今年最初の読書は南方熊楠著「十二支考」。密度が高く、読み進むのに少々骨が折れたけれど、ページを開ける度、熊楠さんの自由さに触れることができ、まるで清涼剤のようだった。
その後は太平記。ゆっくりゆっくり読んでいて、今ようやく岩波文庫版の第5冊に取りかかったところ。ふぅ。いったんその言葉のリズムに入ることができれば、進めるのだけれど、戦いに次ぐ戦いの描写に疲れてくると、脱線して他の本を開く。ずいぶんたくさん脱線してきた。
ある本を読んでいたらその中にイタリア、オリヴェッティ社のタイプライターが大切な役割を持って登場し、さらにオリヴェッティ社と作家ナタリア・ギンズブルグとの関係も語られた。名前は知っていたナタリア・ギンズブルグの著作を読んでみようと思った。
「ある家族の会話」、続いて「モンテフェルモの丘の家」もあっという間に読んでしまった。あっという間に読んでしまったのは、もちろんギンズブルグの書くものが素晴らしいのだけれど、須賀敦子さんの訳によるところも大きいのだと思う。僕にギンズブルグの原文を読むことはできない、でもきっとギンズブルグの文章と須賀さんの訳文は見事に一体となっている。
須賀敦子さんの本は10年以上前によく読んだ。ギンズブルグの名前を知ったのも須賀さんの文章からだった。彼女がローマのギンズブルグを訪ねていく文章がどこかにあったはず、と本棚を探した。(「霧のむこうに住みたい」という本の中の「私のなかのナタリア・ギンズブルグ」) この本もあっという間に再読し、今は「コルシア書店の仲間たち」。読書の喜びここにあり、という感じがする。
ギンズブルグと須賀さんの著作を読んで共通していることに一つ気付いた。自分のことを声高に語らない。間違いなく大変なことでも、まるで他人事のようにごく短く書く。彼女たちのこの強さは一体どこから来ているのだろうか。