ショスタコーヴィチ
3月20日の都響定期演奏会はインバルの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。月刊都響3月号、増田良介さんの解説には作曲の背景や1942年の初演、楽譜がマイクロフィルムで持ち出され、アメリカでも盛んに演奏されるようになったことが書かれた後、
『バルトークが<管弦楽のための協奏曲>の中で、この交響曲の「戦争の主題」の一部を引用して風刺したことはよく知られているが、・・・』
とあり、いやいや恥ずかしながら僕は知りませんよ、しかし、と慌てていろいろな人たちに聞いた。「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章、トロンボーンのグリッサンドの後、遊園地のような音楽になったところのヴァイオリンの下降音型がそれ。本当にそのものだ。突然どうして脈絡なく、こんな能天気な音楽が出てくるのか不思議に思っていた。そういうことだったのか・・・。
バルトークはこの曲がもてはやされていることを苦々しく思っていたのでは、と僕は勝手に想像する。彼のアメリカでの晩年を知ると、胸がつぶれそうになる。(アガサ・ファセット著「バルトーク 晩年の悲劇」)
3月26日の定期演奏会の前半はやはりショスタコーヴィチの、ピアノ協奏曲第2番(ソリストはアレクサンドル・タロー)。1番の協奏曲の方が演奏機会が多いと思うけれど、僕はこの2番が好き。バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの演奏を幾度も聴いて、曲とその演奏が切り離せなくなってしまった。
ファゴットの、いかにもファゴットらしい主題の6小節の前奏の後(どうして6小節なんだろう、4小節+2小節・・・)、ピアノが始まる。ヘ長調だ。ヘ長調のピアノ協奏曲は珍しい。すぐ思いつくのはガーシュイン。モーツァルトには何曲かあるけれど。
ショスタコーヴィチらしくなく、この曲には皮肉がない。大きな展開もなく、少さな変化を伴いながら同じ流れの中にずっといる。そういう意味ではシューベルトのようだ。特に第2楽章は美しい。ピアノが旋律を左手の3連符で伴奏する書き方は、ベートーヴェンの月光ソナタを連想させる。第1番のピアノ協奏曲の冒頭がベートーヴェンの熱情のパロディであることは「よく知られている」と思うけれど、この協奏曲はパロディというより、ベートーヴェンへのオマージュのように思える。終楽章には7や9の変拍子が出てくる。たまたま日曜日夕方のラジオからブルガリアのダンスミュージックが流れ、それも7拍子だった。DJのバラカンさんがこの7拍子は確かに踊れそうです、と言っていた。聞きながらショスタコーヴィチの協奏曲のことを思った。
亀山郁夫さんが昨年、ソヴィエト体制下の芸術家たち、というテーマで行った講演を聞いた。ショスタコーヴィチに関しては5番の交響曲の終楽章を取り上げ、金管楽器で演奏される冒頭の主題が、カルメンのハバネラから来ていること(下降形の旋律の後、調性が明るくなるところ)、そしてその部分の歌詞は・・・、というものだった。
ショスタコーヴィチの4番の交響曲はとうてい分かりやすいとは言えない。それを踏まえると5番の終楽章が延々と華々しく書かれているのは、決して作曲家の本心ではなく、こう書けば当局は喜ぶんでしょ、という痛烈な皮肉のように僕は感じていた。真情を担保するために、当時の芸術家たちは「二枚舌」を使った、というのが亀山さんの説明だった。終楽章の主題の基になった部分のハバネラの歌詞はおそらく(間違っているかもしれません)、「prends garde a toi!(用心しなさい!、あるいは、気をつけろ!)」。
想像もできないことだけれど、ショスタコーヴィチが新しい交響曲を発表する時、それは常に注目を集め、同時に政府からにらまれる危険も背負っていたのだと思う。
これはS君に教えてもらった話。エンリコ・ディンドはロストロポーヴィチ・コンクール優勝の後、ロストロポーヴィチ自身の指揮でショスタコーヴィチのチェロ協奏曲を弾いた。演奏会の度に、ロストロポーヴィチは本番前、人目をはばからず号泣していた。その理由は、(自分は亡命したのに)どうしてショスタコーヴィチを西側に連れ出してやらなかったのか、という自責の念だったそうだ。
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