« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月

2016年11月23日 (水)

自由研究

わかったようなことを書いたのだけれど(8月11日の日記をご覧ください http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-7515.html )、その後、名古屋の古い友人と楽器のことでメールのやりとりをしていて見附さんの新しいエンドピンを教えてもらい、もうエンドピン探しは止めたつもりだったのに、問い合わせてサンプルを送って頂いた。

結局その新製品ではなく、同時に試した芯にカーボンの入った真鍮のエンドピンを注文した。不思議なのは長さの問題。試したエンドピンは50センチ、実際に僕が頼んだのは45センチ、この5センチが意外と音に関係している気がする。持ち運びもあるから少しでも軽く、と僕にしては必要十分な長さなのだけれど、そう単純ではないらしい。これまでの鉄製のエンドピンに戻したり、新しいものにしてみたり。

Fh000001_2

弦はドルチェのスペシャルを気に入って使っていたのが、ある日楽器が閉じていることに気付き、昔ながらのミディアムに戻した。明るくてよく鳴るけど、芯が無い感じで心もとない。思い付いてエンドピンをカーボンの入った真鍮にしたら落ち着いた。軽い弦に重いエンドピンという組み合わせは良いのかもしれない。

最近はエンドピンのストッパーに様々な構造のものがあることを教えてもらった。長いこと固い木のストッパーが良いと思っていたのだけれど、ストッパー内を中空にして楽器の振動を地面から自由にする、あるいはストッパー自体を響くようにする、こんなアイデアに基づいているらしい。学生時代、調律師のKさんが固い桜の木を削り出して、アーチ状のストッパーを作ってくださったことを思い出した。
自分で作っても、と思い、東急ハンズの素材売り場をうろうろもしたのだけれど、たまたま入った楽器店に台湾製のものがあったので入手した。試すとよく音が伸びていい感じだ。特に高い音が楽に伸びる。そして楽器の鳴り方も変わる。つまっていた感じは開かれる。広い場所で試してみると、それほどの差はない気もするし、地に足が着いていない気もする。一長一短かな。
オーディオ用に磁石の反発を利用して浮かせるインシュレーターがある。あれをストッパーに応用したらどんなだろう。

Fh000003

最近読んだのは大崎茂芳著「クモの糸でバイオリン」。とても興味深い内容。実際にクモの糸で弦を作りヴァイオリンに張って、倍音の出方を計測し、金属弦やガット弦と比較する。クモの糸は様々な成分の倍音が多く出る、どんな音だろう。ヴァイオリンのd線での比較で、金属弦は高い成分の倍音が出、ガットは1オクターブ上の倍音が多く出てその他はあまり出ない。これはとても納得できる結果だ。金属弦のしゃりしゃりと高い倍音が出て、特にチェロの低い音ではそれでようやく輪郭がはっきりする感じ、ガットの太いけれどちょっと暗い感じ。既存の弦の構造の電子顕微鏡写真もあった。

Fh000008


2016年11月20日 (日)

人間の持つ素晴らしい可能性を

一昨日仙川へ。散髪の前に学生時代から通うとんかつ屋に入り、置いてある読売新聞夕刊を開いたら、荘子の言葉が飛び込んできた。荘子は最近読み返したのに、その言葉はまったく記憶になかった。やれやれ。紹介されていたのは王帝王篇の中から。

『至人の心を用うることは鏡のごとし。将(送)らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物にたえて傷なわず。』

以前読み返した時、強く印象に残ったのは大宗師篇、坐忘の章といわれる部分。

『・・・復た見えて曰く、回は益せりと。曰く、何の謂いぞやと。曰く、回は坐忘せりと。仲尼しゅくぜんとして曰く、何をか坐忘と謂うと。顔回曰く、枝体を堕ち聡明をしりぞけ、形を離れ知を去りて、大通に同ず、此れを坐忘と謂うと。』

高校生の時、背伸びをしていろいろな本を読んだ。結局その時は?、という感じで読んでいたのだと思う。今になってそれらの言葉が生き生きと迫ってくる。昔の人たちは本当にすごいと思う。僕がじたばたすることは何もない。

そして、一昨日のとんかつ屋ではとてもうれしいことがあった。

Untitled_2

昨日の都響定期演奏会のソリストは庄司紗矢香さんでデュティーユのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」。この曲を書いたデュティーユにも、演奏した庄司さんにも、人間の持つ素晴らしい可能性を感じた。

2016年11月16日 (水)

「シーモアさんと、大人のための人生入門」

先日観たのは映画「シーモアさんと、大人のための人生入門」(Seymour an introduction) http://www.uplink.co.jp/seymour/

ピアニスト、シーモア・バーンスタインのドキュメンタリー。映画館を出たら、世界は違って見えた。
シーモアさんのいくつも印象深い言葉があり、それらはこれから様々な折りに思い出し、いったいどんなことを彼は言おうとしたのだろう、と考えることになると思う。音楽をする自分と、普段の生活をする自分と、その二つをどのように調和させるか、これは映画の大きな主題の一つではなかったかと思う。心が開かれるようだった。
さほど音楽に関心がない人が観ても美しい映画だろうと思う。もし演ずることを職業とする人が観たら、きっと深く心に届く言葉があると思う。

2016年11月13日 (日)

陽気に誘われて湘南へ。波打ち際でカメラのファインダーを覗きながら雲と漁船と波の動きを見ていたら、ざぶんとくるぶしの上まで水をかぶってしまった。やれやれ。かなり集中していたらしい。急に足元に水が来たので驚いて動いてしまったけれど、シャッターを押していればいい写真だったんじゃないかな・・・。

Copy1

アサヒカメラ誌2016年8月号に掲載された尾仲浩二さんの記事から

『構図をきっちり決めようとせずに、ハッとする被写体を見つけたら、その場でとにかく一枚撮る。「なぜ、この場で写真を撮りたいのか」を理解する前に、とにかく撮る。うまい写真を撮ろうとすればするほど、つまらない写真になってしまうと思うので、「ザックリと撮る」ことを心がけています』
『まず、一枚撮って、それから寄ったり、引いたりして撮ることもありますが、作品として選ぶカットは最初の一枚という確率が断然高い。その場でハッと思った自分の目を信じること。それは現場であれこれ絵をつくろうとしないということです。
 どうしてその写真が面白いのかは、家に帰って客観的に写真を見ながら再発見すればいい。』

Dsc_0268

夜は宮崎駿さんの番組を見た。彼の言葉がとてもおもしろかった。何かを創りだす人がすごいと思うのは、その人がいなければ世界にはそれが存在しなかったから。例えばトトロは多くの人が知っている。もしスタジオジブリが生み出さなければあの世界はなかった。
番組の後半に宮崎さんが憤る場面があった。僕もそう感じた。あれはその場に限ったことではなく、もっと広く漠然とした今の何かへの違和感ではなかったか、と思う。そのようなことを感じる時、僕は旧式の人間のままでいい、と思う。

2016年11月 8日 (火)

郡山へ

ピアノの竹村浄子さん、ソプラノの沢崎恵美さんと郡山へ。昨日は須賀川養護学校、今日はあぶくま養護学校でのアウトリーチだった。両日とも体育館、久しぶりに手のかじかむ寒さで弾いたけれど、子供たちの無垢で素直な反応に強く励まされた。竹村さん、沢崎さんお二人の子供たちへの接し方も見事。

Dsc_0274

昨日の夕方、磐越西線に乗って猪苗代湖に出かけた。美しい夕陽を見た後、暗くなったホームで電車を待つ間の寒かったこと。

Dsc_0281


2016年11月 5日 (土)

写真のページを

久しぶりに写真のページを加えました。左の「2016 新宿」というところからも入れます。
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/photos/2016_shinjuku/index.html

20161029shinjuku2


2016年11月 3日 (木)

牛腸さんの展示を見て嬉しかったのは、写真にはすごい力がある、と思えたことだ。

アサヒカメラ誌2016年10月号に掲載された鬼海弘雄さんと池澤夏樹さんの対談から

鬼海『・・・表現というのは人間の遊びで一番おもしろいものじゃないかと思ったんです。・・・』

『一人、大好き。いや旅のぜいたくは、一人で寂しく時を過ごすことでしょう。でないと何も考えないしね。インドの撮影からずっと一人旅だった。浅草もそうですよ。一人で行って、何でこんなとこに来たんだろうと思って見ると、おもしろいんですよ。人間はぼーっと退屈したとき、いろんなものがポコッ、ポコッと体の周りに浮いてくる。』

『・・・写真は実に写らない、と思ったときから徐々に写真家になっていった気がします。』
池澤『でも、写真はシャッターを切れば写るでしょう?』
鬼海『ええ、写りはしますが、こっちは世界のヘソをつかむような形で写したいわけだから、なかなかそうはならない。写らない。写真のよさは「説得」ではないんです。それを見てくれた人のなかに他人との関係がスーッと浸透していくことなんですね。いい写真は、1回、2回・・・・・・と、見てもらえる。写真家は写真のなかにたくさんの糸を隠して張ってあるから、見てもらうたびにそれに触れて、ふわっと伝わる。そして、徐々に見ている人の体験のなかに根を下ろしていくんですよ。』
池澤『なるほど。』
鬼海『写真家がいちばん信頼しているのは見てくれる人なんですよね。私の場合は、写真集の読者や写真展に来てくれる人だけでなく、他人もそこに入る。他人とちょっとだけしあわせな関係をつくりたい。写真は誰でも撮れると思います。シャッターを切れば写るというのではなく、誰もが自分の体験をふり返って、もう一回、人について考えたり、感じたりすることができるという意味で誰でも撮れます。表現として練り上げようとすると、簡単には写らない。』

2016年11月 1日 (火)

「牛腸茂雄という写真家がいた」

素晴らしい写真展を見た。
富士フィルムスクエアで開かれている「牛腸茂雄という写真家がいた」http://fujifilmsquare.jp/detail/16100104.html
小さなサイズのプリントに写っているのはおそらく市井の人々。ストレートな写真に心の奥底から揺さぶられた。こんな眼差しの人がいたんだ、と思った。何度も写真を見返し会場の外に出てもまだ、心が動いている。こういうことはあまりない。
牛腸さんの言葉から

『ものを見るという行為は、
たいへん醒めた行為のように思われます。
しかし醒めるという状態には
とても熱い熱い過程があると思うのです。』

Dsc_0252


« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »