昨年の夏松本で弾いたマーラーの5番は忘れられない演奏だった。大げさではなく、生き返らせてもらう経験だった。今年は、やはりファビオ・ルイージの指揮でマーラーの「復活」。リハーサルが終わり本番を控えている今、昨年のことと、1年たった今年のことを思い合わせている。
昨年のリハーサルを一言であらわすなら、共感だったと僕は思う。これまで何度も弾いてきたはずの曲に、ファビオ・ルイージは様々のヒントを示し、その素晴らしい気付きに多くの演奏者が素直に共感し、新たな何かを発見し、集まり、何かが起き、一つ階段を上がり、そこでさらに提案があり共感し・・・。このようにして高みを登っていった。指揮者とオーケストラの間に信頼関係ができていたからこそ可能だった。
そのマーラーの後、多くの演奏会があった。でも変わらずあの演奏は輝いている。
その時はあまりにスムースだったので気付かずにいたのだけれど、音楽に自然な流れがあった。
ファビオは誰かに何かを強いることはなかった。もちろん強弱やテンポなどの指示はあった、でも具体的な表情まで指示することはなかったと思う。演奏者の自発的な表現を引き出そうとしたし、そのための彼の素晴らしいアイデアがあり、それを実現しようとしてオーケストラが応えた。人間は自発的に何かをしようとする時に最も力が発揮される、と感じた。
今年の「復活」はもう少し単刀直入にリハーサルが進んだ。
昨年の貴重な時間から学んだことの一つは、どのように弾くか音を出すか、よりもう一歩下がって、何を思い描くか、何を目指して弾くか、ということだった。例えば5番では、第1楽章のチェロの旋律、「いいんだけれど、心の底に届いていない」、とか第4楽章「音が地面についていないように」などの言葉を思い出す。
「復活」はもちろん、歌の入る第4、5楽章が素晴らしい。でも僕は第2楽章が好きだ。ファビオはその冒頭を、凍てつくような外から暖かい部屋に戻り、体はまだ凍えているけれどお湯に入った時の感じ、と表現した。魅力的な旋律の快適さの中に安住するのではまだなく、少し離れている感じ、だろうか。その主題が弦楽器のピチカートで戻ってくるところ、皆は舞台の上で弾いているのだけれど、どこか別のところから音が聴こえてくるように弾いてほしい、と言われた。
松本に来て、明るいうちはリハーサルがあり、夜は水の音や虫の声を聞きながら川沿いを歩いている。湖にも出かけた。
« スペシャルのドルチェ | トップページ | »
「音楽」カテゴリの記事
- " the best thing in the world "(2025.02.01)
- ショスタコーヴィチの8番(2024.12.30)
- シェーンベルク、長三和音、短三和音(2024.12.15)
- 音楽のたたずまい(2024.11.11)
- 人懐こい猫がいたら(2024.09.20)