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2016年5月

2016年5月31日 (火)

小網代の森


かねてから行きたいと思っていた小網代の森(こあじろのもり)へ。http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p820028.html
京浜急行の終点、三崎口からバスに少し乗り、坂を下ると別世界だった。甘く清々しい森の匂いにつつまれ、木々を揺らす風の音が聞こえ、様々な鳥の声が響く。しばらく歩くと森は開けてきて、乾いた匂いに変わる。ほとんど全域にわたって木道が整備されていて快適だった。途中蝶々、トンボ、カニ、立派な毛虫を見たし、カエルの声もしてきた。夜には蛍が見られるそうだ。

Koajironomori


2016年5月30日 (月)

今日の都響定期演奏会、ソリストはエリック・ル・サージュさんでモーツァルトのハ短調のピアノ協奏曲だった。
第一楽章のカデンツァはフォーレによるもの。フォーレはあの主題をこんな風に捉えるのか、と興味深かった。僕が特に好きなのは終楽章。厳しい表情のモーツァルトが時おり見せる翳りやふとしたやさしさが心に迫る。繰り返される旋律は走るように姿を変え、一つのフレーズがまた次の新しいフレーズを即興的に生み出していく。

演奏会の一曲目はヒンデミットの協奏音楽。ヒンデミットの知らない面が現れているようで楽しかった。弾くのは大変だったけれど。

Ueno_2


2016年5月27日 (金)

リハーサルの後、西洋美術館で開かれているカラヴァッジョ展へ。
展示の終盤に鳥肌の立つような絵があった。見終わって別の絵に移ったり、最初の絵を見返したりしていても忘れられず、再三再四その絵の前に戻り、角度や距離を変えて見いった。見終わることはないようだった。

Seiyobijutsukan


2016年5月26日 (木)

昨日の都響は東京オペラシティで一柳慧さんの作品を演奏した。
舞台から客席を見て驚いたのは、多くのお客さんが明るくにこやかに、ある人は身を乗り出すようにして、目の前で進んでいく音楽に興味深く耳を傾けている姿だった。その姿にこちらが何かを教えられるようだった。

Toc


2016年5月22日 (日)

今日の都響演奏会、ソリストはヴィルデ・フラングさんでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。
よく演奏されるこの曲は(実際、昨日よく練習したのだけれど)、サントリーホールの舞台で、まるで今生まれつつあるようだった。初めての新しい曲を現在進行形で弾いているようだった。第2楽章でヴァイオリンに再び旋律が戻ってくるところはとても美しかったし、終楽章の16分音符の切れも抜群だった。

Cat


2016年5月17日 (火)

新宿コニカミノルタプラザで開かれている井津建郎写真展「ブータン 内なる聖地」へ。http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2016may/bhutan/index.html
素晴らしかった。風景であれ、ポートレートであれ、瞬間を捉える写真の魅力を堪能した。たくさんの澄んだ瞳を見ることができた。14×20インチ(!!!)の巨大なフィルムを密着して作られたプラチナプリントは奥行きがあって美しい。(5/23まで)

会場では井津さんの、実際の撮影風景の映像も上映されていて、そちらにも見いった。ポーターを何人も雇い、100キロを超える重さのカメラを奥地に運び、ここぞという場所で組み立て、シャッターを切る瞬間を待つ。その1枚への気持ちはきっと大変なものだろう。僕が言うのはおこがましいけれど、写真を撮るとは見ることだ、と思った。
この映像にはタゴールの言葉が使われていて、それも印象的だった。帰り道「タゴール詩集」を求めた。その中から

「私の旅行は長く掛かり、道も長い。
最初の光が輝く車に乗って出掛けて、さまざまな世界の荒野を越えて旅を続け、たくさんの星に足跡を残してきた。
あなたのもっとも近くに到る道はもっとも遠く、まったく単純な調子に達する修行はもっとも混み入っている。
旅人は自分の家に着くまでに、余所の家の門を一一訪れなければならない。そして、最後にもっとも神殿の奥に達するまでには、外のあらゆる世界を彷徨わなくてはならない。
私の眼が遠く遥かに迷い歩いたあとで、はじめて私は眼を閉じて「ここにあなたがまします」と言うのだ。
「おお何処に」という問いと叫びは融けて千千の涙の流れとなり、「私はいる」という確信の潮で世界を水底に沈める。」

Shinryoku


2016年5月15日 (日)

先日読み終わったブラッサイ著「語るピカソ」、1945年5月26日の記述から。

「ピカソ - 僕はだんだんあっさり描くようになってきたんだ・・・・・・。ある段階以上につっこんで描くと、静物はもう静物でなくなってしまう・・・・ そうなれば、たぶん絵の堅固さでは得るところもあるだろうが、その分だけ、絵から自発性が失われるだろう・・・・ それからまた、ぼくはだんだん色を塗らなくなった。白い画布が自分の役割を演ずるのにまかせるのさ・・・・ これがこのまま続けば、やがてまったく白のままの画布に署名と日付を書きこむだけになるだろうね・・・・ こりゃきれいじゃないかね、真白い画布は・・・・」

Bamboo

グレン・グールドの弾くバッハ、なかでもイタリア協奏曲はよく聴いてきた録音だ。ふとしたことからフリードリヒ・グルダの録音も持っていたことを思い出し('gulda plays bach'というアルバム)、何年かぶりで聴いた。こちらもこんなに素晴らしいものだったとは。
音楽とは、バッハとは何だろう、この素晴らしいものは何だろうと思う。

2016年5月 4日 (水)


代官山、ヒルサイドテラスで開かれている写真展「マグナム・ファースト展」へ。http://www.magnums-first.jp/
1955年から各地を巡回した写真展の当時のプリントが展示されている。
古い写真を見てよく感じることだけれど、デジタル化されたカメラが目覚ましい勢いで進歩し、人間はより便利で情報にあふれた生活をしている一方、現代人の撮る写真は深くなってきただろうか?、撮られる側はより生き生きしているだろうか?

Magnum_2

今読んでいるのはブラッサイ著「語るピカソ」。1943年から30年間にわたる写真家とピカソの交流の記録。遠い存在のピカソではなく、当時の様々な人々を含め画家の姿が目に見えるように浮かびあがってくる。1943年10月の記述から

「ピカソ - 僕にはまったくわからない・・・・ 着想は単なる出発点にすぎない・・・・ 着想を、それがぼくの心に浮かんだとおりに定着できることは稀なのだ。仕事にとりかかるや否や、別のものが僕の画筆の下から浮かびあがるのだ・・・・ 描こうとするものを知るには描きはじめねばならない・・・・ 一人の男が浮かびあがるなら、ぼくは一人の男を描いているのだ・・・・ 一人の女が浮かびあがるなら、一人の女を描いているのだ・・・・ 」

2016年5月 1日 (日)

昨日、ディケンズ著「デイヴィッド・コパフィールド」を読み終えた。読み始めるとページをめくる手が止まらなくなる、幸せな時間だった。
語り口の上手さや人間観察の鋭さに感心した。それ以上にこの本を魅力的にしているのは、多様な登場人物のいきいきとした描写にみられるように、人間というものに対する共感や温かさではないだろうか。

Bicycles


雨の平日夕方、東京都美術館の若冲展に出かけた。
作品の素晴らしさは言うまでもない。けれど、30分待ちで入った館内は (実はその前日行くつもりだった。が、80分待ちの行列を見て断念) 壮大な押しくらまんじゅう、という様子で、落ち着いて絵を見ることは難しかった。17時になると入場が終わり、それから閉館までの30分は人も減り、再度最初の展示から見直した。この時ようやく絵を見た気がした。(閉館時、若冲グッズ売り場のレジ待ちは1時間)
4月下旬からこの展覧会がメディアで取り上げられる頻度はとても高い。素晴らしい展示は広く知られるべきだし、多くの人が訪れて大盛況だということも、美術館としてはきっと素晴らしいことだろう。でも一人の見学者として、落ち着いて絵に向き合える環境をもう少し考えてもらえたら、と思う。

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