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2016年8月 3日 (水)

今日のリハーサルにはグリークのピアノ協奏曲があり、昨日、久しぶりにリパッティの演奏を聴いた。自然な音楽の流れがあり、それがあまりに自然で心地良いため、その素晴らしさや実現が容易ではないことに気付かずに過ぎてきた気がする。聴いているこちらの居住まいがいつのまにか整うような演奏だ。

僕の持っている「ディヌ・リパッティの芸術」という6枚組CDには彼の録音を担当したウォルター・レッグの文章がある。その中に。

『わたしには、ディヌ・リパッティのようなピアニストがかつて存在したとも、今後生まれるとも、思えない。それは質の比較の問題ではなく、種類がちがっているという問題なのである。彼は努力家だったし、タッチ、ソノリティおよびペダリングといった純粋に技巧上の問題だけで判断すると、彼は近代において俗化された意味による"ヴィルトゥオーソ"ではなかった ─ むしろ、17世紀に用いられた"コニサー" (くろうと、目きき、通) こそふさわしい。彼にとって、演奏の誇示とかけんらんさは究極の目的ではなかった。彼はそれを誇っている同時代のピアニストに対してほとんど寛大すぎるほどの賞賛と賛美をいだいていたけれども。彼は音楽家であった。ピアノをコミュニケーションと表現の手段として用いた音楽家だった。音楽家および人間としての彼の特質についてだけ、人は彼のことを説明し、理解し、描写したいと望むのである。』

レッグの文を読んで、最近読み返しているサン=テグジュペリの「人間の大地」の文章を思い出した。それはこの本が捧げられた僚友アンリ・ギヨメに関して書かれたものだ。

『ギヨメ、ここで僕は少し君の話をしようと思う。といっても、君の勇気や職能についてくだくだしく語って君を煩わせるつもりはない。・・・・・
ある一つの名づけようのない美質がある。「まじめさ」と言えばよいだろうか。だが、この言葉も不正確だ。というのも、この美質はこの上もなくほがらかな陽気さとも無縁ではないのだから。それは言ってみれば、腰を据えて木材と向かい合う大工の美質だ。木材を撫で、その重さ、大きさを測り、決して軽々しく扱わず、そこに自分の全能力を注ぎ込む大工の美質だ。』

10代の頃からリパッティの演奏を聴いてきた。言うまでもなく遥か彼方の存在だった。いま気がつくと、年齢だけは上になっている。

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