« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月

2012年7月31日 (火)

手が思い出し始める

今日の都響は川崎でベートーヴェンプログラム、我が家のエアコンはいまだなおらず。
古い演奏会場は空調の効きが良くなく、しかも燕尾服だったから暑いはずなのだけれど、エアコンのこわれた家に住んでいる僕にはそんなに辛くなかった。世の中そう悪いことばかりではない。

秋に高橋さん礒さんとのトリオの演奏会があるので、先日練習をした。久しぶりの室内楽は楽しい。
10年ぶりくらいに弾くブラームスの1番は、― 作曲家が晩年に大きく手を加えた作品だ ― 彼の後期の作品独特の響きを持っていることにようやく気がついた。

明日そのトリオを少しだけ弾いたら、明後日からはリヒャルト・シュトラウスプログラムのリハーサルが始まる。ドン・ファンと「死と変容」。
何度も弾いているはずのドン・ファンは、例によって初めて見る楽譜のようだった。でも2日くらい読んでいると、急に手が思い出し始める。記憶は不思議だ、どうなっているのだろう。

今日思いがけず懐かしい方にお会いすることができた。久しぶりに誰かに会うと、様々な記憶が呼び起こされる。きっと頭のどこかにしまわれていた思い出だ。
写真を撮るとき、画面の隅々まで読み込んでいる訳ではもちろんなくて、印象的な部分しか見ていないのだけれど、実は細部にいたるまで脳のどこかに記憶されているのだろうか、などと考えたりする。

あと少し、頑張ろう。

2012年7月29日 (日)

「見ることがすべて」

日経夕刊連載、先週の「こころの玉手箱」は写真家東松照明さん。7月26日の記事から、

『写真とは選択の連鎖で成り立つメディアアートだ。カメラとレンズ、感光材料を選ぶ。被写体を選択する。季節や時間帯、光や風を決める。被写体を定め、カメラとの距離を測り、アングルを決定、シャッターチャンスを選ぶ。ひたすら見ることと選ぶことに終始するのが写真家なのである。
 写真家は、医師のごとく治療するのではなく、学者のごとく分析もせず、神父や牧師のごとく支えるのではなく、落語家のごとく笑わせもせず、歌手のごとく酔わせず、ただ見るだけだ。それしかない。写真家は見ることがすべてだ。』

7月23日、27日の日記に画像を追加しました。
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-d467.html
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-9494.html

2012年7月28日 (土)

画像を

7月20日、23日の日記に画像を追加しました。
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-993d.html
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-d467.html

2012年7月27日 (金)

初めて弾く演奏会は

湘南を撮った時のフィルムが少し残っていたので、早起きして墨田区へ出かけた。

20120727r4myahiro2_2

残念ながら9時にならないうちにかなりの暑さとなり、歩くことをやめてバスに乗った。とうとう足の向くまま歩くことが難しい時期になってしまった。

20120727r4myahiro

20120727r4myahiro3

厳しい暑さの下、墨田の町工場からは仕事をする音が聞こえていた。チェロを弾いてたまにカメラを持ってふらふら歩いて、という僕は申し訳なくなる。

20120727r4myahiro4

フィルムの現像を待つあいだ、恵比寿の写真美術館で開かれている田村彰英さんの写真展「夢の光」へ。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1591.html
写真の魅力を堪能した。大判のカメラで撮られた写真の力に圧倒された。
それから写真美術館の図書室で、久しぶりにナショナルジオグラフィック誌を手にとった。今日は素晴らしい写真をたくさん見た。

帰宅したらなんと、家のエアコンがご機嫌ななめ。前触れもなく止まってしまうのだ、やれやれ。
幸いさらう部屋は大丈夫だから、あまり遊んでいないでさらえ、ということだろうか。
最近頑張って新しいソロの曲の譜読みをしている。リゲティとペンデレツキ。リゲティはようやく、という感じだ。若い時に読んでおけばずっと早く読めただろうけれど、40を過ぎて見える景色は確かにあるし、新しい音符を弾く新鮮さを大切にしたい。どんな曲でも、初めて弾く演奏会というのは一回しかないのだから。

2012年7月26日 (木)

演奏会の予定を

演奏会の予定を少しだけ更新しました。
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/ensoukai.html
来年のJTチェロアンサンブルは1時間プログラムを2回公演。7月28日発売開始です。どうぞお早めに。

2012年7月25日 (水)

絵を見に行ったのか人を見に行ったのか

夜は上野の文化会館で本番だったので、午前中に東京都美術館で開かれているマウリッツハイス美術館展へ。
人の多さに辟易した。絵を見に行ったのか人を見に行ったのかわからない。

同じ都美術館の地下ギャラリー、「生きるための家」展が思いの外おもしろかった。
http://www.tobikan.jp/museum/2012/artsandlife2012.html
新聞に折り込まれる住宅広告を見てあれこれ空想するのが毎週金曜日朝の楽しみだったのに、最近はどの家も画一的な間取りになってつまらないと感じていた。だからこの展示を見て、実現が難しそうなものも含めて、様々なアイデアを持った家の模型が想像を解き放ってくれるようだった。

2012年7月24日 (火)

自分の置かれた環境は

新潮7月号、石川直樹さんの連載「地上に星座をつくる」から

『山を知らない人は8000メートルの山に登ると聞くと大仰なことだと思うだろうが、ただ登るだけであれば、テクニックの類はあまり必要ない。なにより重要なのは、2ヶ月におよぶ高所生活に耐えられるか、あるいは身体をうまく高所に順応させられるか、ということである。
 高所に慣れていない人は5000メートル以上の高さにいると、精神的にも肉体的にも、どんどん消耗していく。環境の変化に敏感な人ほどその影響は顕著となる。枕が変わると眠れないなどというタイプは、どんなに体力があっても、登山技術に長けていても、8000メートル峰の頂には立てないかもしれない。
 部屋が暑ければエアコンを使って涼しくし、寒ければ暖かくするのが都市の暮らしだとしたら、山は対極にある。ここではまわりの環境ではなく、自分自身を変えていかねばならない。機械や道具に頼るのではなく、自らの身体を今いる環境に適応させていく。登山に必要な「高所順応」というプロセスは、まさにそうした行いの一つだろう。環境に適応する力や順応していく能力は、北から南まで広範な地域へ移住・拡散することになった人類の、最も優れた身体技法であるとぼくは考える。対抗し、拒絶し、防御するのではなく、受け入れ、溶け込み、包み込んでいく。そうした流れるようなしなやかな姿勢こそ、あらゆる状況を切り抜ける最大の武器になり得ると信じている。』

幸い舞台の上で身の危険を感じるようなことはほとんどないけれど、本番ではちびりそうになったり、あぁもう絶体絶命!、ということはある。
でもその状況に対応しなくてはならない、ということでは同じかもしれない。しかもたいていいつも何か足りない。自分の能力、準備、あるいは会場の音響、空調、照明、予算、天候・・・。

今年も湿気のみなぎる季節となった。なかなかチェロは上手にならないが、自分の置かれた環境はできるだけ受け入れるようにしている。

2012年7月23日 (月)

少し早起きして鎌倉へ。どうにもならない暑さになる前に海に行きたいと思った。久しぶりの湘南だ。

20120723r4mzaimokuza2


海の近くで山も迫り、蝉の声が聞こえる光明寺の境内に入ったら、とても落ち着いた。以前とは顔ぶれの変わった猫たちに挨拶してから材木座海岸へ。

20120723r4mkomyoji3

それほど混んでいない海岸を由比ヶ浜まで歩き、江ノ電に乗って波の音を聞きに稲村ケ崎へ。

20120727r4minamuragasaki

写真を撮りながら、青が好きだと思った。海の青、空の青、それから夕陽のオレンジ、赤だろうか。

20120727r4myuigahama

また旅に出たい。仕事柄いろいろなところへ行くけれど、やはり旅には憧れる。
国内だったら、まず新潟に出てから日本海側を山口まで、海外ならアイルランド、ポルトガル、バルト3国に行ってみたい。どんなところだろう。

2012年7月22日 (日)

新しい発想で

新しい発想で作られたエンドピンを弾かせてもらう機会があった。そのアイデアを聞いた時は?と思ったのだけれど、確かに響きが増えた。

弦によって駒との距離が違うテールピースはフランスでも作られているそうだ。でもこちらは僕が使っているものよりずっと、距離の比が大きく違う。www.cordieracantabile.com
(4月14日の日記もご覧ください。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-f48e.html

Dog

2012年7月21日 (土)

日経夕刊から

7月18日日経夕刊に指揮者パーヴォ・ヤルヴィのインタヴューが掲載された。その中から

『 3つのオーケストラが持つ特質や歴史はまったく異なることを理解するべきだ。パリ管弦楽団を指揮するときは100%パリにいる気分になる。楽員は心と耳で微妙なニュアンスをかぎとってくれる。弦の音色は温かく、管楽器はソリストの名手ぞろい。ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは自主的に組織された楽団で、野生の馬のようにエネルギーを放つ。フランクフルト放送交響楽団はロマン派を中心にバロックから現代まで幅広いレパートリーを持ち、安定した力を発揮する。とくに金管楽器群がユニーク。そうした特徴を生かし、いつも最高の結果を出すよう心がける。
 独裁者を求める楽団もあれば、嫌うオケもある。一つの楽団でもときには友を欲しがり、ときには先生を求める。年月とともに相手が変わってくる。芸術監督、音楽監督を務める指揮者はいつもそれを鋭敏に感じ取らなければならない。私はオケによって違う人間になる。人格をカメレオンのように変えて接する。複数のオケに対して、公平であることも大事だ。』

また同日の夕刊には宮城県の田代島を紹介する記事もあった。猫が多い島ということは知っていた。去年の地震でどうなっていただろうか、と思っていた。記事によると
『島のあちこちにはまだ震災の傷跡が残る。仁斗田港にあった公衆トイレも津波で流されたままで、集めたお金を使って今夏中の再建を目指している段階。島民の生活も元に戻ったとは言い難い。・・・』
いつか行くことができますように。

2012年7月20日 (金)

「君や僕にちょっと似ている」

もしかして今年はそれほど暑くならないかも、と思っていたら残念ながらそんなことはなかった。暑いさ中、日曜日はショスタコーヴィチの5番、昨日は「悲愴」をぐぎぐぎ弾いた。

一転涼しくなった今日は横浜美術館で開かれている奈良美智展「君や僕にちょっと似ている」へ。
http://www.nara2012-13.org/exhibition/
期待を裏切らない、とても楽しい展示だった。立体も、カンバスにアクリル絵具で描かれた作品も、段ボールや、おそらくかつて塀だった木材に描かれた作品も良かった。奈良さんの作品には、何だろう、思わず笑みが浮かぶものがある。

20120723r4mminatomirai2

東京都写真美術館では田村彰英さんの写真展も始まり、こちらも楽しみ。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1591.html

2012年7月18日 (水)

鯨波海岸へ行った時のフィルムの現像がすべて出来上がってきた。

20120711t2kujira6

写真は楽しい。

20120713t2kujiranami22

(7月9日の日記にも画像を加えました。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8c6e.html

2012年7月17日 (火)

「極北」

マーセル・セロー著「極北」を読み終わった。
http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/04/004364.html
この数日、久しぶりに物語を読み進んでいくおもしろさの中にいた。近未来のことを描いた小説なのに、魅力の一つはひりひりするような、あるいはざらざらとした現実感だと思う。
いくつも心に残る文章があった。果物のオレンジの扱い方がとても印象的だった。

すっかりホコリをかぶっていたスキャナーを出してきてまたフィルムのスキャンをするようになった。目の覚めるような写真を撮れる最新のデジタルカメラも素晴らしいけれど、フィルムも好きということだろうか。

20120509r4msakaineko

2012年7月15日 (日)

自分の視点からでも第3者の視点からでも

今晩放送されたNHK「ミラクルボディ」は男子体操の内村航平さん。(昨日は男子100メートルのウサイン・ボルト、同じ人間とは思えなかった)
空中で回転したり、ひねったりしている時に、どのように自分の体勢をとらえているか、ということがとても興味深かった。

もちろん、変化していく自分の体勢は的確にとらえられているし(大変な能力だ)、加えて他の人の演技を見た時、その演技を自分が行った場合どのように世界が見えるか、ということもイメージできるそうだ。つまり、演技を自分の視点からでも第3者の視点からでもとらえることができる、ということだと思う。

楽器の演奏が難しいのは、一つには客観的に自分の演奏を聴くことがなかなかできないからだと思う。
まるで離れたところにいるもう一人の自分が聴いているようになりたいと、聴くことに心を砕いてきた。さらに、素晴らしい音楽家にはきっとこのように世界は聴こえて見えているだろう、と想像してみようか。

2012年7月14日 (土)

お礼に書かれたのが

先日、たぶん4年ぶりにベルリンフィルのチェロアンサンブルを聴きに行った。
創立40周年を迎えたこのアンサンブルは、創立以来のメンバーは全員定年を迎えたそうだ。ぱっと見て一番大きな変化は女性2人が加わったことだと思う。しかもフランス生まれとイギリス生まれ。ベルリンフィルのことを詳しくは知らないけれど、チェロはこれまでずっとドイツ語圏の男性ばかりだったと思う。フランス人の彼女は「ミッシェル」の11番チェロで素晴らしいソロを披露していた。
12人誰にソロが回っても、よほど気をつけていないと誰かわからないほど、全員が高い技量と同じ方向性を持っていることには驚く。

チェロアンサンブル版「ミッシェル」の11番チェロが目立つパートであるように、クレンゲルが書いた讃歌の5番チェロは、やはり特別なパートだと思う。美しい旋律をチェロの一番いい音域で弾けるし、その後1番チェロがその旋律を1オクターブ上で弾く時は支える役割のバスパートになる。ベルリンフィルのアンサンブルで何回か聴いたけれど、いつも同じ人だ。クリストフ・イーゲルブリンクさん。

フンクの組曲は面白いパート割りをしていた。4パートあって、単純に考えると12人だから3人ずつ並んでいくのだろうけれど、1、6、12番に座っている3人のソロ・チェリストがⅠ番パートを弾いている。おそらくカルテットが3つあり、それぞれのグループにソロが回るよう考えてあった。音響効果としてもとてもおもしろかった。
ヴィルヘルム・カイザー=リンデマンの、叫び声の入るボサノヴァも期待通りだったし、アンコールのピンクパンサーでの上手な口笛も心憎いばかり。
印象的だったのはブラッヒャーのブルース、エスパニョーラ、ルンバ・フィルハーモニカをさらりと彼らが弾いたことだった。実にさらりと。こうはいかないなぁ。

プログラムには定年退団されたばかりのルドルフ・ワインツハイマーさんの文章が載っていて、その中にこの曲の成立事情が書いてあった。
『さて、ある突然の雨の日、ベルリンの街角に濡れて佇む若い女性。車で通りかかった私は、当然お嬢さんを乗せて家に送り届けた。その晩、父親からお礼の電話。それがなんと作曲家ボリス・ブラッヒャー!お礼に、と書いてくれたのが「ルンバ・フィルハーモニカ」。これが当時のRIAS放送局から放送されたのがきっかけで、作品が集まり、一晩の公演が可能な作品が揃った。』

2012年7月12日 (木)

一人芝居、職人の仕事

ショスタコーヴィチのリハーサルの後、来週から始まる「ばらの騎士」(組曲)の勉強を少しだけして、イッセー尾形さんの一人芝居「わたしの大手町」を観に日経ホールへ出かけた。
今年の舞台はさらにおもしろく、客席のノリもよく、休憩なしの1時間45分はあっという間に過ぎた。よく笑った。

時々聴きに出かける演奏会では、演奏会によって客席の雰囲気がずいぶん違うことを感じる。舞台で素晴らしい演奏がされたのに客席がわかなかったり、逆に?という時に喝采があったり。それはもちろん受け手の自由だけれど、もう少しだけ客席が活発に反応するときっと演奏や演技はうんと良くなるような気がする。

今晩放映された「カンブリア宮殿」は吉田カバンの吉田輝幸さん。何人も職人さんが出てきて、彼らの仕事ぶりがとても興味深かった。
僕の趣味は写真と、鞄も好きだ。鞄売り場を見かけると用がなくても寄ってしまう。今の関心はカメラと本がきれいに入るカバン。吉田カバンのカメラバッグには文庫本とカメラがすんなり収まる。このカバンも職人さんが手造りしたものなんだなぁ。
ただ今熱中しているマーセル・セローの「極北」(ハードカバーの単行本)とカメラはなかなかうまく同居してくれない。

2012年7月11日 (水)

同じ具合に傾いて

せっかく新しいデジタルカメラを買ったのに、時代に逆行してフィルムで写真を撮っている。フィルムで撮ると、デジタルがいかに高い打率で間違いのない写真を撮らせてくれていたかよくわかる。鯨波で撮ったフィルムを現像に出した。期待が高いだけに思い通りに写っているか心配。

20120708t2moma

僕はどうしても縦位置で撮ってしまうのは自分でわかっていたけれど、

009_9

同じ具合に傾いてしまうことはちょっとショックだ。(デジタルは簡単に傾きを修正できる)

033_33

新宿文化センターに行ったら、近くにガラスをはめ間違えたような立派なビルが出現していた。

024_24


2012年7月10日 (火)

まさに同時代の

今日の都響は長岡市の小学5年生を対象とした音楽教室。元気いっぱいの子供たちで、特に午後は客席も舞台も盛り上がった。気持ちの解放された子供たちがオーケストラと一緒に大きな声で歌ったり手拍子をしてくれたりするのは、僕たちにとってもとてもいい時間だった。

帰京してから、もうすぐ始まるショスタコーヴィチプログラムを少し勉強する。幾度か弾いている5番の交響曲は、例の通り、弾いたはずの音符がほとんど頭から抜け落ちている。あれま。
とうとう弾く機会がやってきた2番のピアノ協奏曲は楽しみ。いきいきとした第1,3楽章の間の緩徐楽章は、他のショスタコーヴィチには見られないほど美しい。

全音から出版されているスコアには
『・・・1958年 ― この年、ショスタコービッチはフランス芸術・文化勲章を受賞し、・・・数々の栄誉に輝いている ― レナード・バーンスタインは自分が主宰することになったニューヨーク・フィルハーモニーの最初のコンサートでショスタコービッチのピアノ協奏曲第2番をとりあげ、自らピアノを弾き、タクトを振った。・・・』
とある。僕の持っている録音はバーンスタインが弾き振りしたその1958年のものだ。何か特別な感じがする。この曲を好きになったのはきっと演奏が素晴らしいせいもあると思う。言うまでもないことだけれど、当時ショスタコーヴィチは生きていて、録音されたのはまさに生みだされたばかりの音符だった。

2012年7月 9日 (月)

鯨波の海

最近海を見ていないことに気付き、どうしても海が見たくなった。
午後、長岡で都響のリハーサルが終わってから信越線に乗り、柏崎の一つ先、鯨波へ。

夕方の浜に降りると穏やかな波の音が聞こえ、ちょうど太陽が沈んでゆくところだった。
黄色がかっていた太陽は水平線に近づくにつれオレンジ、赤と濃い色になり、やがて半分の形になり、すべて沈むと、雲の下半分を鮮やかに照らし出した。

20120711t2kujira4

立ち尽くすように見て、日が沈んでからもしばらく海岸にいた。暗くなると急に虫たちの声が聞こえてくる。
時々、好きな東京を離れて、知らないところに身を置くことがきっと必要だ。

2012年7月 8日 (日)

新しい気持ちで

ピエール・フルニエは憧れるチェリストの一人で、録音も多く持っているし小さい頃からよく聴いてきたのだけれど、先日久しぶりにブラームスの二重協奏曲(ヴァイオリンはフランチェスカッティ)を聴き、今まで何も聴けていなかったことに気が付いた。こんなに素晴らしかったんだなぁ。うまく言えない、でも音楽はこうして、だからチェロはこうして・・・。
新しい気持ちでチェロを弾こう。

今日は新宿の大きな本屋へ出かけた。まだマルタン・ナドの「ある出稼石工の回想」が読みかけだし何も買わないつもりが、実際に本を手にとるとどうにもおもしろそうで、買ってしまった。
一冊は前から読もうと思っていたジョージ・ソーンダーズ著「短くて恐ろしいフィルの時代」。帰りの電車で読み始めたら乗り過ごしそうになった。もう一冊はまったく知らなかった本で、マーセル・セロー著「極北」(訳は村上春樹さん)。「短くて恐ろしいフィルの時代」と同じように、冒頭からひきこまれる。問題はなかなか時間がないこと。
明日は長岡へ。

2012年7月 7日 (土)

晴れのゴーシュ

愛知県あま市でのゴーシュ、たくさんの方々にお越しいただき本当にありがとうございました。

201207081900000

なんと初めて晴れたゴーシュは、昼の1回目は僕が少しかたくなり、夜の2回目はあっと言う間に終わった。
演奏した大きな花店の2階部分は、吹き抜けのためか花のためか、思いの外響きに恵まれ、光も入り楽しかった。
試行錯誤の最中の僕にとても貴重な時間だった。

朗読のいちかわあつきさんとはまた映画の話で盛り上がった。「キツツキと雨」の撮影中の話や、「スターウォーズ」への黒沢映画の影響のことなど、なるほど!と思うことがいっぱいあって楽しかった。

終演後帰京。明日はゆっくりしよう。

2012年7月 6日 (金)

○はたまに

先日放送された深夜のJ-WAVE、岡田准一さんの番組に作家伊集院静さんが出ていた。その中で伊集院さんが、人生だいたい毎日△か×で、○なんてたまにあればいいほうだ、という趣旨のことを話していて、僕は救われる思いがした。

外に出ていると、大なり小なり、しまった・・・と思うことがある。今日も恥じ入るばかりのことがあった。あぁ、まことに至らぬ自分。気を取り直して明日からがんばろう。

2012年7月 5日 (木)

雨でいいのかも

先日の旅行が1週間素晴らしい天候に恵まれたので、その時点で雨男の僕としては、おそらく今年後半の演奏会は雨を覚悟しなくてはならないだろうと思っていた。
旅行に出かける直前のエルガーが雨、6月大野さんが振った都響定期も台風、先日の大阪も雨、明後日は朗読のいちかわあつきさんと愛知で「セロ弾きのゴーシュ」があるのだけれど、かなり雲行きがあやしい。

去年ゴーシュの公演は3回あり、見事に全て雨が降った。でも宮沢賢治は「雨ニモマケズ・・・」の印象が強いせいか、雨でいいのかもしれない。

落ち込みからは抜け出して、今日も録音をとりながらさらった。弦がラーセンに変わって、それは「ソフト」なのに充分強く、僕のへなちょこの指先は少々痛い。

2012年7月 4日 (水)

画像を

6月29日と7月2日の日記に画像を追加しました。

http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-064c.html

http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-7f51.html

2012年7月 3日 (火)

昨日今日

昨日7月2日の日経夕刊「人間発見」は絵本「ぐりとぐら」の作者、中川李枝子さん。その記事の中から。

『金城学院幼稚園では、「私が好きな幼稚園の3つの条件」について話しました。
 1つ目は「給食がないこと」。幼い子は個人差が大きいから食べる量も違いますし、お母さんの弁当が一番好きです。2つ目は「送迎バスがないこと」。親子で手をつないで登園してもらいたい。3つ目は「制服がないこと」。どの子どもにも制服が似合うとは限りません。服装は親のセンスで選んでほしいですね。
 制服については、私の経験もあります。入園式の日、真新しい服を着て幼稚園へ行ったら、全員が同じ服を着ているではありませんか。びっくりしました。「母が迎えに来ても、私を見つけられないだろう」と不安になったことを今でも忘れません。
 ・・・・・
 子どもは大人をじっと見ていますし、会話もしっかり聞いています。大人にとっては油断できない手ごわい相手です。』

昨晩深夜のラジオでは音楽プロデューサー中野雄さんの番組を聴いた。今回も興味深かった。
まずフランチェスカッティの弾くサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲が放送されて、夜更けに目の覚めるような演奏だった。聞く人の耳を強く惹きつける音だと思う。こういう音は出せないんだなぁ。その後はシュタルケルの弾くコダーイの無伴奏。
夜遅くて一字一句は覚えていないのだけれど、バッハもベートーヴェンもあなたが弾くとすべてシュタルケルのスタイルになりますね、と尋ねられたシュタルケルは、だから私はソリストなのです、ベートーヴェンを弾いてそれがベートーヴェンらしく聞こえるのはソリストではない、という旨のことを言ったそうだ。確かにそのコダーイの演奏もシュタルケル節が全開だ。でも有無を言わせない強靭さがある。

最近また地震が多い。仕事柄コンサートホールで揺れを感じることもたびたびある。
ずいぶん前、倉敷音楽祭のリハーサルが倉敷の市民会館で行われていた時、2階の客席後方で誰か騒いでいる、と思ったら地震だった。確か中越の地震の頃、初台の新国立劇場でリハーサルをしていて、ゆらゆら揺れる揺れを感じた。その後JR新宿駅に出たらホームから続く人の列が改札まであふれていた。去年の3月、都響は函館のホールでこれまで経験したことのない長い揺れを感じた。
今日の都響は都内のホールでリハーサルをしていた。天井裏で誰かのこぎりを使っているのだろうか、と思ったら照明が揺れ始めた。その地震は東京湾が震源だった。足元だなぁ。

2012年7月 2日 (月)

意識に上る前の

前ほどひどく落ち込まなくなったとは言え、昨日自分の演奏の録音をあれこれ聴き、あぁこんなことでは駄目だと思った。チェロの調子もこのところぺたぺたしてきて、さらっても良くなく悶々とした。
4月前半は怖いものが無い感じだったのに、楽器全体のテンションが下がってしまい、人間同様いじけている。何だろう、弾き方のせいか、駒や魂柱が動いてしまったのか、季節的なものか・・・。弦を変えることにした。

古風な考え方かもしれないけれど、もし上にヤーガーのミディアムを2本、下にスピロコアのミッテルを2本張って、それで良ければそれが一番いいと思っている。僕のチェロは上2本の弦がぺしょぺしょになってしまった。今朝順平さんにご意見を伺いラーセンにすることにした。

ラーセンが日本に入ってばかりの頃はしばらく使っていた。もちろん良かったのだけれど、楽器を締めてしまうのかだんだん鳴らなくなり使わなくなった。それはヤーガーのスペシャルも同じ感じだった。
なので今回はテンションの低いソフトにする。マリオルッチに行ったらラーセンのパッケージは2重になっているし、スピロコアの弱い弦は「weich」ではなく「light」と表記が変わっているし、さらに驚いたのはヤーガーの棚に「superior」という見慣れない弦が並んでいたことだ。いったい何だろう、これも試してみようか。スペシャルの2番線やテンションを低くしたものの話は聞いていたのだけれど、うーむ、世の中は大変な勢いで進んでいる。

店を出て原宿まで写真を撮りながら歩いた。
いくつもおもしろい光景に出会えて楽しかった。街を歩く時、気になるものなぜか心に引っかかるものを撮るようにしている。目にとまったものを撮り、現像があがるのを待ち、半ば忘れていた映像を見るのはちょっと不思議な感覚だ。自分の潜在意識の部分を知りたいのかもしれない。

023_23

029_29_3

035_35

先日出かけた川内倫子さんの写真展がおもしろかったのは、彼女のとらえる映像が無意識の領域に接しているからのような気がする。理屈よりもっと意識下の部分に働きかけてくるのだろうか。だからおもしろくない人にはきっとおもしろくないのだと思う。

演奏を録音して気付くのは、すみずみにまで意識が行き届いていなければならないということだ。でも演奏する時には半ば無意識の方がいいと思う。どうしたらいいのだろう。練習は徹底的に意識的にして、本番で解き放ってみようか。

願わくば揺るがない心を持ち、人間や楽器の調子に左右されずいつもいい演奏ができるようになりたい。
最近さらう前やさらった後に、アンドラーシュ・シフの弾くシューベルトのピアノ曲をよく聴く。活き活きと愛らしく、自然なフレージングで歌う素晴らしい演奏だ。シューベルトの音楽があって本当に良かったと思う。これを聴くたび自分の拙さが身にしみる。

2012年7月 1日 (日)

弾こうとしては

僕の録音機には今年に入ってからの様々な演奏会のゲネプロや本番を録ったものが入っていて、そろそろあふれそうなので今整頓している。
それを聴きながら、また最近接した素晴らしい演奏家のことを思い浮かべながら、チェロを弾こうとしてはいけないんだな、と痛切に思う。もちろん弾かない訳にはいかないのだけれど、上手に弾こう、そのためにこうしてあぁして弾こう、と思うとさらに不自由になるような気がする。演奏がうまくいかない時音がかたくなる時は、体がかたくなっていて、そしてその前に心が身構えてかたくなっていると思う。技術的に問題を解決するより先にまず心を開こう。

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »