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2013年8月

2013年8月31日 (土)

始まったばかりのオーケストラリハーサルは今日は休み。アルペジョーネを少しさらってから大糸線に乗った。信濃大町のさらに向こう、中綱湖へ。

仁科三湖のなかで中綱湖は一番好きなところだ。湖というよりは大きい池、と言った方が僕にはぴったりくる。簗場の駅を降りて少し歩くともう水と草の甘い匂いがし、湖は生き物の気配に満ちている。麦わら帽子と虫取り網があればまさに夏休みだ。東京にいると時々湖畔のこの匂いが恋しくなる。雨がぱらぱら降る中、胸一杯に匂いを吸ってから木崎湖へ。

木崎湖でも釣り人の姿が見えた。信じられないことに今年は春の芦ノ湖にも行かなかった。ちょっと釣りがしたくなった。ぼんやり湖面を眺め、都会で眠っていた五感が呼び覚まされたところで再び大糸線に乗り松本へ。雨は本降りになった。

2013年8月30日 (金)

今日から大野和士さんの指揮するサイトウキネンのリハーサルが始まった。
プログラムのメインは「ツァラトゥストラはかく語りき」。僕は学生か出たての頃、訳もわからず弾いて以来だ。他にモーツァルトの交響曲と、リゲティのフルートとオーボエ、オーケストラのための二重協奏曲。大野さんによると、ツァラトゥストラとリゲティの協奏曲をプログラムに組んだのは、スタンリー・キューブリック監督の映画にちなむそうだ。

ツァラトゥストラは、おそらく交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」というよりは、映画「2001年宇宙の旅」の音楽、として知られている。これは知らなかったのだけれど、「2001年宇宙の旅」にはR.シュトラウスだけでなくリゲティの音楽もいくつも使われている。

そう、ちょうど昨日の日経夕刊に掲載された作曲家望月京(みさと)さんの連載「現代音楽を聴くヒント」にもリゲティについて
「映画ファンなら、キューブリックの映画で、彼の初期、中期の作品を聴くのも一興だ。」
とあった。

同じく昨日の日経夕刊、写真家石内都さんの文章「こころの玉手箱」から
「自分の無知を発見するのは年を取ることの喜びだ。私にとって最近の発見は、昨年行ったメキシコだった。画家のフリーダ・カーロの遺品を撮影する仕事で初めて訪れ、その魅力のとりこになってしまった。
 ・・・・・
・・・私は広島の原爆で亡くなった人たちの遺品も撮影してきたが、残された物が今はこの世にいない持ち主の人生を雄弁に語るという点では、芸術家も無名の人も何ら変わりはないという思いを強くした。
 ・・・・・」

先日見たルーヴル美術館展で展示されていた膨大な数の品々を思い出した。

松本のホテルの部屋からは山と山にかかる雲が見え、刻々と変化する光と雲は見飽きることがない。雨が降り出しそうだ。

2013年8月29日 (木)

中央線の特急「あずさ」に乗るのはいつも夏。だから今年桜の季節にあずさに乗った時、駅舎の向こうに咲き誇る数本の桜の木があり、さらにその向こう、眼下に盆地が広がる光景を見て驚いてしまった。

そこはたぶん甲府と小淵沢の間で、今日のあずさでその場所を突き止めよう、と思っていたのに、不覚にもぐっすり眠ってしまった。夕方松本着。東京よりずっと静かで虫の音がよく聞こえる。

2013年8月27日 (火)

譜読みをして体に音符を詰め込んでから、東京都美術館で開かれている「ルーヴル美術館展」へ。
http://louvre2013.jp/
2013年8月の日本で生きていると、処理しきれない量の音符や漏れ続ける水、降れば土砂降りになる雨など、頭を抱えたくなる問題は山積みのような気がする。でも紀元前2000年頃から1900年頃までほぼ4000年の時間の幅を持った、しかもほとんど製作者がわからない展示品を前にして、自分は限りなく小さな存在であると知らされる。

帰宅して、シューベルトに逃げたくなるけれど、再び勉強勉強。

2013年8月26日 (月)

東京は久しぶりに爽やかな空気におおわれた。空気が乾いてくるのはやはりうれしい。弓の毛がぴんとしてきた。

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仕事の合間、まもなくリサイタルでアルペジョーネ・ソナタを弾く若いK君と指使いや弓使いやアーティキュレーションについて、トルトゥリエはこの指使い、ペレーニの弓使いは、ゲリンガスはここにアクセントを、ペーター・マインツや団十郎の指使いは、Fさんのレッスンは、MさんのCDでは、など楽譜を突き合わせてあれこれ弾きながら話をした。ものすごく参考になった。もっと親指の活用を考えよう。
楽器を弾く身としては、アルペジョーネのような曲はどうやって弾くかとても気になる。そのことばかり気になるから楽しくなくてこの曲から遠ざかっていた。技術的なことは本来アルペジョーネ・ソナタの本質とはまったく関係のないことだ。そのことがこの曲の難しさの一つなのかもしれない。

今日の演奏会場近くの百貨店では高級腕時計のフェアを開いていた。順平さんとK君と3人でのぞいてみた。
素晴らしい時計の隣に「御約定済」という赤い札があった。見ていると吸いこまれそうで、そこには精密につくられた小さな宇宙があるようだった。それにしても家が買えそうな値段の時計を、いったいどんな人が。支払いはおもむろにあの黒色やプラチナ色のカードを出して、「一括払いで」と言ったりするのだろうか。

帰宅したら「プロフェッショナル」という番組で宮崎駿監督のことを取り上げていた。「大事なことは面倒くさい」という言葉があった。そのとおりだ。本屋に行くと「1時間でわかる・・・」とか「5日で・・Kgやせる」とか「1週間でできる・・・」とか、そんな題名でいっぱいだ。大切なことは時間をかけて苦労しないとできない、と誰もがわかっているのに。
さぁ、弾くあてはないけれど、こつこつアルペジョーネをさらおう。

2013年8月23日 (金)

「それで自由になったのかい?」

明日の都響演奏会のソリストはコリヤ・ブラッハーでチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。
頻繁に演奏されて慣れてすっかり手垢のついたこの曲の、いつもの感じはすっかりくつがえされ、どきどきするような今日のリハーサルとなった。ブラッハーはオーケストラというものをよく心得ているし、自然な姿勢からは伸びやかな音が出る。伸びやかな音色だから気付きにくいけれど、音量はかなりあるはず。とても現代的な演奏だと思う。昨日はトッパンホールで無伴奏のリサイタルだったそうだ。いつまでも弾き続けていられそうなタフさを感じた。

彼の父親は作曲家ボリス・ブラッハーだそうだ。作曲家ブラッハーと言えば、ベルリンフィル12人のチェリストのために書かれた「ブルース、エスパニョーラ、ルンバ・フィルハーモニカ」。この曲が書かれた粋ないきさつを思い出した。
(昨年7月14日の日記をご覧ください http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-659b.html

雑誌「dancyu」9月号、バッキー・イノウエさんの「それで自由になったのかい?」という文章がおもしろかったので引用させていただきます。

『 ・・・・・
 自分のことより、チームやメンバーのことを優先させてしまうため、苦い思いや無用なやるせなさのさざ波によって顔にシワを刻みこんでいくのが、ちゃんとしたおっさんだ。
 お洒落を求めるのもいいが、ちょいワルだのエグゼクティブテイストだのは、おっさんではない。それは年がいった男の子。うまい食い物や有名な店が好きで、1ヵ月前から予約をして行くタイプもおっさんではない。それはおばさん。
 おっさんは自分だけの服を着ている。たとえ安物の服であっても、その服がバーのハンガーに掛っていれば「あ、森さんが来ているんだ」となる。服が身体の一部となっている。それがおっさんのスタイルだ。俺が子供の頃、映画の中でフラフラになった刑事やワル、ダメな男や危険な男は必ずいつも同じ服を着ていたものだ。
 ・・・・・ 』

2013年8月21日 (水)

上野動物園へ。涼しい、とは到底言えない天気だったけれど、4月に生まれたばかりでまだよちよちしているゴリラの子供を見るだけでも来た甲斐があった。
http://www.tokyo-zoo.net/movie/mov_book/1306_03/index.html

暑さのせいかニホンザルは喧嘩をし、人間の母親も子供たちに怒りっぽかった。カバは完全に水に潜っていて、そのうち姿を見せてくれるだろうと待っていたら、浮かんできたのは鼻の穴とせいぜい目くらいだった。黒くて長い望遠レンズは陽の光ですぐに熱くなった。久しぶりに集中して写真を撮った。不忍池にはたくさんの蓮の花が咲いていた。

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穏やかな表情の猫たちにも会えた。

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ラボテイクにフィルムの現像を出してから、東京都写真美術館で開かれている米田知子さんの写真展「暗なきところで逢えれば」へ。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1864.html
写真にこんなにキャプションが必要だろうか、と思ったけれど、全ての展示を見てから、必要かもしれない、と思った。緻密な裏付けがあるような気もするし、とても直観的な気もする。こういう写真もあるのか、うぅむ。

様々な状況で撮られた写真を見て、僕もさらに旅に出たくなった。今日上野で使った古いニコンに50ミリレンズ、はどうだろう。レンズ一本だけなら、少し前まではどうしても35ミリだったけれど、今は50ミリがいい。重く大きくやかましい、と3拍子そろったこのカメラは、かえって強い実感をともない、ひりひりするような現実を写すことができるだろうか。

写真美術館では岩合さんの写真展「ネコライオン」も始まっていた。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1935.html
今、見たい展覧会や映画がたくさんあって、あぁ実に忙しい。

2013年8月19日 (月)

リコーイメージングスクエア銀座(ちょっと長い名前だ、以前のリングキューブ)へ。写真展「パリを愛した写真家たち」。
http://www.ricoh-imaging.co.jp/japan/community/squareginza/schedule/event_detail_04.html
僕はジャンルー・シーフの写真が好きだった。次の展示も彼の写真があるそうなので楽しみ。
ここは、入場料はかかるけれど、銀座のまさに真ん中にある隠れ家のようだ。写真集もたくさん置いてある。ジャンルー・シーフのものも(文章もいい)、そのあまりの大きさに購入を断念した「マグナム・コンタクトシート」もあった。
http://www.seigensha.com/books/978-4-86152-311-3
今度たっぷり時間をつくって来よう。

それからシネスイッチ銀座へ。映画「クロワッサンで朝食を」を観た。
http://www.cetera.co.jp/croissant/
なんとなく、明るくて軽い感じと思っていた。もちろん「ティファニーで朝食を」を意識した邦題だと思う。原題は「パリのエストニア人」だろうか、こっちの方が内容にしっくりくる。(もしそうなら今度は「パリのアメリカ人」を連想してしまう) 映画の画面は全編を通じて青っぽいグレーだ。
服や調度品は主演のジャンヌ・モローの私物だそうだ。彼女の毒のある演技も(よくあんな人間を演じられるものだ)、ちらりと見える茶目っけや寂しさも見事だった。次にどんな科白やしぐさが出てくるんだろう、とすっかりひきつけられた。茶器が皿にあたる音やドアを閉める音、足音、衣擦れの音、息遣い、そうした様々な音も効果的に使われている。背景の音楽は、低弦楽器を基本に作ってある。チェロのアンサンブルもあった。
よかったなぁ、万人受けはしないかもしれないけれど、実によかった。

まっすぐは帰宅せず、新宿コニカミノルタプラザで始まった星野俊光さんの写真展『「Cats on the Shore」 ~海辺に生きる猫たちの記憶~』へ。
http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2013august/gallery_c_130819.html
独自の視点があり魅力的な写真展だった。夕暮れ時から夜の波打ち際の猫、なんて見たことがない。高感度の性能が素晴らしく良くなった最近のデジタルカメラならではの写真だと思う。

イルフォード社がモノクロ製品値上げを発表した。
http://www.ilfordphoto.jp/info/
やれやれ、フィルムで写真を撮ることがますます優雅で高踏で世間離れしたものになってしまう。僕は先日のコダック社大幅値上げには気付かず、ヨドバシカメラのフィルム売り場で新しい値札を見た時にぐれてしまいそうになったもの。今回はデルタ3200というフィルムを少しだけ買いだめしておいた。

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2013年8月16日 (金)

今ここにいることの

しばらく使っていなかったデジタルカメラ(K-01)を使ってみたらおもしろくてあれこれ撮るようになった。(枚数を気にせず撮れるのはデジタルの良さの一つ、その緊張感のなさが短所でもあるけれど。)
あっと閃く瞬間は思いがけない時に来るのでできるだけいつもカメラを持つようにしている。それは通い慣れた道、見飽きた場所に非日常が起きていないか、目を凝らしていることだ。でもそんな広い河原に瑪瑙を探すような作業ではなく、宝が目の前にあふれているような非日常に、見るものすべてが目新しい旅に出たくなる。その時どんな光景が広がりどんな道具立てで行ったらいいかいつも考えている。

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ずいぶん前、クリスティアン・ツァハリアスというピアニストに習った時、シューベルトとは今ここにいることの心地よさ、と言われたことがとても印象的だった。物事が大きく発展したり展開したりするのではなく、その音楽の中にずっといたい、ということだ。例えば変ロ長調のピアノ三重奏で脈絡なく旋律が続く気のすることがあるのは、そう言われると合点がいく。有名な「グレート」という名前のついた交響曲の、第3楽章の長大な中間部の後半の繰り返しが終わってから主部に戻る時や、一千小節を越える第4楽章の終わりで8小節フレーズが何度も何度も繰り返される時には、この曲は終わらないのではないか、と思ったりする。実際、第2楽章は終わってほしくないほど美しい。

ベートーヴェンだったら、もっと劇的な変化があると思う。彼の9つの交響曲が全てとても違うことに驚く。9曲ともまぎれもなくベートーヴェンだ、でも同じ人間が書いたとは思えないほど独立している。

話の細部は忘れてしまったのだけれど、晩年のストラヴィンスキーは(若い時には好きでなかった)シューベルトの、長い演奏時間を要する八重奏曲について、演奏を聴きながら眠ってしまっても、目が覚めた時にまだその曲が続いていることはなんと幸せではないか、と言ったそうだ。

2013年8月11日 (日)

昨日の夕方、都心を歩いていたら巨大なドライヤーの中にいるようだった。東京は夜通し30度を下回ることがなかったそうだ。夜遅く帰宅しても変わらず熱風が吹いていたもの。
今日は午後雷が鳴り恵みの雨が降った。少しだけ涼しくなった。

Mizu

今、少しの夏休み。普段より少ないペースで仕事はしている、でも夏休み。チェロを弾くのが僕の仕事だけれど、仕事なのか遊びなのか時々わからなくなることがある。遊びとしたらかなり真剣な遊びだし、舞台は決して大げさでなく、板一枚下は、という世界だ。仕事はできるだけ効率よく(最小の労力で最大の成果を!)したいと思い、趣味や遊びやライフワークにはできるだけ多くのエネルギーを費やしたいと思う。そこが職業音楽家の難しいところかもしれない。どんな仕事場でも楽しく過ごしたいと思っている。もし音楽が純粋に仕事になってしまったら、それはきっと結構きつい仕事だ。
今日もシューベルトのピアノソナタを聴いた。

2013年8月 8日 (木)

CDのライナーノーツはあまり読まないのだけれど、シフの弾くシューベルト作品集9枚組や、ルービンシュタインのピアノ三重奏のものを読んだら興味深いことがたくさん書いてあった。
シューベルトは華やかな経歴や評判とは無関係に生きたこと、自作曲の演奏会は生涯で1度開いたこと、9曲ある交響曲が職業音楽家によって演奏されるのを彼が聴いたことはなかったこと、最後の2つの交響曲は演奏すら聴いていないこと、20を超えるピアノソナタのうち生前出版されたのは3曲だけであったこと。

『シューベルトは死というものとまっすぐ向き合うことができた唯一の作曲家だろう・・・・』
『人生は時によって、われわれの愛や成功や自由や健康や幸運を奪い取ってゆく。しかしながら人生はわれわれの思考、想像力、あらゆる芸術や本や花への愛、そしてあらゆるものへの興味を奪うことはできない』(ルービンシュタイン)

『シューベルトのトリオ(Op.99)を一瞥するだけで、われわれの人間的な経験における困難は消えうせ、世界は再び新鮮で輝かしいものとなる』(シューマン)

今日もピアノ・ソナタを何曲か聴いていた。仕事の勉強ではなく、BGMとしてでもなく、その音楽を聴くためだけにスピーカーの前に座るのはずいぶんと久しぶりだった。どの楽章も終わってしまうのを残念に思いながら聴いていた。

Zzz

2013年8月 6日 (火)

触れることのできない

目の前に迫る譜読みがなくなり、あてもなくシューベルトのアルペジョーネ・ソナタをさらっている。時間がある時は、ピアノ・ソナタのCDを聴いている。(デッカから出ているアンドラーシュ・シフのシューベルト作品集9枚組)
どんな細かい音符、小さなアーティキュレーションにも、血が通い親密で自然だ。きっと彼は美しい旋律があふれるように書けて書けて仕方なかったのだ。親密さに満ちている。もしベートーヴェンだったら一つ一つの曲がはっきりと個性を持って独立し、モーツァルトならバランスよく短くまとまり、ブラームスなら苦悶の跡がそこここに見られる、と思う。

バッハのチェロ組曲もそう思うけれど、シューベルトの作品は人前で弾かなくてもいい。とても個人的なものだ。
仕事の合間に舞台袖でアルペジョーネをさらっていたら、都響のあるヴァイオリニストが、最近ヴィオラを買い同時にアルペジョーネの楽譜も求めた、と教えてくれた。

ぐぎぐぎぱんぱかぱーんがっしゃーんどっかーんと演奏が終わるや否や怒号のような掛け声と喝采が、というのは演奏会の大事な形ではある。でもシューベルトを弾いたり聴いたりする時間は特別だ。一つのモチーフ、音程の跳躍、アーティキュレーション、装飾音符の中にさえこれまで知らなかったものが見つかる。

ただし、シューベルトには大きな問題がある。しばしば技術的にとても難しく、しかもそう聞こえないことが多い。アルペジョーネのような超絶技巧を人前で弾ける気がしない。目の前にあるのに決して触れることのできない憧れのようだ。

2013年8月 4日 (日)

水平がなくて

今日の都響はミューザ川崎で本番。
地震で崩落した天井は2年かかって修理が終わり、今年再オープンとなった。僕たちがミューザに入るのは3年ぶりだろうか。ここもそうだし、東京文化会館、東京芸術劇場など舞台裏が広いホールは使いやすい。時としてオーケストラの演奏会では100人以上の人間が楽器を出し入れし、音出しをする。チェコやスロヴァキアのホールには、舞台裏とか舞台袖のスペースはほとんどなかった。

ミューザ川崎の舞台は好きだけれど、客席を見ると水平があまりなくて時々困る。

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家に帰ってからは好きなラジオを聴きながら雑誌を読んだ。時間を気にせずごろごろできるのは極楽。

2013年8月 3日 (土)

写真家渡部さとるさんのブログ「写真生活」、8月1日にこんな文章があった。

『カメラマンにはなれるけど、それでずっと生きていくのはとても難しい。若い人に「カメラマンになりたい」と相談されても「やめたほうがいいよ」と意地悪なことしか言わない。

それでもなってしまう人じゃないと続かないからだ。』
http://d.hatena.ne.jp/satorw/20130801/1375331403

僕が大学生になってから音楽の道に進みたいと言い出した時、いろいろな人にやめたほうがいい、と言われた。もちろんその時は何くそとも、頓珍漢な僕はこの人何言っているんだ、とも思った。やってみろ、と言ってくれたのは父くらいだった。
時々、音楽と関係のない大学に通う子から同じような相談をされる。やはり僕も、やめたほうがいい、と言う。実際、今のチェロの水準は僕の学生時代とは比べ物にならないくらいに上がっていて、子供の頃から専門家を目指して訓練の積み重ねをしてきた人に途中から追いつくのはかなり困難だ。

僕が教えに行っている大学のオーケストラ(アマチュア)には感心する仕組みがいくつかある。一つは、オーケストラに在籍できるのは4年まで、というもの。在学中に音楽にのめりこんで留年を繰り返し、ということができにくくなっている。彼らは自分たちの立ち位置を冷静に分かっていてのめりこまない。見ていて残念なような気もするのだけれど、その堅実なふるまいに驚く。

最初から経済学部を志望していた訳ではなく、本当は別の学校の別の学部に行きたかった。でもあんな詰めの甘い勉強で受かるはずはない。もし第一志望に受かっていたらどんな人生だっただろう。音楽家にはきっとなっていなかった。父は、お前あの時受からなくてよかったな、と言う。
経済学部では絶望的に無勉強だった。今は、興味のなかったことを学ぶのは決して悪くない、と思う。この数カ月、かつてないくらいよく日経新聞を読んでいる。経済の面から世界を見ようとするのは楽しい。好きなことはいつでも勉強できるのだから。

コピーのミスをしたらこんな楽譜が出てきた。

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2013年8月 2日 (金)

昨日帰宅してからチェロの弦をゆるめた。秋に備えて8月は楽器も人間も少しゆるめよう。
仙川で散髪の後、国立新美術館の「アンドレアス・グルスキー展」へ。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/gursky/index.html

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写真、というより絵筆をカメラに置き換えた感じがした。多くの作品は複数の写真が合成されている。例えば「パリ、モンパルナス」にはパリのアパルトマンが画面にはみ出して写っている。水平と直角で構成された建物は、本当に水平と直角を成して画面にある。まさに設計図のとおり、頭の中にあるとおり。
でも物事は実際に肉眼で見る時、一つの視点から一台のカメラから見る時、絶対にそう見えない。例えば部屋の中にある様々な直角、部屋の角、ドアの角、テレビの角は真正面から見ない限り直角には見えない。人間は実際に見えたものを脳のどこかで変換して、認識している。グルスキーの作品はその変換の過程をなくしていきなり目の前に出してくる感じだ。だからこういうのをコンセプチュアル・アートというのか。この人はきっとものすごく長い時間、コンピューターのモニターの前に座っているはずだ。

実際にはありえない靴売り場を写した「プラダⅠ」「プラダⅡ」なんてとてもおもしろかった。次の作品が現れるたびに目と頭がくらくらするような気がした、けれど慣れてくると次がだんだん予想できるようになる。予想できない驚きがあるから芸術だと思うのだけれど。
昨晩放映されたクローズアップ現代で、ジョー・プライスさんが自身の所蔵する若冲の絵を見る姿を思い出した。説明できない何かを求めて、物質的にはどうしても満たすことのできない何かのために、僕は絵や写真を見たり音楽を聴いたり本を読んだりする。もちろん、人間は何をしようと自由だ。

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今日、思いもかけず貴重なコーヒー豆を頂いた。パッケージには「Luwak Coffee」とある。映画「かもめ食堂」にも出てくるコーヒーだ。早速淹れた。高原を吹き抜ける風のように爽やかだった(ワイン漫画風の言い方かな)。苦みもえぐみもなく、このコーヒーの味だけで充足する。
どういうコーヒーか、成り立ちを知ると驚きます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%82%AF

2013年8月 1日 (木)

プレゼンテーションでラフマニノフのソナタとチャイコフスキーのピアノ三重奏のそれぞれ部分を弾いた。何度弾いてもいい曲だし楽しかったなぁ。どちらも演奏の機会が増えると嬉しいのだけれど、はたして結果やいかに。

今日の日経夕刊、藤崎一郎さんのコラム「プライスさん、ありがとう」では宮城、岩手、福島県を巡回している伊藤若冲展(プライス・コレクション)のことが紹介された。同展は今晩放映されたNHKのクローズアップ現代でも取り上げられていた。
http://jakuchu.exhn.jp/
外国人が日本人画家の素晴らしさに気付き、それがようやく本国で認識されるようになった、ということだろうか。

ドナルド・キーン著「百代の過客 日記にみる日本人」を読んでいる。平安から江戸時代までの、様々な日記を取り上げた文章は実におもしろい。今や日本国籍を取得したキーンさんだけれど、外国人だからこその視点は新鮮だし、胸のすくような歯切れいい文章がある。(日本の専門家はこんなにはっきりと断言できるかしら。)
「いほぬし」の箇所でこんな記述があった。

『・・・。だが彼が褒めるものが、常に最もよく知られた光景や音声などにかぎられるのは、いったいなぜであろう。どうやらこれは、中世の旅人に典型的な流儀らしいのである。彼らはまず、先人の歌によってすでに知られた場所へ行く。そして彼らがそこで褒めそやすのは、桜かもみじにかぎられ、名もない丘に咲く名もない花の美しさには、一言一句も費やすことがないのである。川端康成は「東海道」(千九百四十三年)という作品の中で、この現象について次のように説明している。「先人の足跡に従って、名所古蹟にお百度を踏むだけで、無名の山川をみだりに歩かぬのが、日本の芸の修行の道だし、精神の道しるべだった」。』

なるほど、得心するところがあった。現代の日本人にもこのメンタリティーはあるように見える。

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