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2010年5月 5日 (水)

石火之機

ペレーニが椅子に座るや否や弾き始めるのがやっぱり不思議だ。心にある音楽と、楽器を弾く体との間に隙間がないのかもしれない。

普段のオーケストラや室内楽の仕事の時、誰かが始まりの合図を出す。それはほとんど無意識の習慣になっているけれど、これがもしかして演奏を大きく左右しているのだろうか。

内田樹さんの著書「日本辺境論」に『「機」の思想』という章があり、その中で澤庵禅師の言葉が紹介されている。
『石火之機と申す事の候。(・・・)石をハタと打つや否や、光が出て、打つと其のまま出る火なれば、間も透間もなき事にて候。是も心の止まるべき間のなき事を申し候。(・・・)たとへば右衛門とよびかくると、あつと答ふるを、不動智と申し候。右衛門と呼びかけられて、何の用にてか有るべきなどと思案して、あとに何の用かなどいふ心は、住地煩悩にて候。』

本番の舞台でもっと無意識に自由になれたら演奏はきっとうまくいく。はっとしたり余計な心配をしたりした瞬間に演奏の流れが失われているのだから。

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