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2013年3月

2013年3月31日 (日)

空気のきれいな松本に行ったらきっと具合もよくなるだろう、と考えたのはうかつだった。懐かしい人たちと楽しい時間を過ごしていたのだけれど、花粉はどっさり飛んでいたらしい。再びひどい目にあった。目がかゆくてかゆくて、やれやれ。

午前中のあずさで帰京。韮崎近くの小さな駅では線路際に満開の桜、木の下にはベンチもあり、しかもそこは甲府盆地が一望できる高台だった。車窓を過ぎていく様々な桜を見ながら、西行法師の

『 願わくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃 』

という歌を思い出した。

午後は東京文化会館小ホールの演奏会へ。「原田禎夫チェロ・シリーズ ズッカーマンと創る極上の室内楽」。禎夫さんが入らない、ズッカーマン・チェンバー・プレイヤーズによるシューマンのピアノ五重奏は、もちろん皆素晴らしくパワフルで上手な人たちばかりなのだけれど、なぜだか音楽の運びが単調に感じられ、途中からこれははたしてシューマンの音楽だろうか・・・、と考え始めてしまった。
プログラムの最後、再び禎夫さんが加わってのシューベルトの弦楽五重奏はどっしりして心地よかった。第2楽章は彼のピチカートの音色で全てが変わったようだった。こういうバスが弾ける人に憧れる。久しぶりに聴いたズッカーマンの音はやはり強烈だった。あまり弓を使わずいつもしっかり毛が弦にかんでいる。以前、宮崎の音楽祭にズッカーマンが来た時さらっている様子を写真に撮ったのだけれど、プリントしてみてその弓使いの軌跡の素晴らしさに驚いたことがある。

僕は室内楽でもオーケストラでも、チェロが中、ヴィオラ外、という並びが好きだ。チェロが外で弾くことの良さももちろんあるけれど、中に入った方が音楽の座りがいいと思う。ただ、この並びだとヴィオラは表板を客席と反対に向けてしまうことになり、それはあまり、と思っていた。今日のヴィオラはジェズロ・マークスという背の高い人で、客席に向いた裏板から深くていい音が聴こえた。表板からの直接的な音は舞台上の他の奏者に聴きとりやすく、客席にはアンサンブルをまとめる裏板からの柔らかい音が聴こえ、なるほど良いのかもしれないと思った。

さて、明日から4月。

2013年3月27日 (水)

目の前を横切った四つ足の動物について、イタチ、テン、ハクビシン、タヌキ、アライグマ、様々な情報を寄せていただきました。ありがとうございました。
僕はタヌキかアライグマでは、と思っていたのが、その二つとも尾はそれほど長くないとのこと。さていったい。

昨日行われたサッカーのアジア最終予選、試合後のインタビューで選手たちがさばさばしていたことが印象的だった。うぅむそんなこと納得いかねぇ、ということは試合中いくつもあったのだけれど、愚痴や言い訳がましいことを言わない彼らに好感を持った。
サッカーのことはよく知らない、でも点が入る時というのは、実力だけでなく流れといったらいいのか勢いといったらいいのか、勝利の女神がほほえむことが必要なのかと思った。

松本へ。桜が盛りを過ぎかけの東京は菜の花の黄色も美しいのが、信州に近づくにつれて花の様子が変わってくる。帰京する頃にはこちらの桜も咲くだろうか。

2013年3月25日 (月)

一昨日の晩、プールからの帰りに目にした道路を横切る四つ足の動物は、猫ではなかったと思う。頭が小さく低く、体の線は後ろ足に向かって盛り上がり、しっぽはふさふさと長かった。猫ならもっと四角く見えるはずだ。ここは東京、あれはいったい?

実家にいる時に聴いていたLPレコードと同じ音源をCDで買い直すことがある。10代の頃聴いた録音をもう一度聴いて確かめたくなることがある。
今聴いているのはグリュミオーが弾くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。演奏も録音も素晴らしくてびっくりしている。二つのスピーカーの間、少し後方にオーケストラ(コリン・デイヴィス指揮のコンセルトヘボウ)が広がり、その手前にグリュミオーがいる。ティンパニや木管、ホルンの音色、ぐりぐり弾くコントラバスなど、当時のコンセルトヘボウはこんな流儀のオーケストラだということが手に取るようにわかるし、グリュミオーの素晴らしさは言うまでもない。弦楽器は確かに弓の毛で弦をこすって音を出している、その奏法がとてもよくわかる。

1960年代や70年代、50年代まで遡っても、フィリップス、グラモフォン、デッカといったレーベルの録音を聴くと、演奏者がどのように弾いているのか、手に取るようにわかる。もちろん弾き手も素晴らしかったし、録音のエンジニアたちの耳も優れていたのではないかと思う。

僕の好きなフルニエの録音は1970年の、シェリングのヴァイオリン、ケンプのピアノと弾いているベートーヴェンのピアノ三重奏曲全集だ。フルニエの録音はたくさん持っているけれど(とても残念なことに実際の音は聴けなかった)、おそらく彼はこういう音だったのだろうと思いたい。

今のデジタル録音は、すんなりしていて、さらさらと少し鬆が入ったようにすき間があって、現実のごりっとかざりっとかがあまり入っていないような気がする。現実はもっとごつごつしているはずだ。
2013年の現代、1970年よりすべてがはるかに便利に手軽になったけれど、はたして僕たちはより幸せになっただろうか、と時々考える。

2013年3月23日 (土)

この3月で

今月で都響を退団される方が何人もいらっしゃる。
昨日の定期演奏会ではバス・トロンボーンの井上順平さんが。順平さんのように存在感の大きな方がいなくなるとオーケストラの雰囲気はずいぶん変わってしまうと思う。長く在籍した職場を離れるのはどんな気持ちだろう、と思ったら胸がいっぱいになり、帰宅してから行こうかどうしようか迷っていたプールはやめにして、普段あまり飲まないビールを飲んだ。たった一缶で僕は酔っぱらった。

この春は急に気温が上がりあっという間に桜が咲いた。いつもより色が白いような気がするのは、桜も準備ができきらないうちに咲く温度になってしまった、ということだろうか。
毎年満開の桜を見ると、こんなに人をひきつけるのは単に美しいだけではなく、何か壮絶なものを感じさせるからだと思う。

家に一つだけ観葉植物がある。
20代の後半、夏の講習会に参加するために長く留守にするときは大家さんに預け、いつも決まってより元気にして返していただいていた。この何年かは鉢から根が尋常ではないくらいはみ出し、その窮屈そうな姿を見る度、春には植え替えをしてやらなくては、と思い、夏秋冬にはあぁ、植え換えの時期は過ぎてしまった、と思い、また春になると・・・。
休みの今日とうとう、近所のホームセンターであれこれ一式そろえ植え替えた。大きく成長しますように。

植え替えを済ませたら布団のなかでころころしながらエイモス・チュツオーラ著「やし酒飲み」を読んだ。奇想天外。普段自由に生きているつもりでも、実に様々な現代日本の決まりごとや何かで自分はぐるぐるにくるまれていることがわかる。

夜はチェロ・ケース修理の続き。目をしょぼしょぼさせて糸を針の穴に通そうと苦闘しながら、マルコ伝の中の「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」という言葉を思い出した。
布や糸は伸びたり縮んだりよれたりするので難しい。その後再び接着剤の出番。先日は大音量の音楽を聞きながらすさまじい臭いの中にいたら恍惚としそうになったので今日は気をつけた。自分のできることはおしまい。内装や部品は消耗したけれど、ケース自体は大丈夫だ。

2013年3月22日 (金)

チェロケースの修理、マジックテープを交換するついでに内装の布を貼り直そうと、古い接着剤の上に新しく接着剤を塗ったら、古いものも溶け出し新旧のにおいが混じって大変なことになった。くらくらしてしまった。金具も消耗していて、こちらは手に負えないので交換をお願いすることになった。
ケースのあちこちがほつれてくるのはそれだけよく働いている、ということだろうか。うむ、確かによく歩きよく働いている。

録音の仕事でゲーム音楽を、ということが最近いくつかあった。都響の音も有名なゲームで使われている。ゲームの音楽は電子的なものでつくればコストも抑えられるし雰囲気も合うような気もするのに不思議だ。量感やグルーヴ感は生身の人間が弾かないと出せないのだろうか。あるいは、何度も聞くと電子音は疲れてしまうのだろうか。僕はゲームをしないからわからないのだけれど。
一昔前、様々な楽器の音を録音する、という仕事があったらしい。それを基に電子楽器で生楽器の音を出すためだ。そんなことをすると全てコンピュータでできるようになり、自分たちの首を絞めることになりはしないか、というのは杞憂だったらしい。テレビCMでも一時シンセサイザーの音が多かったけれど、また生身の人間が出した音を使っているようだ。

急にあたたかくなって、体がというよりなかなか気持ちがついていけない。一昨日時間が空いた時に上野公園の人を見に歩いてみた。人、人、人。夜11時の経済ニュースの進藤キャスターが取材していたり(この方は食べ物の取材の時、実に美味しそうに食べるので楽しい)、リハーサルを終えた指揮者アンドリュー・リットンも桜の写真を撮っていた。

外国から初めて春の日本にきて、一斉に咲く桜を見たら、びっくりするだろうと思う。
今日の都響は文化会館で夜、プロコフィエフの4番など。花は満開となり、金曜の夜桜見物で上野は大変な人出になりそうだ。

2013年3月19日 (火)

オーケストラのリハーサルの後、「大公」トリオの練習。大公はさらっているだけで幸せだし、3人で音を出せばなお楽しい。学生時代に初めて弾いた大公は、確かに主題は印象的だけれど大きなクライマックスもなくなんだかつかみどころがなかった。今は言葉にできないくらいに豊かな世界を感じられる。年はとるものだ。

曲によってはうんざりするくらい、ベートーヴェンの作品を弾いてきた。でもときどき、手のひらに乗った砂の城がばらばら崩れるように、この人のことは何も知っていない、と感じる。

2013年3月18日 (月)

チェロケースの修理

今、写真を撮りに行く時間はないけれど、チェロが良く弾けてご飯が美味しく食べられ、その上コーヒーが飲めればかなり幸せだ。チェロを弾くことは楽しい。
それでも時々旅に憧れる。楽器なし予定もなしの旅をしてみたい。

チェロケース(ムジリア)の修理を始めた。このケースは弓をマジックテープで留めるようになっており、マジックテープが効かなくなってくると具合が悪い。すでに一度修理してもらったのに、再びケースの中で弓がごろごろするようになった。やれやれ。今度はマジックテープを東急ハンズで買ってきて(面ファスナーという名称だった)、さらった後にちくちく裁縫をした。慣れないことは思ったより大変で、今日は4枚あるうちのとりあえず一枚。

アコードケースのようにボタンで弓を留める構造にすればこんな手間は不要だ。でもアコードのゴムバンドと一体になったボタンは、弓に強い横向きの力をかけ、思わぬところで弓が反る原因となる。

ムジリアの内装は薄い布で、アコードのように分厚い断熱材がない分軽い。もちろん外の温度変化は楽器に伝わりやすいと思う。この薄い内装も何年か使っているうちにあちこちはがれてきた。今度の休みは針と糸と接着剤を持ってケースと格闘しよう。

2013年3月16日 (土)

演奏を仕事にしているからかえって、クラシック音楽は聴かない。ましてオーケストラは、というところはある。家でぼんやりしているときにはラジオからロックやポップス、ワールドミュージックが流れていたらうれしい。

それが先日新しいイヤホンをきっかけに古いCDプレーヤーであれこれ聴いてみたらおもしろく、久しぶりにチェリビダッケの録音を聴いている。今はミュンヘンフィルとのライヴ録音でブルックナーの8番。第3、4楽章だけで1時間を越えるから弾く方も、たぶん聴く方も、大変だったろうと思うけれど、その時間を感じさせない音楽の流れがある。なんだろう、これは。今こういう演奏はあるだろうか。
僕がまだ名古屋にいたとき、チェリビダッケ率いるミュンヘンフィルの名古屋公演があったし(プログラムは展覧会の絵だったと思う)、94年にミュンヘンのコンクールを受けに行った時、シーズン始めのチェリビダッケ&ミュンヘンフィルの演奏会を聴くことは可能だった。いずれの機会も逃してしまったことを今とても残念に思う。音楽にはその場で体験するしかないものが確かにある。

都響は昨日からガーシュイン&バーンスタインプログラムのリハーサル。開放的な音楽だし指揮者も明るいし(アンドリュー・リットン)、たまにはこんな演奏会もいい。
ラプソディー・イン・ブルーのソリストは山下洋輔さん。いつもと違う感じでおもしろい。山下さんが鍵盤に向かうと、まるで小さな男の子が夢中でピアノを弾いているようだ。
バーンスタインのシンフォニック・ダンス(ウェストサイド・ストーリー)にはフォルティシモで「Shout:Mam-bo」という指示がある。大きな声で「マンボ!」と叫べ、ということだ。リットンは僕たちに「今はいいけれど、本番では大きな声で叫んでほしい」と言った後、彼がイギリスのオーケストラでこの曲を取り上げた時、いかにもイギリス風の丁寧な発音で丁寧に叫ばれたことを再現して、それはすごくおもしろかった。要するに細かいことを気にせず大きな声で「マンボ!」、ということだ。さて明日はいったい。

2013年3月13日 (水)

思考停止

朝から東京では嵐のような強風が吹き荒れている。僕は恵みの雨を待ち続ける。1週間くらい降り続いてくれたっていい。
今年の花粉症にはやられてしまった。忙しかったり風邪をひいて具合が悪かったりしてもこの日記は書き続けていたのだけれど、すっかり思考が止まった。チェロをさらうことや仕事は、たぶんおそらく、まだ集中力を持ってやっていると思う。それ以外は本を読むこともできず茫然として、できることと言えば音楽を聞くくらい。

昨年10月に演奏した藤倉大「ミラーズ」(チェロ12本版)の編集済み録音を聴いた。弾けたか弾けなかったかわからないくらい難しいものを録音してどうするのだ、と思っていたけれど、聴いたら勢いがあってなんだかよかった。不思議だ。(音を聴いても相変わらずスコアは追えないくらいの速さ。10月11日の日記をご覧ください。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-24f7.html

さぁ、今日もがんばろう。

2013年3月 8日 (金)

こつぜんと

時々、忽然と物がなくなる。何年も前、真っ赤な帽子がなくなった。あんな目立つものがいつ、どこでなくなったのかまったくわからない。今度はイヤホンだった。2年前に大枚はたいた(僕としては)お気に入りがいつの間にかなくなっていた。上着のポケットやあの鞄、このかばんをひっくり返しても現れず、しばらくしょんぼりした。
無いと困るので先日新しいものを買った。2年の間に大きな進歩があったらしく、頑張らない値段で音のいいものがあった。それであれこれ聴いてみると、何年も眠っていたポータブルのCDプレーヤーが思いのほか音がよかった。音の焦点はちょっと甘い気がするけれど、空気の動く感じは、iPodなどの圧縮音源では失われているものだ。旧式と思っていたものの方がずっとよかった訳だ。それで嬉しくなって何枚もCDを選び、昨日新幹線の中で聴こうとしたら、なんとまぁ、そのCDプレーヤーが壊れてしまった。やれやれ。

昨日は大阪の小さな会場でコダーイの終楽章を弾いた。何もこの慌ただしい日程でその会場でそんな難儀なプログラムを組まなくてもよかったのだけれど、でも弾いてよかった。2拍子の、ひたすら進んでいく感じはこれまでつかめていなかった。
今日午前の新幹線で帰京、そのまま仕事に行くまではよかった。帰宅したら花粉症はひどいありさまになっていた。花粉症だから目がかゆいのか、疲れて眠いだけなのか面倒くさくて眠いのか、とにかくぐずぐず。たとえ目や鼻が辛くて集中を欠いて僕の演奏がひどくても、「あのチェロ音程悪いわね」とか「あの人へたくそ」くらいの個人的損害で済むけれど、コンピュータや車、様々な施設の操作をする人たちの集中力が落ちることがあったら大変だと思う。すでに大阪は、春霞なんてものではなくけむっていた。いったいこの空には何が飛んでいるのだ。

東京国立博物館に行った時、常設展で火焔土器の実物を初めて見た。中学の歴史の試験でこれは縄文式土器ですか?弥生式ですか?と聞かれるあれだ。教科書に載っている真横からの写真しか知らなかったので、立体の力強い造形に驚いた。
先日、ロンドン五輪でメダルをとった選手を何人か近くで見ることがあった。小柄な人が多かったし、顔も小さい。オリンピックの前後、テレビで大写しにされていたから皆大きな人たちに思えていた。もし野球選手なら大柄なのだろうか。

2013年3月 5日 (火)

東京国立博物館で開かれている「飛騨の円空」展へ。
鬼気せまる仏像ばかりと思っていたら、初めて実際に目にする円空仏は柔和で、多くは微笑んでいるように見えた。ざっくりとした風合いだけれど、核心は見事にとらえている。こんな演奏があったら惚れてしまうだろうなぁ。

その後室内楽の練習をし、広い部屋で録音しながらコダーイをさらった。前より少しはよくなっただろうか。

今日、駅であるチェリストにばったり会った。
彼女もシエナの、ブルネロの講習に来ていた。参加2年目にはイタリアのオーケストラとショスタコーヴィチの協奏曲を弾くことになっていたのに、本番2週間前から譜読みを始める、という肝の座りようだった。(そのプログラムを推薦したブルネロもさすがに慌てた様子だった)彼女の弾け具合はあきれるほど素晴らしく、その上、言葉が通じなくても誰の気持ちにもすっと入っていける天真爛漫さがあり、イタリア人たちにも大人気だった。そんなことを思い出した。
今はブリュッセルに住んでいるそうだ。「フランス語を話しているの?」と尋ねたら「話してない」と言って笑った。

2013年3月 2日 (土)

もちろん解禁の芦ノ湖に行くことはなく毎日仕事をしている。
昨日からヴィオラの今井信子さん、70歳記念演奏会のリハーサル。プログラムを締めくくるのは武満徹さんの「ストリング・アラウンド・オータム」だ。僕が初めてサイトウキネンに参加した96年には、武満さんも松本にいらしていて、もちろん彼の曲も演奏した。チェロのパート譜だけ見ると白玉の音符(全音符や二分音符、長い音をゆっくり伸ばす)ばかりで当時の僕には興味深いとは言えず、正直に言えばリハーサルは眠くて気絶しそうだった。今、武満さんの音楽は魅力的に聴こえる。オーケストラならではの広がりを持ち、艶やかで官能的だ。明日の演奏会場は東京オペラシティのコンサートホール、”タケミツ・メモリアル”。演奏中に何か特別なことが起きたりするのだろうか。

東京では昨日、春一番が吹いた。その暖かな風で僕の花粉症はスイッチが入り、爆発した。明日の演奏会が少し心配。

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