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2014年7月

2014年7月27日 (日)

草や水の匂いの

仕事から帰ってぼんやりテレビを見ていたら、旅番組でベルギーのことを取り上げていた。

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淡い光のブリュッセル、アントワープ、ゲントはとても美しかった。久しぶりに行ったことのない彼の地のことをうっとり考えた。ベルギー、冬のハワイ、ノースショア、そんなに遠くに頑張らなくてもいい、日本の標高の高い、草や水の匂いのするところでもいい。また旅の虫がむずむずしている。

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2014年7月25日 (金)

「大いなる沈黙へ」

 

昼過ぎ、外に出たら蒸し焼きにされそうだった。2020年東京オリンピックの日程は7月24日から8月9日までだそう。
https://tokyo2020.jp/jp/plan/
その年が冷夏ならともかく、この暑さの下、マラソンなどの競技が行われるのだろうか。

昨日は映画「大いなる沈黙へ」に。
http://www.ooinaru-chinmoku.jp/index.html
フランスアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院内の日々を追ったドキュメンタリー。撮影を申し込んでから16年後に許可がおり、フィリップ・グレーニング監督はただ一人カメラを携えて半年間修道士とともに暮らした。グレーニング監督の言葉から。

『ナレーションもなく、あの空間だけで、映画が修道院そのものになった。雲のようにつかみどころのない映画、私が最初にこの作品のアイデアを思いついた時、こう表現していた。・・・・・・
 そうだ。そうなんだ。雲とは何か?その答えは難しい。雲には様々な種類がある。どれもまったく違っているが、その一つ一つどれもが正しい。間違った雲など見たことはない。

 結局、私は6ヶ月近くをグランド・シャルトルーズ修道院で過ごした。修道院の一員として、決められた日々の勤めをこなし、他の修道士と同じように独房で生活をした。この、隔絶とコミュニティーの絶妙なバランスの中で、その一員となったのだ。
 そこで映像を撮り、音を録音し、編集した。それはまさに、静寂を探究する旅だった。』

ナレーションも、いわゆる映画音楽も、話の筋らしきものも、何もない。とても静かな映画だった。正直に言うと僕の記憶はところどころない。でも、その時間の流れに慣れてくると画面に入り込めるような気がした。
神保町の岩波ホールには開場前から行列ができるほどの盛況だった。最近の映画館に慣れた身には、岩波ホールの小さく、居心地のいいとは言えない椅子で3時間近くじっとしているのは、ちょっと骨だった。僕はじっとしているのが本当に苦手だ。

2014年7月23日 (水)

生きていくための

たとえば翌日に控えた仕事の譜読みを夜も更けてからごそごそするのは、どちらかと言うと、あまり楽しくはない。でも、しばらく先に弾く曲をあれこれ思って試しながらさらうのは本当に楽しい。生きていくための大切なエネルギーになる。それは少し前まではアルペジョーネ・ソナタだった。今は、秋の終わりに弾かせてもらうドヴォルザークを大事に大事にさらっている。

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昨日は少しさらってから映画のはしごをした。
「人生はマラソンだ」を観てから
http://www.zaziefilms.com/marathon/
「チョコレート・ドーナッツ(原題Any Day Now)」へ。
http://bitters.co.jp/choco/

「人生はマラソンだ」を、調子のいいおじさんたちの予定調和的な映画だろう、と出かけたら、思いのほか真正面でずしりとした重さがあった。良い意味で参ってしまった。「チョコレート・ドーナツ」も、みぞおちにどしんとくるような負の部分をしっかりと見すえていて、もしかしてそういった部分は日本人が表現しようとすると、ほのめかすだけか、あるいは触れることもないかもしれない、と思った。
ブルックナーやマーラーの交響曲を弾くと、どうしてこの人たちはこんなにグロテスクなものを書くのか、と思うことがある。ブリテンの戦争レクイエムやオペラ、バルトークの「青ひげ公の城」も、どうしてその主題をそこまで、と思うことがある。それが結局彼らの表現の強さにつながっているのだろうか。

2014年7月21日 (月)

知らない世界に

東京もそろそろ梅雨明け。またあの暑さが戻ってきて、日中うっかりふらふら歩きにくくなったということはあるけれど、そして暑くなる前にもう少し海を見ておきたかった、という軽い後悔はあるけれど、最近写真を撮りに出かけることがなくなった。(もちろん、鞄にはいつも小さなカメラが入っていて、気付くことがあると撮っている。)
その代わり、この一年くらいのうちに撮ったものの中から、時間がたっても気になっているものを選んで、六つ切りの大きさに伸ばしてもらうようにしている。いつもはRCのキャビネサイズだった。ようやく伸ばしてもいいと思えるものが出てきた。素晴らしい職人技で六つ切りの、しかもバライタ紙に焼いてもらう。美しいプリントが少しずつ増えていくのはうれしい。時間がたっても意識に残っている写真をもう一度見直して大きく伸ばすのは、うまく説明できない、でも何か意味のあることに思える。

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写真をそれほど撮らなくなったのは、本を読むのとチェロを弾くのがおもいしろい、ということもあると思う。この二つに共通するのは自由な心を持てること。居ながらにして知らない世界に行けるし、チェロを弾くのは、たとえ一つの音でもどこかに飛んで行けるほど自由だ。ロストロポーヴィチが言ったように、音楽は「太陽への窓」だ。

チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を読み終えた。僕としては短い時間にチャンドラーを二作読み終えたのは、探偵小説としての本筋のおもしろさはもちろん、文章の魅力もあると思う。もし文章を書くことを職業にしていたら、どうにも影響されてしまうのではないだろうか。的確な例えではないかもしれない、シャフランのチェロを聴くと、しばらく彼の音が頭の中で鳴ってしまうように。
「ロング・グッドバイ」の、こんな文章が好きだった。

『その日が調子はずれな一日になることは最初からわかっていた。誰の人生にもそういうお馴染みの一日がある。やってくるのはねじの緩んだ連中ばかりだ。脳みそを糊でかろうじて貼り合わせているぼんくら、木の実の隠し場所を忘れてしまったリス、いつも歯車を入れ忘れる機械工。』

『電話を切った。それからドラッグストアに行って、チキンサラダ・サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。コーヒーは幾度ものお勤めで疲弊気味だったし、サンドイッチには細かくちぎられた古いシャツのような深い味わいがあった。トーストされ、二本の楊枝でとめられ、レタスがわきからはみ出していれば、アメリカ人はどんなものだって文句を言わずに食べる。そのレタスがほどよくしなびていれば、もう言うことはない。』

『フランス人はこのような場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。
 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。』

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さて、もちろん次の本が待ち構えている。

2014年7月17日 (木)

心あたたかく

映画「グランド・ブダペスト・ホテル」へ。映画の魅力を満喫した。
http://www.foxmovies.jp/gbh/

実はその前に観た「名作」とされる映画は僕としては大はずしで、途中で出ることも考えてしまった。一方、さらにその前に観た「テルマエ・ロマエⅡ」には笑い転げた。同じ日本人キャストでも、典型的日本人顔の俳優を「平たい顔族」に、彫の深い顔の俳優をローマ人役に配したり、「へいへいほー」の歌が流れる時(その時映るニホンザルが誰かに似ている)盛大にヴィヴラスラップの音が入ったり(時々この楽器が欲しくなる。http://www.youtube.com/watch?v=RJpT2Kn-jfc)、わかってはいるけれど絶妙なタイミングでイタリアオペラの名曲が流れたり。その名曲の数々があまりに壮大流麗な演奏なので、はて、テルマエのために都内のスタジオででも録ったのかな、と思ったら。エンドロールに、ジェイムズ・レヴァイン指揮フィルハーモニア管とかジョージ・セル指揮クリーヴランド管などと出て、納得した。

さて「グランド・ブダペスト・ホテル」。憧れ、共感、郷愁、義侠、などの人間味を、ユーモアというオブラートに上手にくるんで、見事な世界を現出させた。主人公「ゼロ」役の目がくりっとしたトニー・レヴォロリは映画を生き生きとしたものにしていたし、冷酷な用心棒「ジョプリング」役のウィレム・デフォーは映画「プラトーン」の悲劇的な「エリアス」役だった人だ。美しい画面の構成も、テンポの良い話の進みも、音楽の使い方も、エンドロールの最後に至るまでぬかりなく見事だった。ホテルのセットなどはCGではなく、ミニチュアを撮影して合成しているそうだ。それがコミカルな表現に一役買っている。
確かに映画でしか表現できない世界がある。劇場を出て、心あたたかく家に向かった。

2014年7月15日 (火)

音の立ち昇り方に

日曜夜、別のものを見ていて(テレビ東京の住宅番組)気付くのが遅く、終楽章の途中からしか見られなかったのだけれど、ヨハネス・モーザーの弾くラロの協奏曲、上手だったなぁ(5月16日N響定期演奏会)。ちょっと時代が変わってきた気がする。指揮のヘスス・ロペス・コボスの二つの瞳を見て、ブルネロの目を思い出した。似ていると思う。

ハイフェッツの演奏をよく聴いている。1925年から34年の古い録音は手に取るように音が見える。音の立ち方、立ち昇り方に秘密があると思う。弓の毛と弦の噛み具合にきっと何かある。

僕は何本か弓を持っている。手に入れる時は、もうこれしかない、と思ってのことなのだけれど、しばらくすると?、ということはある。弓が変わるのか楽器が変わるのか、人間が変わるのか。数ヵ月間、惚れこんだようにその弓を使い、ある時はたと別の弓の良さに気付く。弾き方が変わるとその弓の別の面が見えてきてうれしい。それはつまり、相手の器全体を見ていなかったことになるのかもしれない。

レイモンド・チャンドラーの「さよなら、愛しい人」はあっという間に読み終え、今は「ロング・グッドバイ」に。版権で見ると2作の間には13年の開きがあり(「ロング・グッドバイ」が後で1953年)、その間に作家が変化したことがわかる。その変化も含めて、こんなにおもしろいものをころころ横になりながら読むのは本当に楽しい。

2014年7月10日 (木)

圧倒的な強さ

先日、梅雨の晴れ間にギャラリー冬青へ、渡邉 博史 写真展「ダムの崩れる日」。
http://www.tosei-sha.jp/TOSEI-NEW-HP/html/EXHIBITIONS/j_1407_watanabe%20.html
何が良いのかうまく説明できないけれど、良かった。時々そういうことがある。会場には展示されている写真も収められた写真集が置いてあり、その中には展示のプリントより小さいサイズで掲載されているのだけれど、かえって凝縮された良さがあった。ふだん大きいものが小さくなるとがっかりするものなのに、不思議。

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にわかサッカーファンになっている。ワールドカップ準決勝、アルゼンチン・オランダ戦も見事な試合だった。力と力のぶつかりあい、なかなか勝負がつかず延長の末のPK戦なんて、人間の力を越えたところで戦っている気がした。
一方、ヨーロッパではツール・ド・フランスが始まっている。昨日の第5ステージ、気温15度雨天という厳しい状況に落車が続出した。しかし、ステージ優勝したラース・ボームは7つの石畳区間を含む150kmを超えるステージを、なんと平均時速47kmで走りきった。しかも最後は独走だったもの。お見事、すごいなぁ。圧倒的な強さだった。
http://www.jsports.co.jp/cycle/tour/

僕は、初めてレイモンド・チャンドラーの探偵小説を読んでいる。「さよなら、愛しい人(さらば愛しき女よ)」。まさに読書の悦楽というべき。いつもよりチェロをさらう時間は少なくなり、布団の上にころりと横になって読むのは至福。どうして人の頭の中から生まれた小説はこんなにおもしろいのだろう。

昨日土石流で大きな被害のあった長野の南木曽町は、以前釣りに連れて行ってもらったあたりではないだろうか。台風8号の影響で東京は午後から風が強くなり、夜、雨が降り始めた。

2014年7月 7日 (月)

ヴォイスパーカッションも

来月人前で弾こうと思っている曲があって、動画を探すといろいろ出てくる。
http://www.youtube.com/watch?v=uGVBgHbNLZI

なんと、弾きながらさらにヴォイスパーカッションを入れている人がいる。驚いた、世界は広いなぁ。
http://www.youtube.com/watch?v=PsZo4NAD-94

2014年7月 6日 (日)

「こわい絵本」

先日、のこのこ新宿伊勢丹に出かけた。「ウォッチコレクターズウィーク」が開かれていて、トゥールビヨンという機構を見たかったから。とうてい手の届くようなものではないし、たとえ世界一のトゥールビヨンでも正確さでは電波時計に及ばない。でもその動くさまを見ていると小さな宇宙のようで、夢がある。
そうそう伊勢丹に行く訳ではないので物珍しく店内をぶらぶらしていたら、オーディオの小さなスペースがあった。足を止めて96khz、24ビット(だったかな)の音源を聴かせてもらった。家にもあるキース・ジャレットのソロ・アルバムは、響きの情報量が多くて驚いた。ちょっときれい過ぎる気もするけれど。近い将来CDはなくなり、音楽はMP3のような圧縮音源と、ハイエンドの情報量の多い音源と、アナログ・レコードとして残っていくのだろうか。

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読みかけの本や雑誌がたくさんあっても、本屋に入ると何か見つけてしまう。雑誌「Monkey vol.3」の特集は「こわい絵本」。
http://www.switch-store.net/SHOP/MO0003.html
色のある美しい絵がたくさん入っている本は楽しい。メルヴィルの「白鯨」にマット・キッシュが絵を付けたものが、意表をついておもしろい。こういう感じに「白鯨」をとらえる人がいるんだなぁ。
巻末には村上春樹さんの連載が。「オリジナリティーについて」という文章から。

『・・・・・あらゆる表現作業の根幹には、常に豊かで自発的な喜びがなくてはなりません。オリジナリティーとはとりもなおさず、そのような自由な心持ちを、その制約を持たない喜びを、多くの人にできるだけ生のまま伝えたいという自然な欲求、衝動のもたらす結果的なかたちに他ならないのです。
 そして純粋に内的な衝動というものは、それ自体のフォームやスタイルを、自然に自発的に身につけて出てくるものだということになるかもしれません。それは人為的に作り出されるものではありません。頭の切れる人がいくら知恵をしぼっても、図式を使っても、なかなかうまくこしらえられるものではないし、たとえこしらえられたとしても、おそらく長続きしないはずです。・・・・・』

2014年7月 1日 (火)

AからZへ

6月29日深夜に放送されたJ-WAVE、GrowingReedのゲストは佐藤雅彦さん。発想がおもしろく話にひきこまれた。
http://www.j-wave.co.jp/original/growingreed/contents/
彼は地下鉄有楽町線で桜田門駅のアナウンスを聞くと、「桜田門、さくらだもん、さくらだもん」から「うめじゃないもん、さくらだもん(梅じゃないもん桜だもん)」と連想したり、五反田駅では「ごたんだだったんだ」という音を思い浮かべてしまったりするそうだ。なるほど、ここから湖池屋「スコーン」やNEC「バザールでござーる」などのCMが生まれたのだ。
学校で教えている佐藤さんは方法論を書くようにしているが(方法論があれば、それを勉強すれば身につけることができる)、それは踏み台でしかない。そこから跳ばなくては、という話も興味深かった。AからB、BからC、・・・YからZ、ではなく、いきなりAからZ、のように。

少し前にサポルスキー著「サルなりに思い出すことなど 神経科学者がヒヒと暮らした奇天烈な日々」を読み終えた。http://www.msz.co.jp/book/detail/07832.html
半ば過ぎまでおもしろい。著者が石油を運ぶソマリ人のトラックに乗せてもらいケニアを目指すくだりは、椎名誠さんの近未来SFのようだった。読み進むにつれ、どうして深刻な状況をおもしろおかしく描いているのかがわかってくる。個人の力ではどうしようもない様々な事柄が押し寄せてくるからだ。

まもなく読み終えるのはボリス・シリュルニク著「憎むのでもなく許すのでもなく ユダヤ人一斉検挙の夜」。
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg645.html
ユダヤ人精神科医である著者が、戦中だけでなく戦後に及ぶ自身の過酷な体験を読み解いていく。傷のない人なんていないと思うし、もしかして読むことによってパンドラの箱が開いてしまうかもしれないけれど、傷を負った人にすすめたい。
「サルなりに思い出すことなど」も「憎むのでもなく許すのでもなく」も、日本語訳が刊行されたのは最近、でもかなうことならもっと前に読みたかったと思う。「憎むのでもなく許すのでもなく」の中から。

『私は、あらゆることを詳細に覚えていたが、活発に暮らしている自分がトラウマに悩まされているわけがない、と信じこもうとしてきた。大人たちから「悪夢にうなされることがあるか」と尋ねられたときも、私は、夜はぐっすり眠っていると答えたように、自分は強い人間だと思いこんでいた。だが私は、単にそれを避けてきたのだ。前進することで逃れ、行動すること、夢見ること、恵まれた出会い、言ってはならないことを封印するためのおしゃべりなどによって、自己の殻に閉じこもっていたのだ。感情をよみがえらせることなど、耐えられなかっただろうし、私の話を信じない相手の疑り深い態度や無理解に、私は打ちひしがれた思いをしただろう。』

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20年前の僕だったらクラシックかジャズ以外のCDを聴くなんて考えられなかったかもしれないけれど、今聴いているのはエド・シーランの新しいアルバム「X(マルティプライ)」。若い彼の歌にどうしてひきつけられるのだろう。

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