはほとんど使わない。手がかたまってしまったような気がしていた。

でも今日さらってみたら抜群に調子がいいので驚いた。4日間和声のバスを支えるためにいつもより確実に押さえていたのだ。
僕のマカロニのようにふにゃふにゃの手にもまだよくなれる余地がうんとある。

2009年8月15日 (土)

化石博物館

8月14日柏木化石博物館での演奏会、多くの方にお越しいただき本当にありがとうございました。

天候にも恵まれ、もう爽やかな秋の風の吹く蓼科で弾けてうれしかった。ヴァイオリンの佐分利恭子さん、森田昌弘君、ヴィオラの鈴木るかさんと、演奏会の3日前に蓼科入りして、まるで学生のように合宿で練習した。森田君と弾くのは、桐朋の室内楽の授業以来。

特別重たいプログラムではないのに、モーツァルト、ベートーヴェンの18の1、ラヴェルと3曲弾いたら、左手はめいっぱいになっていた。フルタイムでカルテットの仕事をしている人たちは本当に尊敬されるべきと思う。水面下の、見えない部分にものすごく労力が必要だ。
18の1を弾くのは多分2度目。前回に比べてとても難しく、そしてとても素晴らしい音楽に感じられた。

終演後帰京して、松本に行くまで少しの休み。

下の写真は蓼科滞在中にたくさん頂いた、藤田さんの育てた美味しいトマト。

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2009年8月13日 (木)

作品18の1

蓼科ではラヴェルの弦楽四重奏の他にベートーヴェンの作品18の1も弾くので、東京カルテットの録音を聴いた。ピーター・ウンジャンと原田禎夫さんがいたときのベートーヴェンのCDは学生時代よく聴いた。今聴いても本当に素晴らしいと思う。
10年以上前に東京カルテットに習ったことがある。その時すでにウンジャンはいなくて、新しい第一ヴァイオリン奏者を探している時だった。
禎夫さんには今年も松本でお会いできる。彼の音を間近に聴けることは、サイトウキネンに参加する幸せのひとつだ。

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2009年8月12日 (水)

ジャコメッティ

毎日がんばってさらっているとそれなりに進歩した気がする。だからいつも一ヶ月くらい前の自分は何もできなかった何も知らなかった人のような気がする。でもすぐまた未熟に気付きがっかりする。

矢内原伊作著「ジャコメッティ」は大好きな本だ。彫刻家ジャコメッティの創作の現場がなまなましく語られる。美術館でジャコメッティの、たいていは小さい凝縮されたような作品を見ると彼のうめきやののしりの言葉が聞こえてくるようだ。

「ジャコメッティはいつも、いまこそ真の仕事の入り口にいる、いま一歩で真実を把握できる、という意識にかりたてられていた。そのために彼は瞬時も休むことができないのだった。と同時に他方、この絶大な労苦がまったくの徒労に帰するのではないか、自分の企てはもともと不可能な試みで、何の成果にも達しないのではないか、という恐ろしい危惧にとりつかれていた。そのためにも彼は瞬時も休むことができないのだった。『可能か不可能か、これを知るためにも仕事を続けなければならない』と彼は言った。・・・」

「すべり出しはたいてい調子よく行く。『二年前あるいは三年前にぶつかったような困難はもうない。今度は何らかの成果に達し得るだろう。』意気込んで彼はせっせと筆をはこぶ。『こんなに遠くまで進んだことはかつてなかった。三十年間試み続けて成功しなかったことが、今や成功の一歩手前まで来たのだ。』しかしたちまち困難がやってくる。『駄目だ、これは全く不可能だ。』ありとあらゆる悲観的な言葉をはき続けながら彼は真暗になるまで筆をおかない。『ああ』と彼は嘆く。『今日は確かに非常に進歩した。しかし更に進歩するためには既に描いたものを全部こわして初めからやり直さなければならない。こわすか放棄するかどちらかだ。』こうして彼は苦労して描いた私の顔を塗りつぶしてしまう。真暗になってようやく筆をおく時、彼はきまってこんなふうに言った。『今日の状態は非常に悪い。しかし悲観してはいけない。明日の最初の十分間で何倍もよくなるだろうから』と。」

2009年8月11日 (火)

今週の一枚を

今週の一枚を更新しました。

http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/konsyu/09_810.html

2009年8月10日 (月)

盆と正月が一緒に

少し時間ができたので、6月からのいろいろな演奏会の録音を編集してCDに焼いた。文化会館のロビーで弾いた無伴奏のものはちょっと怖くて聴いていなかったのだけれど、とにかく整理をした。
もちろんその時々で最善を尽くしているのだが、少し日がたつとどうしてこんなことがあの時わからなかったのだろう、といつも思う。何かあるたびに自分の未熟を思い知らされ、もう38歳なのに大人になった気がしない。

9月のトリプルと、10月のリサイタルは日が近く、まるで盆と正月が一緒にくるようだ。
トリプルの練習が本格的になってきた。先日は第一楽章の一部を人前で弾く機会を設けて、さらっているだけではわからないことがいっぱいあった。楽しみな演奏会だけれど、それまでにもう一山も二山も越えなくてはならない。

2009年8月 9日 (日)

すでに人生を経験してきたような

昨晩庄司紗矢香さんを取り上げたTV番組が放映され、とても興味深く見た。

オーケストラの仕事をするようになって幾人ものヴァイオリニストを聴いてきたけれど、彼女は最も印象の強い演奏家の一人だ。
彼女の話を聞くといつも、とてもその年齢の人とは感じられない。誰かが、すでに一通り人生を経験してきた人のようだ、と言ったことを聞いたことがあるが、その通りと思う。

スタジオでの受け答えの中で、「作曲家は演奏家のためにあるのではない、演奏家が作曲家のためにあるのだ」という意味のことを言って、確かに、と思った。強い技術や表現力を持っていても、もしひたすら自分をアピールするような演奏をされたら、やはりそれは違うと感じてしまうだろう。

演奏している時も演奏していない時も、体の軸がぶれない。座ったり立ったりしている姿もとても美しいと思った。
ヴァイオリンを弾いている時、実際に楽器を操作している体と、耳や頭は独立しているようにみえた。自分のしていることを確実に把握しているのだと思う。すごいなぁ、これができないんだなぁ。

2009年8月 5日 (水)

フジヤマのトビウオ

古橋広之進さんがローマで亡くなられた。
「魚になるまで泳げ」という彼の言葉がメディアに取り上げられているが、本当にそうなのだろうと思う。

蓼科に行く前にトリプルの一部分や秋のリサイタルのプログラムから一部を弾かなくてはならず、あれもこれもという感じでさらっている。ずいぶんよくなったと思ったり、たいして変わっていないとわかったり、毎日忙しい。
すぱん、と遠くに抜けていく音が欲しい。

2009年8月 3日 (月)

今週の一枚を

今週の一枚を更新しました。

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2009年8月 1日 (土)

大きなピアノ

練習の合間に文化会館の大リハーサル室にあるスタインウェイのピアノを、少しだけ、弾いてみた。オーケストラのプログラムにピアノ協奏曲があるとソリストが弾く楽器だ。
比べるものでもないし、そんなことも知らなかったのかと言われそうだが、家の電子ピアノとはまったく別物だった。目の覚めるような華々しい音が、素晴らしい反応の良さで出てくるのにびっくりした。たくさんの倍音を含んだ音が瞬間的に出てくる、というのは古くなって強くなった銘器といわれる弦楽器の特徴にも通じると思った。

現代のグランドピアノがこんなに高性能になっていると、例えばベートーヴェンのチェロ・ソナタや、秋に弾くラフマニノフのチェロ・ソナタは、やはりバランスをとるのは難しいと思った。半分くらいに落としたピアノの音量に、めいっぱい弾くチェロで太刀打ちできるだろうか。

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