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2018年5月

2018年5月20日 (日)

「私の中で歌いたまえ」

5月22日の都響定期演奏会にはコリリアーノの「ミスター・タンブリンマン ― ボブ・ディランの7つの詩」(ピアノ版の初演は2000年)があり、今日からリハーサルにソプラノのヒラ・プリットマンが加わった。
月刊都響5月号に掲載されている解説を読むと、作曲したコリリアーノはボブ・デイランの音楽をそれまで聴いたことはなく、テキストとしてディランの詩を使うだけで、ディランの音楽をアレンジすることも、自作が完成するまでディランの音楽を聴くことも、なかったそうだ。
3曲目の楽譜に「Blowin'in the Wind」とあり、それが有名な「風に吹かれて」であることに、今日ようやく気付いた。コリリアーノの音楽は、特に最後の「いつまでも若く(Forever young)」は美しいのだけれど、同じテキストを用いていても、ディランの音楽とはずいぶん違う。ディランの音楽と歌詞は分かちがたいものと思う。一方そのテキストは別の人にはこんな発想をもたらすのだと興味深い。帰宅してディランのCDを聴くと、土の匂いがするようだ。

昨年発売の雑誌「Monkey」vol.13に、ボブ・ディランのノーベル賞受賞講演が掲載され、時々読み返す。その中から(訳は柴田元幸さん)。

『・・・もし歌が人の心を動かすなら、それが唯一大切なことなのです。歌にどんな意味があるか、私にわかっている必要はありません。私もいろんなことを歌の中に書き込んできました。それがみんなどういう意味なのか、気に病むつもりはありません。・・・
(If a song moves you, that's all that's important.I don't have to know what a song means.I've written all kinds of things into my songs.And I'm not going to worry about it ー what it all means.)』

『・・・私たちの歌は生者の国に生きているのです。けれど歌は文学とは違います。歌は歌われるものであって、読まれるものではありません。シェークスピアの戯曲の言葉は、舞台の上で演じられるために書かれました。歌の歌詞も、紙の上で読まれるためではなく歌われるために書かれたのです。みなさんにも、聴かれるために書かれた歌詞を、その意図どおりに聴いてもらえればと思います。− コンサートで、レコードで、あるいは近ごろ出てきたもろもろの新しい聴き方で。もう一度、ホメロスに戻ります。「私の中で歌いたまえ、おお詩の女神よ、私を通して物語りを語りたまえ」
(Our songs are alive in the land of the living. But songs are unlike literature. They're meant to be sung,not read. The words in Shakespeare's plays were meant to be acted on the stage. Just as lyrics in songs are meant to be sung,not read on a page. And I hope some of you get the chance to listen to these lyrics the way they are intended to be heard:in concert or on record or however people are listening to songs these days. I return once again to Homer,who says,"Sing in me,oh Muse,and through me tell the story.")』

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2018年5月13日 (日)

「チェロのレパートリーの限界に」

5月13日の都響演奏会はクラウス・マケラの指揮でシベリウスの1番など。フィンランド出身の21歳、絵に描いたような若さ、と言ってよいのか、はつらつとして颯爽として、一点の曇りも、迷いも、躊躇もなかった。見事だったと思う。チェリストでもある彼が、19歳の時にドヴォルザークを弾いている映像が動画サイトにある。そちらも素晴らしい。同じフィンランドの指揮者ハンヌ・リントゥもチェロを弾くはずだし、カザルスやロストロポーヴィチも指揮をした。彼らを見ているとルービンシュタインの自伝にあったバルビローリのエピソードを思い出す。

『二、三日して、私はスコティッシュ・オーケストラとブラームスのコンチェルト変ロ長調を演奏するためにグラスゴーへ向かった。指揮者はイタリア系の若いイギリス人、ジョン・バルビローリであった。チェロ奏者なのだが、多くのチェリストが感じるようにチェロのレパートリーの限界に失望して、指揮者として活躍するようになった人だ。彼とは最初から気が合った。音楽の理解も同じようであり、フレージングに関して互いに影響を与え合った。一度などは、目をつぶったままコンチェルトを演奏できた ­ 指揮者を見る必要がなかったのだ。・・・ジョンとは親友になった。』 

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2018年5月 9日 (水)

チェロアンサンブルナカジマ2018

5月5日は名古屋のしらかわホールでチェロアンサンブルナカジマの演奏会。
中島顕先生の生徒、生徒だった人、中学生から50代までの四十数名が舞台に上がった。その中で音楽を職業としている人は多くなく、様々な仕事の人たちが練習を重ね、一体感はどこにもない感じだった。それぞれの年齢や職業といった属性は消えて、一人一人がただ一人一人としてチェロを弾いているようだった。全体で音を出したときの感じはこれまで経験したことがなかった。あれは何だったのだろう。舞台の上にいる人間が不思議と同じ方向を向いている、そんな気がしたのは僕だけだっただろうか。
音楽を職業としていない先輩方の情熱や、若者たちのひたむきさに接することができたのは得難い時間だった。一つだけ残念だったのは、中島先生の現役の生徒だけの演奏が聴けなかったこと。結局練習はいつも、僕たちおじさん連中が仕切ってしまい、彼ら彼女たちが前面に出て生き生きする機会がなくなってしまった。前回、酒井あっちゃんが引き出した子供たちのあふれるような姿には目を見張ったもの。

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2018年5月 8日 (火)

タキトゥス

少し前に読み終わったのはタキトゥス著「年代記」。尽きることのない阿諛追従、奸計、謀反、扇動、背徳、放縦、嫉妬、密告、名誉、・・・、どうしようもない人間そのもの、と言ったらよいのか、そうしたものが力強く簡潔な文章で書かれ、引きこまれずにはいられなかった。様々な事件の記述も見事だし、ところどころで挟まれるタキトゥスの考えに触れる時、二千年近く前に書かれたその時間はすぐ飛び越えて、直にこちらに伝わってくるようだった。僕の家の小さく哀れな本棚はとっくにあふれ、もう本は買わないことにしているのだけれど、きっとこの本は再読する、と思い、図書館に返し、本屋に行った。久しぶりの新しい本は嬉しかった。

年代記から。
『私の努力している対象は、分野も限られて、しかも映えない。というのも、この時代は確固不動の平和が世を支配し、たまに僅かな動揺が見られたにすぎない。首都の政情は憂鬱を極め、元首は領土拡大に無関心であった。それにもかかわらず、始めとるに足らぬと思えるこれらの事件を、深く立ち入って考察することは、まんざら無意義ではあるまい。これらの事柄が原因となって、しばしば大きな事件が動き始めるのであるから。』
『・・・、すべての事情が変化し、ローマ国家が、実質上独裁政となった現在においては、私の述べているようなことを研究して後生に伝えることが有益であろう。じっさい、自分の叡智だけで、潔白と不正を、得策と不利を判別できる人は、ほんの僅かで、大部分の人は、他人の体験を通じて教わるのであるから。
 もっとも、このような歴史記述は、ためになっても面白くはない。各民族の地誌、千変万化の戦闘、有名な将軍の最期、それらは読者の心を魅き爽快にする。ところがわれわれは、むごたらしい命令、のべつ幕なしの弾劾、いつわれる友情、清廉な人の破滅、必ず断罪で終る裁判、そういうものでがんじ搦めに縛られ、千篇一律の事件を見せつけられ、倦怠を覚える。』

この後に読んだのは澤木興道著「禅談」。もう抜群のおもしろさ。

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