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2018年4月

2018年4月22日 (日)

こつんと

ぐっと本数は減ったけれど、今もフィルムで写真を撮っている。久しぶりに古いカメラを持ち出した。露出計も付いておらず、ファインダーを覗くと35ミリレンズの撮影範囲を示すフレームと中央の距離計しかない。何かに心を動かされたら、明るさを計り、シャッタースピードと絞りを決め、1枚、多くて2枚を撮る。それは心地良く、すとんと腑に落ちる瞬間だ。そうして撮りためた中から、1年たち2年たっても印象に残っている写真を、6つ切りや4つ切りの大きさにプリントしてもらう。バライタ印画紙に丁寧に引き伸ばされた写真には、見入ってしまう美しさがある。

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「アサヒカメラ」5月号はモノクロ写真特集。
鬼海弘雄さんの記事から。
『訓練って、地味だけど、地味なことが必要なんですよ。大工さんが、かんなの刃を研いだり、鋸の目にやすりをあてたり、そういう地味なことをして仕事を覚えていく。地味なことをやるというのは、植物を大地に植えるのと、ベランダのプランターに植えるくらいの大きな違いがゆくゆくはある。同じような葉っぱで、同じような花が咲いたとしてもね。ものをつくるには、そういう面倒くささというか、不便さが必要かもしれない。デジタルなんか、その訓練がいっさいないわけでしょう。私は銀塩でやっているから面白い。面倒くさいし、お金もかかるんですけどね』

折しも富士フイルムが白黒フィルム「acros」の販売終了を発表したばかり(10月頃まではあるそう)。大きな企業が、この先売り上げが伸びるとは考えられない白黒フィルムや印画紙を終了するのは、ごく当然な判断と思う。技術の進歩で写真撮影はフィルムの様々な制約から解放された。画像の確認が容易になり、信じられないような高感度が実現し、撮影後の編集の幅も広い。時間がかからず、便利だ。
よく写真展に出かける。やっぱりフィルムはいい、と思うことも、このデジタルなら、と思うことも、どうしてこれを、と思うこともある。幸いなことに最近は落ち着いているけれど、時々デジタルカメラが気になり、手に入れ、しばらく目新しさに魅せられ、なぜか飽きて使わなくなり、再びフィルムを手にし、・・・。そうしたことを振り子のように何度も繰り返してきた。富士フイルムのデジタルカメラも使っている(X100F)。でもフィルムの美しく奥行きのある世界は、やはりフィルムの中にしかないと思う。心にこつんと当たるような、と言ったらよいのか。企業の経営は間違いなく非情なものと想像するけれど、一度その世界を失ってしまうと・・・。

キャノン・ギャラリーSで開かれている。ルーク・オザワさんの写真展「JETLINER ZERO」へ。素晴らしかった。(cweb.canon.jp/archive/luke-jetliner/index.html)
ルークさんは先日出ていたJ-Waveの放送の中で、空の中にある飛行機を撮る、という意味のことを言っていたと思う。まさにそういう写真だった。知っているはずの羽田、成田、新千歳、そういった空港がまるで別の世界のように見えた。


2018年4月16日 (月)

声の奥行き

昨日4月15日の都響は東京・春・音楽祭の公演でロッシーニのスターバト・マーテル。4人のソリスト、エヴァ・メイ(ソプラノ)、マリアンナ・ピッツォラート(メゾソプラノ)、マルコ・チャボーニ(テノール)、イルダール・アブドラザコフ(バリトン)が素晴らしかった。声の奥行きと言ったらよいのか、立体感と言ったらよいのか、あぁそうですよね、本当にそうですよね、と感じた。声に楽器はかなわないけれど、でも目指す方向を明確に示してくれた。メゾソプラノのピッツォラートさんは、歌い終える瞬間、声が文化会館の大ホールに消えていく瞬間もなんとも言えず美しかった。ソロだけでなく、4人や2人でつくる響きも見事だった。

少し勉強してから海へ。行こうとする度に電車が遅れたり、強風だったりして断念していた。だから今日、バスを降りて海が見えた時、胸がいっぱいになった。肌寒く曇っていたけれど、海は海だった。

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2018年4月13日 (金)

最近の日経新聞から

4月12日の日経新聞朝刊に掲載された写真家、鋤田正義さんの文章から。(文中の「ボウイ」とはデヴィッド・ボウイのことです)

『実は僕は英語が話せない。聞く方はなんとかなるのだが、しゃべるのがダメだ。だからボウイとのコミュニケーションは専ら写真を通してだった。撮影前もほとんど話はしない。いきなり始まる。そして、撮影したものから20枚程度を選び送る。彼は気に入ったものを使いたいとリクエストする。お互いに深い信頼があったと思う。
 思い返せば、子供のころから話すより見ることを大切にしてきた。実家の化粧品店の店番をしながら、窓枠をフレームのようにして人の流れを観察した。映画も好きで、実家のある福岡県直方市から50キロ離れた福岡の映画館に自転車で通っていた。それが今に生きているのかもしれない。
 ボウイとの関係がうまくいったのも、英語が話せなかったからじゃないかと思う。しゃべらなくても、写真が代わりに語ってくれる。目の前に居る相手を尊重して、瞬間を記録していく。そうやって撮影を続けてきた。』

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先月の「私の履歴書」は宗教学者の山折哲雄さん。とても興味深く読んだ。今月はジャパネットたかたの高田明さんで、抜群におもしろい。商売をすることの大変さ、魅力が僕にもほんの少し見えるようだ。夕刊のエッセイは土曜日の望月京さんが楽しい。オーケストラの仕事で彼女の曲は弾いたことがあったけれど、難しいものを書く人、という印象だった。文章を読んで、題材が豊富だし、感覚にも考え方にも、なるほどと思うことがたくさんある。

金曜日夕刊の映画評ももちろん読む。でも鵜呑みにはしない。というのは以前この映画評で絶賛され、満点の星5つがついた映画を、どんなに素晴らしいのだろう、と楽しみに見に行ったら、僕にはさっぱり、ということがあった。初めて入った岩波ホールの、スクリーンが小さいことを知らずに後方に坐ったことがまず失敗。映画の間中ずっと、僕の右斜め前方に坐る男性がいびきをかいて寝ていて(そんなに眠いなら外で寝ればいいのに)、それに腹をたてた左斜め前方の男性が手元にあった紙をくしゃくしゃと丸めて投げつけたのだけれど、いびき男性には当たらず、いびきは収まらず。そうした一部始終がよく見えておかしかった。映画の内容は忘れてしまった。

2018年4月 3日 (火)

ショスタコーヴィチ

3月20日の都響定期演奏会はインバルの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。月刊都響3月号、増田良介さんの解説には作曲の背景や1942年の初演、楽譜がマイクロフィルムで持ち出され、アメリカでも盛んに演奏されるようになったことが書かれた後、
『バルトークが<管弦楽のための協奏曲>の中で、この交響曲の「戦争の主題」の一部を引用して風刺したことはよく知られているが、・・・』
とあり、いやいや恥ずかしながら僕は知りませんよ、しかし、と慌てていろいろな人たちに聞いた。「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章、トロンボーンのグリッサンドの後、遊園地のような音楽になったところのヴァイオリンの下降音型がそれ。本当にそのものだ。突然どうして脈絡なく、こんな能天気な音楽が出てくるのか不思議に思っていた。そういうことだったのか・・・。
バルトークはこの曲がもてはやされていることを苦々しく思っていたのでは、と僕は勝手に想像する。彼のアメリカでの晩年を知ると、胸がつぶれそうになる。(アガサ・ファセット著「バルトーク 晩年の悲劇」)

3月26日の定期演奏会の前半はやはりショスタコーヴィチの、ピアノ協奏曲第2番(ソリストはアレクサンドル・タロー)。1番の協奏曲の方が演奏機会が多いと思うけれど、僕はこの2番が好き。バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの演奏を幾度も聴いて、曲とその演奏が切り離せなくなってしまった。
ファゴットの、いかにもファゴットらしい主題の6小節の前奏の後(どうして6小節なんだろう、4小節+2小節・・・)、ピアノが始まる。ヘ長調だ。ヘ長調のピアノ協奏曲は珍しい。すぐ思いつくのはガーシュイン。モーツァルトには何曲かあるけれど。
ショスタコーヴィチらしくなく、この曲には皮肉がない。大きな展開もなく、少さな変化を伴いながら同じ流れの中にずっといる。そういう意味ではシューベルトのようだ。特に第2楽章は美しい。ピアノが旋律を左手の3連符で伴奏する書き方は、ベートーヴェンの月光ソナタを連想させる。第1番のピアノ協奏曲の冒頭がベートーヴェンの熱情のパロディであることは「よく知られている」と思うけれど、この協奏曲はパロディというより、ベートーヴェンへのオマージュのように思える。終楽章には7や9の変拍子が出てくる。たまたま日曜日夕方のラジオからブルガリアのダンスミュージックが流れ、それも7拍子だった。DJのバラカンさんがこの7拍子は確かに踊れそうです、と言っていた。聞きながらショスタコーヴィチの協奏曲のことを思った。

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亀山郁夫さんが昨年、ソヴィエト体制下の芸術家たち、というテーマで行った講演を聞いた。ショスタコーヴィチに関しては5番の交響曲の終楽章を取り上げ、金管楽器で演奏される冒頭の主題が、カルメンのハバネラから来ていること(下降形の旋律の後、調性が明るくなるところ)、そしてその部分の歌詞は・・・、というものだった。
ショスタコーヴィチの4番の交響曲はとうてい分かりやすいとは言えない。それを踏まえると5番の終楽章が延々と華々しく書かれているのは、決して作曲家の本心ではなく、こう書けば当局は喜ぶんでしょ、という痛烈な皮肉のように僕は感じていた。真情を担保するために、当時の芸術家たちは「二枚舌」を使った、というのが亀山さんの説明だった。終楽章の主題の基になった部分のハバネラの歌詞はおそらく(間違っているかもしれません)、「prends garde a toi!(用心しなさい!、あるいは、気をつけろ!)」。
想像もできないことだけれど、ショスタコーヴィチが新しい交響曲を発表する時、それは常に注目を集め、同時に政府からにらまれる危険も背負っていたのだと思う。

これはS君に教えてもらった話。エンリコ・ディンドはロストロポーヴィチ・コンクール優勝の後、ロストロポーヴィチ自身の指揮でショスタコーヴィチのチェロ協奏曲を弾いた。演奏会の度に、ロストロポーヴィチは本番前、人目をはばからず号泣していた。その理由は、(自分は亡命したのに)どうしてショスタコーヴィチを西側に連れ出してやらなかったのか、という自責の念だったそうだ。

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