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2018年1月13日 (土)

レイモンド・チャンドラー

雑誌「MONKEY」vol.7掲載の対談の中で村上春樹さんが

『僕は比喩に関しては、だいたいレイモンド・チャンドラーに学びました。チャンドラーってもうなにしろ、比喩の天才ですから。たまに外してるものもあるけど、良いものはめっぽう良い。』

と語っているのを目にして、なるほどそうだったのか、と膝を打ちたくなった。確か「ロング・グッドバイ」の中にあった僕の大好きな比喩を思い出した。サンドイッチの中の乾いてぱさぱさになったレタスをたとえに使っていたような。続けて村上さんは

『比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのが、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。読者を眠らせるわけにはいきませんから。そろそろ読者の目を覚まさせようと思ったら、そこに適当な比喩を持ってくるわけ。文章にはある程度そういうサプライズが必要なんです。』
 ー ここに落差入れようっていうのは、学んで、書いているうちにここだなとだいたい目星がついてくると。そこに入れる比喩は自然に思いつく。
『自然に思いつきます。さっきも言ったように、比喩みたいなのは自然に出てこないと意味ないと思っているから。』

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この対談を読む前にいくつも村上春樹さんの長編を読んでいて(一度読んだものが多かったけれど夢中になって、電車を乗り過ごしたりした)、彼の比喩はいつも楽しかった。物語の大きな流れには関係のない、実に気の利いた箸休めのようだった。この対談を読んだ後、久しぶりにチャンドラーを読んでみようと思った。それで年末に読んだのが村上さん訳の「大いなる眠り」。巻末の解説も訳者によるもので、この文章がまるで仕事を離れたかのように生き生きしている。その中から

『この作品の映画化にあたったハワード・ホークスが、原作者チャンドラーに電報を打って、「スターンウッド家のお抱え運転手を殺した犯人は、いったい誰なのですか?」と尋ねた逸話はあまりにも有名だが(「私は知らない」というのが著者の返した電文だった)、そのように思わず著者に真相を問いただしてみたくなる部分は、この本の中に何カ所かある。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールド君は「本を読み終えて、その著者に電話をかけたくなるような本は素晴らしい本だよ」みたいな意見を述べているが、そういう意味では(ちょっと意味合いは違うけれど)『大いなる眠り』も「素晴らしい本」のひとつに数えられるかもしれない。
 しかし「すべてはロジカルに解決されているけれど、話としてはそんなに面白くない」小説よりは、「うまく筋の通らない部分も散見されるものの、話としてはなにはともあれやたら面白い」小説の方が、言うまでもなく読者にとっては遙かに魅力的であるわけで、もちろんチャンドラーの小説は後者の範疇にある。というか逆に、多少「わけがわからん」というファジーな部分があるくらいの方が、小説としての奥行きが出てくるのではないか、と断言したくなってくるくらいだ。』

年が明けて1月4日と5日の日経新聞にチャンドラーの長編7作の翻訳を終えた村上さんの文章が載り、ふむふむと読んだ。今読んでいるのは「高い窓」。僕が感じるチャンドラー作品の魅力はやはり、主人公フィリップ・マーロウだ。

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