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2014年9月

2014年9月30日 (火)

若い人たちに


久しぶりに秋田新幹線に乗ったら、よく広告で見かける赤い新型車両になっていた。驚いたのは棚が狭くてチェロが載らないこと。僕のムジリアも、アコード・ケースも駄目だった。まいったなぁ。これから「こまち」に乗る時は最後列の席を取らなくては。

毎朝のように聞いていたInterFMの番組「バラカンモーニング」が今月で終わった。知らない曲がたくさん聞ける番組だったのに、とても残念。
御嶽山のニュースを見るたびに心が痛む。小さい頃スキーに連れていってもらった山だ。

今日は横浜の小学校へのアウトリーチ。大窪晶さんの朗読で宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から。賢治の作品に触れて、やはり素晴らしいと思ったし、じっと聴き入る子供たちの集中力にも心動かされた。この子たちはどんなことを感じているのだろう。体はもそもそ動かしていても目は集中している。余計な考えがないように見える。大人が失ってしまった集中かもしれないと思った。

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最近よく聴いているのはエド・シーランのアルバム「+」。彼が20歳の時に出したメジャーデビューアルバムだ。誰かとの共同制作はあっても、とにかく詞も曲も作って1枚のアルバムを、というのは素晴らしいと思う。ジャケット写真は気に入らないけれど、入っている音楽は新しいアルバム「X」(マルチプライ)より好き。若い人たちに教えられたり励まされたりすることが多くなった。

2014年9月27日 (土)

北へ

午前中の東北新幹線で北へ。仙台を過ぎると刈り入れの終わった田圃が多く目に入るようになる。当地の紅葉はこれからだろうか。
夕方、都響の盛岡公演が終わってから再び新幹線に乗り、秋田へ。明日は由利本荘で演奏会。初めて行く町はどんなところだろう。

2014年9月24日 (水)

絵のような

リハーサルの後、品川のキャノンギャラリーで開かれている内藤さゆり写真展「Once in a Blue Moon」へ。
http://cweb.canon.jp/gallery/archive/naito-bluemoon/index.html
閉館間際に急ぎ足で。出かけてよかった、思わず足を止めて見入ってしまう魅力があった。何だろう。こういう写真があるんだなぁ。絵のような写真、美しいプリントだった。「Once in a Blue Moon」というタイトルも印象的。(『今はもう使う事も少なくなった「ごくまれな」「まれなこと」という詩的文語表現。ひと月に2度の満月があるというBlue Moonが由来となる。』)
外に出ると世界は違って見えた。僕も旅に出たい、と強く感じた。

それから映画「リスボンに誘われて」に。
http://lisbon-movie.com/
過去と現在が見事にリンクし、あっという間に終わっていた。舞台がスイスのベルンからポルトガルのリスボンに移っても登場人物の話す言葉は英語で、知らないポルトガル語の響きを聞きたかった気はするけれど、それは興行上の理由だろうか。映画自体は素晴らしい出来と思う。

2014年9月23日 (火)

芸術の秋、というより

このところ慌ただしかった仕事が昨日で落ち着き、今日は晴れ晴れとした気持ちで映画へ。「フランシス・ハ」http://francesha-movie.net/
それから目黒のブリッツギャラリーまで足を伸ばしてトミオ・セイケ 写真展「West Pier」。http://blitz-gallery.com/gallery_exhi_cur.html
映画も写真展もモノクロだったので、世界がカラーであることがちょっと不思議だった。このところデジタルカメラばかり使っていたけれど、久しぶりに白黒フィルムの入ったカメラを持ち出した。

良い気候になって芸術の秋、というより食欲の秋だなぁ。

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2014年9月21日 (日)

天高く

東京は今日から乾いた空気に入れ替わった。天高く馬肥ゆる秋。

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僕のウォークマンにはロックの他に、昔から聴いてきたクラシックのアルバムもいくつも入っている。先日、出先で時間が空いた時、コーヒーを飲みながら本当に久しぶりにモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いた。グリュミオーとハスキルの弾くホ短調のソナタ。その第2楽章も短調で書かれていて、短調の主部から長調の中間部に移る時、そしてもう一度短調の主部に戻る時のたたずまいが素晴らしく、深く心動かされた。聴きながら、クララ・ハスキルについて師のアルフレッド・コルトーが、クララは孤独な時こそ力が発揮できる、と言って彼女の演奏会に出かけなかったことを思い出した。

このところ、新日フィルの人たちと仕事で一緒になる機会が時々ある。辞めて以来初めてお会いする人もいる。多くの人たちに写真のことを言われてちょっと嬉しい。あの頃写真ばかり撮って、自分でプリントして、写っている人には差し上げるようにしていた。写真は時間がたつと意味のあるものになっていくのかもしれない、と思う。

夏の湿度がなくなり、楽器が自然に鳴るようになってきた。

2014年9月15日 (月)

夕暮れや夜明けの深い青は

京橋、アイランドギャラリーの田中長徳写真展「ライカと共に、世界の果てへ / WIEN1973」を見てから、銀座ニコンサロンへ。石川直樹写真展「国東半島」。http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2014/09_ginza.htm#02
石川さんがなぜ国東半島に通って写真を撮ったのか、その理由を記した文章を読むと、写真はまったく違って見えた。

祝日の銀座には珍しい高級外車がたくさん走っていたけれど、僕の目を一番ひいたのはこの乗り物。赤信号で止まる時はどうするのかな。

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先週見たのは映画「グレート・ビューティー 追憶のローマ」。
http://greatbeauty-movie.com/index.html
2時間半近い上映時間は、見ようによっては冗長とも散漫とも言えるかもしれないけれど、映画にこめられたメッセージは確かに伝わってきた。人間にはどうにもできない、流れていく時間や運命ではないだろうか。大風呂敷を広げ、しかも見事に描き切ったと思う。
その日も映画のはしご、「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」へ。
http://www.roma-movie.com/
「グレート・ビューティー」がローマの華やかな部分とすると、こちらは現実を扱ったドキュメンタリー。ドキュメンタリーなのに夢か現実かわからなくなるような時があった。2作とも共通して印象的だったのはローマの空の美しさ。夕暮れや夜明けの深い青はたとえようもない。

今日は猫日和だった。

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2014年9月11日 (木)

「思い出のなかに燦然と」

特に弾くあてもなく、ピアソラのグラン・タンゴの楽譜を出してきてさらっている。もう10年は弾いていないと思う。久しぶりに音を出してみると、音色やリズム、フレーズが生き生きと迫ってきて楽しい。この曲を弾くことで、自分に足りていなかったことをひとつひとつ越えて行けるような気がする。
そして、棚に長いこと眠っていたクレーメルの「El Tango」というピアソラのアルバムも出して聴いている。97年の録音、ジャケットはメイプルソープの花の写真だ。正直なところ、クレーメルのヴァイオリンには興味を持ってこなかった。久しぶりに聴いて、見事と思う。弦楽器はこうやって弾くんだなぁ。ミルヴァの声は言うまでもなく、様々な編成で演奏されるそれぞれの曲の作られ方、絡み方も見事と思う。こうしたことに以前はまったく気づいていなかった。

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先日見たベン・シャーンの24枚の版画集「一行の詩のためには・・・」はまさに「マルテの手記」の以下の部分に拠っていた。岩波文庫の望月市恵訳から。

『 見る目ができかけている今、僕は仕事を始めなくてはと考える。僕は二十八歳になるが、まだほとんど仕事らしい仕事をしていはいない。これまでにした仕事を数えてみよう。 ・・・・・ 詩も書いた。ああ、若くて詩をつくっても、立派な詩はつくれない。詩をつくることを何年も待ち、長い年月、もしかしたら翁になるまで、深みと香とをたくわえて、最後にようやく十行の立派な詩を書くというようにすべきであろう。詩は一般に信じられているように、感情ではないからである。(感情はどんなに若くても持つことができよう。)しかし、詩は感情ではなくて ― 経験である。一行の詩をつくるのには、さまざまな町を、人を、物を見ていなくてはならない。動物の心を知り、鳥の飛ぶさまを感じ、小さな花が朝に開く姿をきわめなくてはならない。知らない土地の野路、思いがけない邂逅、虫が知らせた別離、 ― まだ明らかにされていない幼年のころ、そして、両親のことを。幼かった僕たちを喜ばせようとして与えた玩具が僕たちを喜ばせなくて(他の子供が喜びそうな玩具であったから ― )、気色をそんじた両親のこと、妙な気分で始まって、何回も深い大きな変化をとげさせる幼い日の病気、そして、静かな寂とした部屋の日々、海辺の朝、そして、海、あの海この海、また、天空高く馳せすぎ星とともに流れ去った旅の夜々を思い出さなくてはならない、 ― それを思い出すだけでは十分ではない。夜ごとに相の違う愛欲の夜、陣痛の女の叫び、肉体が再びとじ合わさるのを待ちながら深い眠りをつづけているほっそりとした白衣の産婦、これについても思い出を持たなければならない。また、臨終の者の枕辺にも坐したことがなくてはならない。窓をあけはなち、つき出すような嗚咽の聞こえる部屋で死者のそばに坐した経験がなくてはならない。しかし、思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちのなかで血となり、眼差となり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに燦然と現われ浮かび上がるのである。 』

2014年9月 9日 (火)

空や海が

2年ぶりに葉山の神奈川県立近代美術館へ。「いろ うごき かたち アートをめぐる夏の冒険」展。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2014/iro_ugoki_katachi/index.html
ちょっと遠いけれど、来るとやっぱりここは好きな場所と思う。展示室の所々から空や海が見え、マティス、モンドリアン、カンディンスキー、それから、知らなかった幾人もの作家の素晴らしい作品に接することができて楽しかった。

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展示を見終わってから、同じ近代美術館の鎌倉別館では「ベン・シャーンとジョルジュ・ルオー」展が開かれていて、しかもベン・シャーンが「マルテの手記」に基づいて描いた24の作品が、と知り、思わず足を伸ばした。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2014/shahnrouault/index.html

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鎌倉別館は初めて。小ぶりな建物の中に24枚の版画はあった。素晴らしかった。あの言葉がこういうイメージになるんだ、と思った。その版画集「一行の詩のためには・・・」のベン・シャーンによるあとがきの抜粋から。

『私は28歳で、ちょうどパリに着いたばかりでした。セーヌ川沿いにならぶ本屋の一軒でこの本「マルテ・ラウリッツ・ブリッゲの手記」を手にとるまで、ライナー・マリア・リルケの名前を聞いたことは、おそらく一度もありませんでした。私はこの著者の目を通して、パリにだけではなく、人生そのものの門をくぐったのです。この手記が始められたとき、マルテ・ブリッゲはパリに着いたばかりで、そして彼も28歳でした。この若者が、ほとんど自分であるかに思えたのです。・・・』

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再び宝物に

家でぼんやりしたり雑用をしたりしている時はFMを聞いていることが多い。InterFM、それからJ-WAVE、時々NHK-FM、クラシックはほとんど聞かない。そんな中で耳に入ってくる曲があると誰が歌っているのか、誰の曲なのか気にしたり、ごくたまにCDを手に入れたりする。電車やバスで移動している時に聴くにはジャズやロック、ポップスの方が具合がいいこともわかってきた。
そんな中でもう少しロックというものを聴いてみたいと思うようになり、いくつか探して、今ディープパープルを聴いている。格好いいし楽しい。心が解放されるようだ。

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本当はこういう音楽は内面か外面か、あるいはその両方が荒れ狂う中学、遅くとも高校生の時に聴くものだと思う。でも、あの頃の僕はクラシック原理主義者で、他のものは聴こうともしなかったもの。ロックを聴いていればもう少し広い青春時代だったかもしれない、でも青春はまっしぐらなものだから、それはそれでよかったのだと思う。

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昨日サントリーホールに行く前に新宿タワーレコード9階に行き、ディープパープルのCDを探した。「ROCK/POPS」のコーナー、「D」のエリアに無かった。普段クラシックとジャズの階にしか足を踏み入れない僕がおろおろしながら尋ねると、「それはハードロックのコーナーです。」と言われ、なるほどと思った。ロックにも種類があるんだなぁ。
果たして「HARD ROCK/HEAVY METAL」 のところにたくさんあり、「Nobody's Perfect」というアルバムを手に取った。1987年、ワールドツァーのライヴ盤。聴衆の反応も大きく入っていていい。もう一つ、ハイレゾで「Machine Head」というアルバムもダウンロードした。このスピード感は最高だ。
そんな訳で、40歳をとっくに越えた僕のウォークマンにはディープパープルのアルバムが2枚入っている。もちろんクラシックのアルバムも。

再び宝物になった。
(2014年8月13日の日記をご覧ください。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-5b50.html

2014年9月 6日 (土)

ツクツクボウシ

リハーサルが終わって外に出たら、ツクツクボウシが鳴いていた。
昨日から都響にはフルシャが来て、マルティヌー・プログラム(4番の交響曲とカンタータ「花束」)が始まっている。 交響曲はちょっとリズムがこみ入っていて気を遣うところがある。シンコペーションは硬くならないように、自然な流れを目指して。カンタータは、合唱(新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊)も素晴らしく、舞台の上には善いものがある感じがする。

一昨日までは大学オーケストラの合宿にお邪魔していた。長野に。今年は晴れるかな、と思い大きなカメラを持って行ったら、見事に霧。

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テニスの錦織圭選手の活躍が素晴らしい、嬉しいニュースだ。準決勝は今晩。

2014年9月 2日 (火)

誰かから

今日は誰かから恵んでもらったような日だった。

釣りへ。釣りと言っても、奥多摩川の本流を区切った大きな釣り堀のようなところへ。早起きして芦ノ湖に行くほどはがんばらず、昼前に奥多摩へ。がんばらない釣りも悪くない。川沿いの遊歩道を歩くとバッタがきちきちと鳴いて先導してくれ、空にはもうアキアカネが飛んでいる。
今日のヒットルアーはスピナー。水の中を引いてくると金属の羽根がくるくる回るやつだ。長野の梓川でもいい思いをした。どうしてこれで魚が釣れるのかは釣りの七不思議のひとつ、と僕は思う。ちょっと暑かったけれど、思ったよりニジマスが上がったし、そのスピナーの倍くらいの大きさしかないウグイも釣れた。もちろんすぐ逃がしてあげた。

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帰りの電車では、短い時間底が抜けたように眠った。作家の開高健さんが釣りに夢中になった気持ちがわかるような気がした。あちらはアラスカやアマゾン、こちらは多摩川、あちらはキングサーモン、こちらは小さなニジマス(ウグイ)という違いはある。しかし今、その違いはちっとも本質的な問題ではない。
時々釣りに出かけよう。

2014年9月 1日 (月)

今日も雨

次の休みこそは釣りに、と思っていたけれど(リールの釣糸はとっくに巻き替えてある)、今日も雨。
横浜トリエンナーレ2014へ。好きな作品もあった。ジョセフ・コーネルの作品が4つ並んだり、ジョン・ケージのあの有名な曲の原譜(第1楽章休み 第2楽章休み 第3楽章休み)が展示してあったり。

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でもなんだか内向きの展示が多く・・・。なぜだろう。前回3年前のトリエンナーレは色彩豊かで楽しかったのだけれど。
(2011年10月12日の日記をご覧ください。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/2011-f6fe.html

この数日曇天続きの東京は涼しく、本当に助かった。そろそろ日射しが恋しくなってきたなぁ。

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