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2013年12月14日 (土)

霊感に満ちた

ナショナルジオグラフィック誌12月号、最初の特集は「全長3万3000キロ 人類の旅路を歩く」。徒歩で7年かけ、人類生誕の地、東アフリカから中東、アジア、北米を経て、南米大陸最南端ティエラ・デル・フエゴを目指す、という壮大なものだ。まだ旅は始まったばかり、歩いているのはジャーナリスト、ポール・サロペック、目的地への到達予定は2019年。
写真を撮りながら旅をするとよくわかるのだけれど、徒歩でなければ見えない世界がある。というよりもしかして、歩かなければ世界は見えないのでは、と思うこともある。それにしてもこの人はすごいことを考えたものだ。
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20131122/374586/

今、見たい展覧会も映画もたくさんあるのに、なかなか出かけられずむずむずしている。

先日読んだミハル・アイヴァス著「もうひとつの街」の中に、こんな一節があった。

『・・・このような出会いは初めてではなかった。どこかに通じているはずの半開きになっている扉のなかに足を踏み入れることはせずに、これまで何度も通り過ぎてしまったにちがいない。見知らぬ建物のひんやりとする廊下や中庭、あるいは街はずれのどこかで。この世の境界は遠くにあるわけでも、地平線や深淵で広がっているわけでもなく、ごく身近な場所で、かすかな光をそっと放っている。私たちが接している空間のはずれの暗がりのどこかにあるはずだが、自分では意識しないものの、つねに眼角を通してしか世界を見ていない私たちは、ほかの世界を見過ごしている。私たちが始終歩いているのは岸辺や原生林のはずれでしかなく、その私たちの振る舞いが隠れた空間を含む全体から浮いてしまっているので、隠れた空間にひそむ闇の生をかえって目立たせているかのようだ。けれども波のざわめきや動物の甲高い声といった、私たちの言葉に不安そうに連れ添っているもの(また、それらの音が生まれる謎の場所)に私たちが気づくことはなく、見知らぬ土地の片隅できらめく宝石に気づくこともない。というのも、たいていの場合、私たちが一生のあいだに道を外れることはいちどたりともないのだから。・・・』

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街を歩いていて、いつもの場所が突然違う顔を見せることがある。でも周囲はいつものように何事もなく過ぎていく、そんな時、不思議な感じがする。

チェロを弾いている時、もしかして素晴らしく深い音を出しかけているのに、気づかず素通りしてしまっていることがあるのではないか、と思うことがある。素晴らしい世界への入り口が目の前にあるのに、気づかず、何もないところでじたばたしているのかもしれない。

バルトークの2番のヴァイオリン協奏曲のスコアを見ていた。四拍子、ハープの四分音符で始まる、それぞれの小節は同じ和音のまま。バルトークはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を思ったのだろうか。そして低弦楽器が和声の動きを示し、ソロのヴァイオリンが登場する。ヴァイオリンの一番太いG線の解放で旋律が始まり、そのままG線のハイポジションに昇っていく。楽器の特性をよくつかんだ素晴らしい書き方だ。4小節ごとにオーケストラの楽器が増える。最初の15小節、ソリストはどんな気持ちで弾くのだろう、何かに持ち上げられてはばたく感じだろうか。霊感に満ちた素晴らしい冒頭だ。人間技でなくなっていくのはもう少し先のこと。
ソロがG線のオープンで始まるヴァイオリン協奏曲といえば、プロコフィエフの2番も浮かぶ。でも今の僕にはバルトークの方がはるかに広く高い世界に聴こえる。伝記を読むと(アガサ・ファセット著「バルトーク 晩年の悲劇」)、彼がとても難しい人で、悲劇的な人生だったことがわかり、辛くなる。

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