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2018年11月

2018年11月29日 (木)

唐招提寺

昨日、久しぶりに東海道新幹線に乗った。いつもの富士山側でなく、あまり座らない3列席の窓側、海が見え、色づいた木々が目に入ってきて楽しい。
この夏から秋にかけて、何度か東北新幹線に乗る機会があり、通路側の席に座ることも多かった。ちょっと驚いたのは、窓側に座っても外の景色を見ない人が多かったこと。ブラインドを降ろしてスマートフォンの画面に見入ったり、本を読んだり、眠ったり。何をしようとその人の自由だけれど、車窓の景色をぼんやり眺めることを贅沢だと感じている僕には意外だった。夜の新幹線に乗っている今、窓の外は真っ暗で実につまらない。最近考えていたことを書き出してみよう。

 

電車に乗ると、あるいは乗る前から、多くの人がスマートフォンを見ている。携帯電話が普及してからすっかり当たり前の光景になったけれど、30年前の車内はどんなだっただろう。
以前あるテレビ番組で脳を取り上げた時、又吉直樹さんが、芸人がネタを思い付くのは多くの場合風呂かトイレ、と言っていた。ぼんやりしている時に、実は頭の中では様々なことが起こっていて、思いがけない発想が生まれやすい、というのが番組の説明だった。

 

あまり言われないことのようだけれど、少なくない人たちが毎日少なくない時間、あの小さな画面を見て頭を刺激され続ける、SNSやゲーム、ニュース、様々な商品のサイトからあふれる情報にさらされ続ける、こうしたことは、大げさでなく、この数千年の間でなかったことだ。
僕の素人考えだけれど、例えばSNSは、これまで限られた人たちしかできなかった、何かを広く世間に発信する、ということを劇的に容易にし、しかもそこには承認欲求を満たす仕掛けもある(ハートマークのこと)。感心するしかない。人間の心のわりと深いところをたくみにくすぐる仕組みは、だからこんなに普及したのだと思う。
脳は使い方によって少しずつ変わる。少しずつの変化は気づかないことが多い。この新しい、かなり刺激の多い使い方がどんな影響をもたらしているのか、考えることはきっと必要だと思う。

 

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昨日は名古屋に泊まり、今朝は奈良へ。唐招提寺に向かう。東京に暮らしているとそれが日常になるけれど、時々他の土地に行くと、東京は当たり前でないことがわかる。
西ノ京で電車を降り、ゆったりとした時間を感じながら、お寺まで歩く。唐招提寺の金堂は美しい。紅葉も美しかった。美しい金堂を見ながら、煩悩とか執着という言葉を考える。とらわれないこと、それはもしかしてネガティブなことだけでなく、例えば好きなこと美しいことにもあてはまるのかもしれない、と思った。

 

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近鉄奈良駅から南にしばらく行ったところに、今風のこじんまりとしたカフェがある。数年前たまたま入って良かったので再訪した。どの街に出かけても同じようなチェーン店が増えている中で、個人の店が光っているのを見るのは嬉しい。厨房に立つのは若い女性、料理にも才能があるのだなぁ、と思わずにはいられなかった。彼女は淡々と丁寧に仕事をしているだけなのだけれど。

 

関西に来たのには唐招提寺だけでなくもうひとつ大切な用事があった。先週も懐かしい人たちに会い、珍しく話しこんだりした。

2018年11月15日 (木)

イェイツ

前に行ったのがいつだったか思い出せないくらい久しぶりに、城ヶ島に出かけた。なかなか出かけなかったのは遠くて時間がかかるから。今は目的地に近づいていくそうした時間の流れを心地よく感じる。すっかり空は高くなり、すすきが美しく映えていた。肥えた猫たちがそこここにいてうれしかった。

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高校生の時、通信教育に入っていた。あの頃、後にできることはできるだけ後にする、という傾向が今よりひどく、提出する解答用紙はたまっていくばかりだった。確か月2回、送られてくる回答と解説の掲載された小さな冊子の表紙はなかなか洒落たデザインで(2018年の今、もう一度見てみたい気がする)、おそらく秋だったと思う、表紙にイェイツの詩が載ったことがあった。それは印象的な詩で、心にとまるものだった。編集に携わった誰かがイェイツを好きだったのかもしれない。受験生向けの冊子ではあったけれど、その思いは見事に届いていたことになる。
今の僕は毎日、目の前のことをあるがままに見て生きていこうとしている。40代後半になり、10代のみずみずしい心はどれほど残っているだろうか。ようやく空気がひんやりとし、高くなった空を見て、その詩を思い出した。「落葉」という題、岩波文庫には対訳付きで収められている。でも訳は、昔のノートにメモしてあったその冊子のものがしっくりくる。どなたの手によるものだろう。

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落葉

秋は来た、2人をいとしむ長い木の葉のうえに
オオムギの束のなかに巣くうハツカネズミのうえに
ナナカマドの葉はわれらの頭上に黄ばみ 露しとど野イチゴの葉も黄ばみはてた

恋のおとろえのときはわれらに寄せてきて
2人の悲しい心は、いまはもの憂く疲れ果てた
いざ別れよう、情熱のときのわれらを去らぬうちに
伏目なるきみの額にくちづけし 涙しながら

      W.B.イェイツ


The Falling of the Leaves

Autumn is over the long leaves that love us,
And over the mice in the barley sheaves;
Yellow the leaves of the rowan above us,
And yellow the wet wild-strawberry leaves.

The hour of the waning of love has beset us,
And weary and worn are our sad souls now;
Let us part,ere the season of passion forget us,
With a kiss and a tear on thy drooping brow.

W.B.Yeats

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