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2018年2月

2018年2月26日 (月)

湧き上がってくる音楽を

2月25日、ローエングリンの最終日。短くはないし、毎回それなりの覚悟を持ってオーケストラピットに入っていた。今日は一つ一つの音符を弾き終えていくことをちょっとだけ残念に思いながら、惜しみながら弾いた。
初めて弾くワーグナーのオペラは密度の高い音楽だった。歌詞を理解できていたらもっと感じることはあっただろう、そうでなくても様々なパートの間で複雑に絡み合う音符を、自分の働きを踏まえながら弾いていくのは、いつも違う世界が見えてくるような試みだった。音楽は場面を変えながらどんどん進んでいく。一つのフレーズが終わる時に新しいフレーズが始まる、だからそのフレーズはどのように次につなげていくのがよいのか、こんなことを感じながら弾くのがオペラの醍醐味なのかもしれない。さらに歌が入ってくると、例えばそこに一つ入る四分音符はどんな性格を持ち、どんな速さあるいは遅さが必要で、だからどんな長さになり・・・。横に広く、楽器の配置や距離がいつもと違うピットで、少しずつ全体の音がなじんでいくのを体験するのは楽しかった。本番回数が多いオペラならではのことかもしれない。

指揮は準メルクルさん。リハーサルは言葉少なで短かった。指揮自体がよく語るので言葉はいらなかったのだと思う。本番中も彼の指揮とオーケストラが話をしているようだった。そう、演奏中に言葉を交わすことはほとんどないのだから、できることなら練習も言葉が少ないほうがいい。音楽という言葉がある。
美しく的確な指揮は音楽の色や動きまで見えるようだった。楽譜から湧き上がってくる音楽を湧き上がるままに示した、そんな気がした。それは誰のものでもない音楽だった。何かを演奏者に強いることはなかったし、それぞれの奏者の大切な場面を過ぎるとそれに対しての謝意があった。自由だった。長かったはずの仕事はあっという間に最終日を迎えていた。

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2018年2月18日 (日)

受け継ぐもの

都響はオペラ、ローエングリンの最中。昨日からオーケストラピットに入っている。

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ワーグナーのオペラは初めて。楽員の間で、あるモチーフがチャイコフスキーの白鳥の湖に似ている、という話になった。その他にも弾いているとマーラーやR.シュトラウスの曲はここから、と感じるところがたくさんある。
ローエングリンの初演は1850年。僕の勝手な想像で、ワーグナーのオペラは音楽的な内容はもちろん、規模など様々なことを含めて当時の最先端だったのだろう、と思う。規模の大きな音楽が、しかも精緻に書き込まれているのに驚く。それはきっと続く作曲家たちに強い影響を与えたに違いない。ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、R.シュトラウス、そうした人たちは一人一人がとても大きい。でも彼らも受け継ぐものがあり、そうして発展したものを今の僕たちは享受しているのだと思った。

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2018年2月16日 (金)

素晴らしいジャンプを

平昌オリンピックの男子ノーマルヒル決勝、日付が変わる頃テレビをつけた。風が強く吹く中、選手はスタート位置については戻り、位置については戻りを繰り返していた。深夜の寒い中で何度も待て、を繰り返す状況をライヴで見ていて、本当にすごいなと思った。おそらく10分くらい待った後で彼は(待ちきれない様子だった)見事なジャンプをした。スイスのシモン・アマン。そして後続のロベルト・ヨハンソン(髭の人です)も素晴らしいジャンプで銅メダル。驚くほかない。この人たちはいったい何だろう、と思った。凍える寒さの中で、その上自分の思い通りにならないタイミングを待つ、でも素晴らしいジャンプをする。

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2月16日の日経新聞に掲載された三浦知良さんの記事はやはりオリンピックに触れていた。その中から

『・・・例えばスキージャンプ。4年に1度、何秒間かの踏み切りや飛躍に全てをかける。それでいて、その一瞬が必ずしもいい環境に恵まれない。気まぐれな風。寒さ。悪条件。過酷というか、不条理にさえ思えてくる。
 色々な条件がピタリとかみ合わないと、自分のパフォーマンスを出し切れないときは僕にもある。・・・』
『考えてみればストリート育ちのブラジル選手は、どんな条件でサッカーをさせてもうまい。いい芝生、硬い地面、ぬかるみ。様々な状況でやってきて、本当の意味で使える技術を持っている。僕自身もブラジルに渡った10代にはあらゆる悪条件でサッカーをした。「こういう場でもプレーできなければ、本物じゃない」と言い聞かせながら。
 経験とは、いろんな条件の下で戦い、生きてきた幅のことだ。そして生き残るということは、状況に順応できるということ。理想の条件ばかりは望めない。言ってみれば、僕らには泥沼しか与えられない。それでも合わせていく。それを「力」とも言い換えられるのだろうね。』

2018年2月 8日 (木)

シューベルト

海へ。海の上に雲が出始め、雲の透き間には短い虹も見え、振り返ると山側には黒い雲がかかっている。夕立の時の雲と同じ、でもまさか、と思っていたら雪まじりの雨が降り始めた。空気が動いているときの景色はドラマチックだ。夢中で写真を撮っていたら、シャッターを押せなくなるくらいの寒さになっていた。

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「群像」2018年1月号に掲載されたヴァレリー・アファナシエフと吉増剛造さんの対談から。
『先ほど吉増さんが触れられたシューベルトの最後のソナタは長い曲なので、構成をまとめるのが難しいと言う人がいます。でもわたしは、個々の要素をうまく一つにまとめようとは考えないほうがいいと思います。一度自分の中で作品の和声感を完全に感じることができるようになれば、好きなように、自由に弾いていいんです。これは矛盾した結論と思われるかもしれません。しかし、いったん自分の中で空間と時間の使い方が確立されてしまえば、形式は自然と現れるので、その中で自由にいろんなものが作れるようになるのです。』
『メロディーとハーモニーの関係は音楽家がもっと真剣に考えなければならない問題ではないでしょうか。このところよく思うのですが、メロディーは、いつも邪魔されるというか、中断されてしまう危険をはらんでいます。しかしハーモニーは、いつもそこに存在しており、それだけで完璧なものです。実際にコンサートホールで演奏しているときにも、ハーモニーの働きによってメロディーそのものが横に延ばされ、時間を拡張されたハーモニーになってくるときがあります。そうなると、もうわたしではなく、コンサートホール自体が演奏しているようになる。演奏していると、そんなことが起こるのです。』

演奏という感覚的なことを言葉にするのは難しい、でもアファナシエフはまさに言いあらわしていると思う。新日フィルにいた頃、彼が指揮する演奏会があった。プログラムはシューベルトの「未完成」とブルックナーの9番(どちらも未完の曲だ、でもどちらも見事な曲だ。)。指がぬっと出てくるような指揮は独特だったけれど、音楽はよく伝わってきた。

『・・・シューベルトは決して音楽に成長を強いようとしたりはしないんです。言うなれば、一人の人間の中から何かが自然に成長していく。だから作曲するときにも、ずっとこのままだと単調だから、ここで違うフレーズを入れよう、などとは考えない。・・・』(アファナシエフ)

昔クリスチャン・ツァハリアスにシューベルトの変ロ長調のピアノ三重奏のレッスンを受けた時、彼は「シューベルトの音楽は、今ここにいることの心地よさだ」と言った。その言葉に目を開かれるようだった。このピアノトリオも、他の多くのシューベルトの作品と同じように、旋律が何度も何度も繰り返されていく。転調やモチーフの小さな変化は伴うけれど、ベートーヴェンのように大きな展開をしたり、その恩恵を受けた壮大な結末を迎えたりはしない。旋律は湧き続ける泉のように自然で美しく、どんな小さなモチーフにも、いつまでも手元に置いて弾いていたくなるような愛らしさがある。こうした音楽に接するといつも、書いた人に畏敬の念を覚え、同時にこんなに素晴らしいものを残してくれたことにただただ感謝したくなる。こんな音楽を書くことができたなんて。

アンドラーシュ・シフがフォルテピアノで録音したシューベルトの即興曲、ソナタ(D894、D960)のCDがある。シフが書いたライナー・ノーツから。

『・・・19世紀には(さらに後になっても)、シューベルトはビーダーマイヤー風にセンチメンタルで無邪気に演奏されがちであった。彼のドラマチックな才能、その音楽の暗い力と計り知れない深さは、正当には認識されていなかった。爆発力と力強いクライマックスだけでなく、シューベルトが他の誰にも比べられないほど我々の心に迫るのは、静かな、最も静かな瞬間なのだ。彼の楽譜ではpとppが支配的である。pppも稀ではない。・・・』

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僕がたった一冊持っているピアノソナタの楽譜が、シューベルトの最後のソナタ(D960)だ。初めて楽譜を開いた時、冒頭がピアニシモで始まることと、重ねられている音の多さに驚いた。今日楽譜を開いて、冒頭だけでなく、第2、第3楽章もピアニシモで始まることに気付いた。これほど規模の大きなソナタがピアニシモで始まることは普通ではない。きっと大切なことは規模ではなく、まるで自分一人のために書かれたかのような親密さなのだと思う。

ルービンシュタインがシェリング、フルニエと録音したシューベルトの変ロ長調のトリオの素晴らしい録音がある。ライナー・ノーツはリン・S・マッツァが著し、書き出しには様々な人の言葉がある。
『シューベルトは、死というものにまっすぐ向き合うことができた唯一の作曲家だろう・・・・自分が死ぬとき、私は周りに誰もいてほしくない。威厳をもって死ぬために森の中に消えていく動物のように、私は死にたい ー たったひとりで」(ルービンシュタイン)
『人生は時によって、われわれの愛や成功や自由や健康や幸運を奪い取ってゆく。しかしながら人生はわれわれの思考、想像力、あらゆる芸術や本や花への愛、そしてあらゆるものへの興味を奪うことはできない』(ルービンシュタイン)
『音楽は、人間本性がそれなしではすごせないようなある種の快楽を作り出す』(孔子)
『シューベルトのトリオ(Op.99)を一瞥するだけで、われわれの人間的な経験における困難は消えうせ、世界は再び新鮮で輝かしいものとなる』(シューマン)

こんなに印象的なライナーノーツはそうない。それぞれの言葉の出典が記されていないことを残念に思う。もしかして何かわかるかもしれないと思い、ルービンシュタインの自伝を図書館で借りてきた。生き生きとした冒険譚のようなこの本の後ろには、今は使われなくなった図書カードが挟んであった。日付は全て昭和だった。

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