触れることのできない
目の前に迫る譜読みがなくなり、あてもなくシューベルトのアルペジョーネ・ソナタをさらっている。時間がある時は、ピアノ・ソナタのCDを聴いている。(デッカから出ているアンドラーシュ・シフのシューベルト作品集9枚組)
どんな細かい音符、小さなアーティキュレーションにも、血が通い親密で自然だ。きっと彼は美しい旋律があふれるように書けて書けて仕方なかったのだ。親密さに満ちている。もしベートーヴェンだったら一つ一つの曲がはっきりと個性を持って独立し、モーツァルトならバランスよく短くまとまり、ブラームスなら苦悶の跡がそこここに見られる、と思う。
バッハのチェロ組曲もそう思うけれど、シューベルトの作品は人前で弾かなくてもいい。とても個人的なものだ。
仕事の合間に舞台袖でアルペジョーネをさらっていたら、都響のあるヴァイオリニストが、最近ヴィオラを買い同時にアルペジョーネの楽譜も求めた、と教えてくれた。
ぐぎぐぎぱんぱかぱーんがっしゃーんどっかーんと演奏が終わるや否や怒号のような掛け声と喝采が、というのは演奏会の大事な形ではある。でもシューベルトを弾いたり聴いたりする時間は特別だ。一つのモチーフ、音程の跳躍、アーティキュレーション、装飾音符の中にさえこれまで知らなかったものが見つかる。
ただし、シューベルトには大きな問題がある。しばしば技術的にとても難しく、しかもそう聞こえないことが多い。アルペジョーネのような超絶技巧を人前で弾ける気がしない。目の前にあるのに決して触れることのできない憧れのようだ。
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