自分の中の知らない自分にゆだねて
先日の横浜の演奏会は暗譜で弾いた。ヒンデミット、バッハ(不規則な弓使いで)、コダーイという無伴奏のプログラムを覚えるのは楽々、という人は多くいるだろうし、僕も20代だったら何とも思わなかったかもしれない。でもオーケストラの仕事をするようになり、常に目の前に楽譜が置かれ、その膨大な音符を見ては弾く習慣がつくと、いつのまにか暗譜が特別なことになっていた。
無伴奏は最高の自由度を持つ。そこで本当に自由になれたら幸せだ。一方、一度体勢を崩すとなかなか回復できないという裏返しの難しさがある。ピアニストと一緒だったり、室内楽だったりしたら、他の奏者が弾いている間に一息ついたり、助けてもらえたりできる。でも一人で暗譜が飛びそうになりながら弾く時の恐怖は、あまり思い出したくないものだ。自分が弾くのをやめたら音楽は止まってしまう・・・、とか、次のパッセージはどんな具合に展開していくんだっけ、などと考え始めたらもう弾けなくなる。
ソチで開かれているオリンピックの様々な競技を見て、高度な技はほとんどが無意識下で行われているのでは、と思った。無意識という言葉を、高い集中力、と言い換えてもいいかもしれない。すでに体が覚えていて無意識なら難なくできることを、緊張から意識してしまったり、あっと思ったり、はっとしたりした瞬間にバランスを崩すのではないだろうか。
例えばヒンデミットの7度の重音で次々に跳躍する部分や、コダーイにたくさん出てくる速くて難しいパッセージは、一旦指使いや暗譜を意識し始めるととたんに難しくなるし、間違えやすい。無意識にゆだねてしまえばいいのだ、と気づいた。自分の中の知らない自分にゆだねてしまえばいい。もちろんそのためには充分な準備が必要。でも、うまく無意識の流れに入れれば、難しいパッセージも無事過ぎ、長い曲もあっという間に終わる。
意味は違うだろうけれど、ルカ伝の中にこんな言葉があった。
『人なんぢらを会堂、或ひは司、あるひは権威ある者の前に引きゆかん時、いかに何を答へ、または何を言はんと思ひ煩ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん』
横浜での演奏会は本当に楽しかった。知らない世界が見えた気がした。普段のオーケストラの仕事は徹底的に意識的なものだ。常に周囲へのアンテナを張り、その時々の自分の役割を把握し、一つの歯車としての仕事を全うする。自由に弾ける部分はあまりない。それもおもしろいのだけれど。
暗譜で弾くのは全く違う世界だ。楽しかったなぁ。強制されるのは勘弁願いたいけれど、また暗譜しよう。今度は6月末のアルペジョーネ・ソナタ(終楽章がロンド形式でぐるぐる回り、実に覚えにくい)と、昨年覚えきれなかったチャイコフスキーの奇想的小品を(学生時代は平気だったのに)。
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