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2018年4月13日 (金)

最近の日経新聞から

4月12日の日経新聞朝刊に掲載された写真家、鋤田正義さんの文章から。(文中の「ボウイ」とはデヴィッド・ボウイのことです)

『実は僕は英語が話せない。聞く方はなんとかなるのだが、しゃべるのがダメだ。だからボウイとのコミュニケーションは専ら写真を通してだった。撮影前もほとんど話はしない。いきなり始まる。そして、撮影したものから20枚程度を選び送る。彼は気に入ったものを使いたいとリクエストする。お互いに深い信頼があったと思う。
 思い返せば、子供のころから話すより見ることを大切にしてきた。実家の化粧品店の店番をしながら、窓枠をフレームのようにして人の流れを観察した。映画も好きで、実家のある福岡県直方市から50キロ離れた福岡の映画館に自転車で通っていた。それが今に生きているのかもしれない。
 ボウイとの関係がうまくいったのも、英語が話せなかったからじゃないかと思う。しゃべらなくても、写真が代わりに語ってくれる。目の前に居る相手を尊重して、瞬間を記録していく。そうやって撮影を続けてきた。』

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先月の「私の履歴書」は宗教学者の山折哲雄さん。とても興味深く読んだ。今月はジャパネットたかたの高田明さんで、抜群におもしろい。商売をすることの大変さ、魅力が僕にもほんの少し見えるようだ。夕刊のエッセイは土曜日の望月京さんが楽しい。オーケストラの仕事で彼女の曲は弾いたことがあったけれど、難しいものを書く人、という印象だった。文章を読んで、題材が豊富だし、感覚にも考え方にも、なるほどと思うことがたくさんある。

金曜日夕刊の映画評ももちろん読む。でも鵜呑みにはしない。というのは以前この映画評で絶賛され、満点の星5つがついた映画を、どんなに素晴らしいのだろう、と楽しみに見に行ったら、僕にはさっぱり、ということがあった。初めて入った岩波ホールの、スクリーンが小さいことを知らずに後方に坐ったことがまず失敗。映画の間中ずっと、僕の右斜め前方に坐る男性がいびきをかいて寝ていて(そんなに眠いなら外で寝ればいいのに)、それに腹をたてた左斜め前方の男性が手元にあった紙をくしゃくしゃと丸めて投げつけたのだけれど、いびき男性には当たらず、いびきは収まらず。そうした一部始終がよく見えておかしかった。映画の内容は忘れてしまった。

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