もう一つの宇宙戦艦ヤマト
博多で教えて頂きました。YouTubeで「宇宙戦艦ヤマト ヴィオラ五重奏」と検索してください。秀逸な演奏が聴けます。
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博多で教えて頂きました。YouTubeで「宇宙戦艦ヤマト ヴィオラ五重奏」と検索してください。秀逸な演奏が聴けます。
昨日は福岡で久しぶりに九響の仕事だった。放送の仕事だったので譜面台まわりは混沌。いっぱいあるケーブルをどれか一本抜くと怒られるんだろうなぁ。いつも抜いてみたくなる。
普段と違って五木ひろしさんの「追憶」や、ささきいさおさんの「宇宙戦艦ヤマト」などを間近で聴けて楽しかった。小さい頃ヤマトのイントロが大好きだった。
短い滞在だったけれど九響のエネルギッシュな感じも楽しかった。
今朝6時半博多発の新幹線に乗る予定でホームに上がろうとしたら、車両基地トラブルでその新幹線は一つ先の小倉始発に変更、というアナウンスが流れていた。?先の駅にどうやって行くの、と思ったら6時発の新幹線の出発を遅らせて小倉で連絡、ということだった。やれやれ。僕はこういうことによく遭遇する。
車中でヴァイオリンの島田さんにばったり会った。宗次ホールで演奏会だったそう。
新幹線がスピードアップして東京名古屋間くらいだとおちおち寝ていられなくなった。博多は寝ても寝てもなかなかつかなくていい。画像は新山口の近く。
幸い台風より先に帰京できた。東京は寒かった。
ル・クレジオの「無限に中ぐらいのもの」を読んでいたらこんな一節があった。
『・・・とりわけ、彼がけっして見失ってはならないのは、芸術や哲学よりもはるかに重要なものとして、彼の生きている世界があるということだ。精密で、巧妙で、これもまた無限な世界であって、そこでは過ぎてゆく一秒一秒が何ものかをそれにもたらし、それを変形し、作りだしてゆくのだ。そこでは一つのテーブルの角が一つの文明の歴史よりも現実性をそなえ、ひとつの街路が、その数々の動きや、慣れ親しんだ顔、敵意ある顔や、迅速で道化じみた一連の小ドラマを見せていて、それを表現しうるかもしれない芸術よりも千倍も多くの秘密と浸透可能性をそなえているのだ』
今週の一枚を更新しました。
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/konsyu/konsyu1005_006.html
損保ジャパン東郷青児美術館で開かれている「ウフィツィ美術館 自画像コレクション展」へ。
自画像だけなのにどうしてこんなにひきこまれるのだろう。僕にはレンブラントとヴィジェ=ル・ブランによるものが特に印象的だった。すいこまれそうだった。
この美術館は建物の43階にあって、そこからはいつもは見上げる新宿のコクーンタワーが隣に見える。
何年も前、サントリーホールにイッサーリスが弾くエルガーの協奏曲を聴きに行ったことがある(BBCウェールズ響の来日公演)。その時彼のチェロの音があまりきこえなくてびっくりした。
どんな風にきこえなかったかというと、きっと彼の近くではものすごくいい音がしているのに、客席には届かない、そんな感じだった。4本ともガット弦を使って、響きはあっても輪郭の成分があまりないからオーケストラの音に埋もれてしまう。ただ、アンコールで弾いたツィンツァーゼのチョングリ(1分半くらいの、ピチカートだけで弾くいかした曲)は抜群の音だった。ガットは伸びがあるからピチカートはご機嫌だ。
今日の都響定期のソリストはボリス・アンドリアノフで同じくエルガーの協奏曲。
音楽的にも技術的にも素晴らしかったし音もよく通っていたと思うけれど、とにかく輪郭を立てる弾き方だった。多分足の長いベルギー駒を使ったあの音色だ。オーケストラをバックにチェロの音を通すためにはそのくらい音を立てないといけないのかもしれない。でも輪郭と引き換えに響きは少なくて、中低音のチェロらしい豊かさは物足りなく感じた。僕はもう少し響きがある方が好きだ。
プログラムの後半はブルックナーの4番。
第1楽章にヴィオラの見せ場がある。ファーストもセカンドもヴァイオリンはひたすらトレモロ、ブラスは長い音符のコラールを吹いていて、その間をヴィオラが四分音符や八分音符で動く。チェロとコントラバスは休み。オーケストラを弾いていて、低弦が休んでいて格好いいと思うところはあまりない。でもここはその数少ない一つだ。
終楽章のコーダ(終止部)に入る瞬間も好きなところだ。オーケストラが息をひそめて、最後の変ホ長調の和音(英雄の調性)を目指していく。
前はブルックナーの4番を弾くことは平気だったのに、昨日のリハーサルで通して今日ももちろん通して、どうも右腕に疲れがある。錆びついてしまったなぁ。
ウルフ問題が収束しそうな気配でほっとしたのもつかの間、今朝空を撮ろうとして新しいデジタルカメラのセンサーにもゴミがついていることを発見した。やれやれ。小さなカメラは電源のオンオフでレンズが出入りする構造になっていて、この隙間からほこりやちりが入るような気がする。フィルムの時代には問題にならなかったくらいの小さな小さなゴミなのに。思いもよらないところにデジタルの弱点があった。
もともとゴミが入りこんでいたのか、いつもカメラを入れておく巾着袋がほこりっぽいのか、それとも僕がほこりを呼び寄せてしまうのか。いずれにしてもできるだけ早く修理してもらわないとベトナム行きに間に合わなくなってしまう。一難去ってまた一難。
悩ましいウルフ問題、もともとそんなにウルフを気にしなかった僕がこんなに悩むのは、年内に「鳥の歌」を弾かなくてはならないからだ。最初のミの音がぷるぷるしてはどうしようもない。
試してみた2種類のウルフキラー、昔からあるゴムと金属でできたものよりは工夫されていて具合良く、もちろんウルフは減るのだけれど、どうしても響きが減ってよりいっそう下手になったような気がするし、楽器の状態がいいのか悪いのかそれすら見当もつかなくなり、さらえばさらうほどおろおろするので外してしまった。
一週間にも満たない間付けただけなのに楽器は変わってしまった。外してもウルフは別のところにうすく出るし、その分全体にウルフっぽいような気がする。幸いひどいミの音ではなくなったのでこのままいけるかもしれない。
一昨日から始まっているブルックナーの4番が変ホ長調で助かった(ミのナチュラルがあまり出てこない)。その前の演奏会はモーツァルトの二長調の曲が2曲も入っていてちょっと厳しかった。デリケートにミを弾こうとするとでんぐりかえってしまう。このときはウルフキラーを付けないではいられなかった。
教えてもらった新しいウルフキラーを試してみた。
オーストリアのMbergというところの「ウルフエリミネーター」、特徴は点で弦と接触すること。
なるほど確かにこれまでのものは数ミリ~2センチくらいの幅で弦をおさえていた。この「エリミネーター」悪くないのだけれど、やはりどうしても楽器の響きが減って自分の楽器でないような感じがする。結局元に戻してしまうのだろうか。ウルフ問題は悩ましい。
先日行ったヴァンジ彫刻庭園美術館はミュージアムショップもおもしろかった。書籍が充実していて、つい宇佐見英治著「見る人 -ジャコメッティと矢内原」を買ってしまった。ジャコメッティのエピソードがおもしろく、あっという間に読み終わった。(「失われた時を求めて」の後、いろいろな本がするする読める)
これまで僕が読んだジャコメッティに関する本は当事者が書いたものだった。当事者でもあり時に第三者でもあった宇佐見さんによって書かれた本書は同じ情景をさらに別の視点から見ることを可能にしてくれた。矢内原伊作著「ジャコメッティ」やジャコメッティ著「エクリ」をもう一度読みたい。
今日の都響定期、ソリストはラファエル・オレグでモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番。
言うまでもなくとても上手な人なのだけれど、上手に弾くことにはもうあまり興味がない感じで、それよりどのように音楽と接するのかどのように音楽を生み出していくのか、音楽に対してとても純粋な人だと感じた。にこにこしながら、時にいたずらっぽくカデンツァを弾いたりしてこちらも楽しかった。軽々とヴァイオリンを弾いていたなぁ。
画像は東京文化会館大ホールの壁。不思議な形で見飽きない。
僕の弾け具合に関して、まったくひどいありさまだったドン・ファンは、それでも毎日さらって少しずつ弾けるようになってきた。やはり練習は大切だった。ドン・ファンもティル・オイレンシュピーゲルも大編成大音量の曲だから、チェロの1人が多少よくなったといって大勢に影響はないけれど、R.シュトラウスのオーケストラ曲をさらうのは楽しい。このところ写真にかまけてゆですぎたマカロニのようになっていた楽器を弾く指は、今回の仕事で少しぴりっとしてきた。
チェロは(たぶんコントラバスも)楽器が共振してしまう音がある。2番線や3番線のミとかファのあたりだ。楽器の構造的な問題らしく、また個体差も大きい。この共振を止めるためにウルフキラーという金属やゴムでできた部品を付ける。これでウルフ(共振)はおさまったり別の音に移動したりしても、楽器の響きが減るのでずっと敬遠してきた。でもミの音にひどく出るようになってしまい、ついに。なんだかあまりしっくりこないのだけれど、しばらくこれで弾いてみよう。
修理から無事戻ってきた小さなデジタルカメラは人に譲って、結局新しいカメラを買った(キャノンのS95)。この数週間というもの久しぶりに物欲という煩悩のとりこになっていたのである。
S95で初めてRAWで撮るようになった。データは重くなるけれど、コンピュータで現像・画像の調整をすると、明るさやコントラスト、色味などかなり自由に変えられるし、どうしても好きになれなかった小さなデジタルカメラの画像のゲジゲジした感じも緩和できる。この程度の手間ならもっと早くからしていればよかった。
画像はサントリーで撮ったコントラバスの高橋洋太君。
三島まで足を伸ばしてヴァンジ彫刻庭園美術館へ。とてもとてもおもしろかった。
ヴァンジの彫刻は見る角度によってまるで別物のように表情を変える。また行きたい。
明日からリハーサルが始まる「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は初めて弾く。自分のソルフェージュ能力の無さは嘆かわしいばかり、スコアを見ながら三島に向かう電車の中でぶつぶつリズムをとなえていた。
もう一曲あるR.シュトラウスの「ドン・ファン」は新日フィルのスペイン演奏旅行でさんざん弾いたはずなのに、久しぶりにふたを開けてみると職業音楽家とは思えない状態だった。やれやれ、がんばろう。
今日はサントリーでヴェルディのレクイエム、3回目の本番。いつもと違う感じで、でもとても良かった。どうしてだろう、指揮のイオン・マリンの力だろうか?
今日はパルテノン多摩でヴェルディの本番。
ここの舞台は暑いことが多い。天井にあるたくさんの照明のおかげで舞台上の我々は孵卵器の中の卵のようだ。
帰りに仙川の、学生時代から通う店で散髪をしてもらう。いつも切る前に言うことは同じ、「すっきり、短く!」。けれどなぜか今日は史上最短の髪になった。いつにもまして耳もとや首すじがすうすうする。
「失われた時」を読み終わった。
詳細に描かれた一つ一つのことが、なぜそう描かれたのか最後にわかる。あとがきで訳者の鈴木道彦さんが述べているように、すべてのことが突然つながり巨大な伽藍が現れるような気がした。世界がこれまでと違って見える。鈴木さんの丁寧な訳と詳細な注は驚くばかりだった。もう一度読んでもいい。来月からは岩波文庫で出るようだ。(僕の読んだのは集英社版)
今日は2010年10月10日。
この夏のサイトウキネンで松本にいた時、夜の衛星放送を見たらたまたまベルリンフィルのワルトビューネの演奏会を放映していた。知らない指揮者が振っているな、と思ったらその人がイオン・マリンだった。
この放送の翌日くらいにやはり衛星放送で、今度はベルリンフィルのトランペット奏者、ガボール・タルコヴィの日本でのリサイタルを放映していた。彼はワルトビューネでの演奏会にも出演していたから連日のように日本のテレビに映っていたことになる。サイトウキネンに参加していたので、テレビで見た旨を告げ、まるで日本のテレビスターだね、と言ったら、自分は放送時間に練習していたりして見ていないんだ、と言っていた。
今回ヴェルディのレクイエムを弾いて、予想のできない劇的な転調がいくつもあることにようやく気付いた。わかっていてもまだ耳と体が慣れないくらいだ。恥ずかしいことにこれまでそれを意識せずに弾いていたのだろう。だからすぐ忘れてしまう・・・。
ブリテンの「戦争レクイエム」ほど沈み込むことはないが、それでもこのレクイエムにも何かある。ただ、イオン・マリンは、我々が演奏ができるほど健康でしかもこんな素晴らしい音楽を弾けることは幸せだ、と言っていた。
新日フィルにいる時に1回都響に移ってからもすでに1回、ヴェルディのレクイエムを弾いているはずなのに、例によってほとんど覚えていなかった。でも今日国際フォーラムで弾いてもう忘れない、と思った。指揮はイオン・マリン。
ゲネプロと本番の間の少しの時間、国際フォーラムのとなりのビルのスターバックスコーヒーに入ってプルーストの「失われた時を求めて」を読んだ。
4月の終わりにやはり国際フォーラムで仕事があった時も、本番前の時間に同じ店で「失われた時を求めて」を読んでいた。その時は読み始めて間もなく1冊目の「スワン家の方へ」、今日は最終冊13冊目の「見出された時」。こんなに長くてもまだ「小説」というのかどうかは知らないが、残すところあとわずか百ページほどになった。途中冗長に感じられるところはいくつもあったし、語り手の身勝手なあるいは忸怩たる思いが延々と述べられたり、軽薄な社交界、倒錯、画家、作家、音楽家・・・。時として義務のようにひたすら読んできたけれど、最後の「見出された時」に至って全て合点がいった。あぁなるほどそうだったのか、読んできてよかった。
今は残されたページを惜しみながら刻むように読んでいる。
「失われた時を求めて」を読み始めてから、読むのに居心地のいい場所をずいぶん探した。
スターバックスだったらサントリーホールのあるアークヒルズ店がいい。客の会話が盛り上がるよりは、1人1人が仕事をしたり本を読んだり休んだりしているような店の方がはかどる。静かで広くて椅子が固くなくて、景色が見えればなお良し。他には銀座のマロニエ通り店(ちょっとにぎやか)、入ったことはないけれど恵比寿ガーデンプレイス店もよさそう、新宿マインズタワー店、狭いけど景色がいいのが新宿グリーンタワービル店、上下に広がりと奥行きがあるのが茅場町店。仙台で仕事をしている時毎日のように通ったのは仙台フォーラス店。
松本にいる時は駅前大通りのタリーズの外の席がお気に入りだった(今年はちょっと暑かった)。土日限定で麹町のエクセルシオールもいい。オフィス街だからか、休日は広い店内ががらんとして静か。
でも一番集中できるのはやはり山手線の車内かなぁ。
今日はサントリーホールで現代曲の仕事。楽屋口近くに白くて長い車がとまっていた。
しかも一台だけではなく。
最近写真のことをあれこれ考えているのは、また楽しくなってきたということもあるし、この秋都響のヴェトナム公演を控えていることもある。
どのデジタルカメラを持っていくか考えているときにカメラの調子が悪くなって、しまってあったフィルムカメラ(コンタックスのT2、僕が写真にのめりこむきっかけとなった大切なカメラ)を使ったらとても具合がよかった。ヨドバシカメラであれこれ触ってみた最新のデジタルカメラよりしっくりくる。どうも僕は時代にうまくフィットできないらしい。
上の2枚の写真は携帯で撮ったもの。こんなに撮れるのだからびっくりしてしまう。
久しぶりに「今週の一枚」を更新しました。一枚とは名ばかりで3つの画像があります。
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/konsyu/index.html
雑誌「サラサーテ」連載用に古いカメラで舞台の写真を撮ってはみたのだけれど、なかなか思うようにはいかなかった。その日撮った中でおもしろかったのは都響のステージを担当している小倉君の写真。
最近はデジタルカメラでばかり使っていたから、撮った写真をすぐモニターで見て何枚か撮り直す癖がついていた。久しぶりに使ったフィルムカメラではもちろんそれができず、撮ることにより集中できるような気がした。
先日葛飾シンフォニーヒルズで都響のリハーサルがあった時、不思議なことにホール周辺の景色が今までと違って見えた。あまりにむずむずするので後日フィルムのカメラを持って出直した。
写真家の田中長徳さんがよく路地のなんの変哲もない看板や店先を撮っていて、何がおもしろいのだろうと思っていたのに、今そういうものがとてもおもしろい。今度上野界隈でも探してみよう。
いい演奏会を聴いた。
トッパンホールでのハーゲンカルテットとクリスティアン・ツィメルマンの演奏会、前半はカルテットだけでルトスワフスキとシューマンの3番、後半はツィメルマンが加わってシューマンのピアノ五重奏。
ハーゲンカルテットはヴァイオリンが二人座ってヴィオラはほぼ中央、チェロが外側、という並び方だ。メロスカルテットもそうだった。演奏はずっと現代的だけれど、必要な声部がよく聞こえてくるというスタイルは一緒だと思う。
外声は言うまでもなく、セカンドヴァイオリンやヴィオラの能力も抜きんでていることがこのカルテットの素晴らしさなのだと思う。内声の二人がこんなに光っているとは思わなかった。
驚いたのは4人の使う弓の少なさ。ペレーニもそうだったし、チェロが少なく使うのはわかる。でもヴァイオリンで弓をきっちり弦に密着させて弾くのはあまりないと思う。弓の使い方、ヴィブラートの使い分け、弦楽器を熟知して操っていると思った。
前半の2曲は魔法のようで、いったいどうやってお互いコンタクトを取り音を出しているのか不思議だった。
後半のシューマンは圧巻。深い呼吸の取り方やフレージング、テンポのもって行き方など、あぁこうやって弾くんだなぁ、と感じるところがたくさんあった。特に第1楽章の再現部に入るときの盛り上げ方、第2楽章の最後の和音の音色とバランス、第3楽章の中間部の揺らぎなど、やってくれるねぇと思わずにはいられなかった。
ツィメルマンのピアノも美しかった。終楽章の最後の部分はシューマンの協奏曲を彷彿とさせるような響きだった。
演奏は熱かったのに舞台での所作はクールで、それも好感がもてた。
僕が学生の頃、カザルスホールの主催するソロや室内楽の演奏会によく足を運んだ。カザルスホールが発信する企画にわくわくしたものだった。
今トッパンホールがいろいろなことを発信しているのだと思う。弦楽器のソロや室内楽は世間的に見ればかなり渋い分野で、こういう企画を続けることは易しくないのではないか。今日素晴らしい演奏を聴けたことを感謝したい。