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2014年8月10日 (日)

どういう演奏を

昨日から東京にも雨が降り始めた。今回西日本に大きな被害をもたらした規模の雨がもし東京に降ったら、この街は大丈夫だろうか。

先日読み終えたのがスティーヴン・ストロガッツ著「SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか」。
東南アジアでいっせいに明滅するホタルの群れに始まり、人間の睡眠周期、同期する二つの大きな振り子時計、レーザー光、高圧送電網、GPS、超電導、橋、カオス、不整脈、交通渋滞、・・・。様々な事柄を、同期という視点から解き明かそうとする。残念ながら僕の頭では充分に理解できたとは言えないのだけれど、その自由で思いもよらない発想と過程には、自分にも世界が違う様相を見せてくるようで、わくわくした。
どのくらいの割合の人たちがそうなのかは知らない、僕は中学高校で数学や物理に随分劣等感を抱いた。でも今こういう本を読むと、その考え方が本当におもしろいと思う。

その勢いで読み始めたのが、岩波新書から出ているアインシュタイン/インフェルト著「物理学はいかに創られたか」。この本はなぜかなかなか読み進められない。上巻の最初のほうにこんな文章があった。

『物理学の概念は人間の心の自由な創作です。そしてそれは外界によって一義的に決定せられるように見えても、実はそうではないのです。真実を理解しようとするのは、あたかも閉じられた時計の内部の装置を知ろうとするのに似ています。時計の面や動く針が見え、その音も聞こえて来ますが、それを開く術はないのです。だからもし才能のある人ならば、自分の観察する限りの事柄に矛盾しない構造を心に描くことは出来ましょう。しかし自分の想像が、観察を説明することの出来る唯一のものだとは言えません。自分の想像を、真の構造と比べることは出来ないし、そんな比較が出来るのかどうか、またはその比較がどういう意味をもつかをさえ考えるわけにゆかないのです。けれども、その知識が進むにつれて、自分の想像が段々に簡単なものになり、次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようになると信ずるに違いありません。また知識には理想的な極限があり、これは人間によって近づくことのできるのを信じてよいでしょう。この極限を客観的真理と呼んでもよいのです。』

最近よく聴いているのがハイフェッツの弾くプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番(ミュンシュ指揮ボストン響)。
音の立ち方、弓の毛と弦との噛み具合、アタックやアクセントの入れ方、柱になる音の強調の仕方、オンザストリングとオフザストリングの使い分け、音程感、ポルタメントの入れ方・・・、書き出すときりがないけれど、この録音には、オーケストラと一緒に弾く時、ソリストはどういう演奏をしなくてはならないか、ということが見事に示されていると思う。

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一昨日で仕事が落ち着き、久しぶりに中古カメラ店に足を運んだ。前から気になっていたカメラを触らせてもらう。ピントの山をつかみやすいファインダーと、絶妙な形と大きさと、しっとりとした感触にまいった。ペンタックスのLX。メンテナンスの問題がなければ、欲しいなぁ。最新のデジタルカメラが失ってしまったものは確実にあると思う。

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