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2018年12月31日 (月)

ひたすら

6月に、ある小さな演奏会でバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲を聴いた。昔から何度も弾いてきて、通奏低音のパートはすっかり覚えているくらいだけれど、その時初めて、なんて素晴らしい曲なんだろう、と思った。今年の最も大きな音楽的な出来事の一つだった。もし無人島に一枚のレコードを持って行くとしたら、僕は迷わずこの協奏曲にする。第2楽章だけでもいい。
高校生の頃、オイストラフの演奏を聴いたはず、とCDを探した。(その時聴いたのがメニューインと協演したものだったか、オイストラフ親子によるものだったか定かではないのだけれど)録音を聴いても感動はよみがえってくる。カップリングで入っているベートーヴェンのロマンスも素晴らしい。オイストラフの演奏に触れると、弦楽器はこう弾くもの、音楽はこう演奏するもの、と感じる。様々な情報にあふれ、足元が見えなくなりそうなとき、立ち戻る場所になる。

もう一つ、今年素晴らしかったな、と思うことは、年代も国も様々な5人の優れた演奏家・作曲家に会った時に受けた印象だ。接したのはいずれもリハーサルの合間だったり、終演後だったりした、そうしたタイミングもあるのかもしれない、相対した時、拍子抜けするほど彼らには邪気がなかった。握手をしようと手を出すと、こちらの手が向こうに通り抜けてしまうような気がした。子供のよう。その印象が見事に5人に共通していた。彼らの素晴らしいパフォーマンスは、そうした心の持ち方も関係しているのではないか、と思うようになった。充分に自己実現できていて、それに打ち込むことができている。

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もちろん演奏家には、ただならぬ雰囲気を漂わせたり、威圧的だったり、何かを腹に抱えていたりする人もいる。僕はといえば、様々なとらわれがある。こだわり、執着、好き嫌い、と言ってもいい。独断だけれど、演奏家の多くは人一倍執着の強い人たちだ。それは意外なほど演奏に影響しているのではないか。
演奏家として、素晴らしいことや苦いこと、様々な経験をする。そうした経験に、善し悪しだったり好き嫌いだったり、価値判断や感情的なものが結びつき、長い時間をかけて澱のように心に積もっていくことは、果たして良いことなのだろうか、と思うようになった。

体を使って何かをする、パフォーマンスをする時に、心や意識がどうあるか、というのは技術的な訓練と同じくらい大切なのではないだろうか。子供から大人になり、経験を積み、意識が大きくなり、考え事をするようになり、何もなかったところに、名誉、報酬、責任、地位・・・、こうしたことが重くまとわりつくようになる。ただ夢中でしてきたことに、意識の様々なことが入り込んでくる。
毎年のように色々なスポーツで、華々しい活躍を見せる10代の選手が現れる。しかし長く活躍し続ける選手は多くない気がする。専門的なことはわからない、肉体的な条件など様々なことがあると思う。例えば有名になり、メディアの取材を受け様々な媒体に出て・・・、そうしたことが続いた時、多くの選手の心に何かが起きているのではないか。放っておいてあげればいいのに、といつも思う。大きな大会の前は特に。メディアが騒がなかったらきっと違う活躍が、と思う選手がたくさんいる。

執着といえば、報道が続く自動車会社元会長のことを考える。彼はどうしてあんなにたくさんのお金が欲しかったのだろう。僕には想像もできないような素晴らしい使い道があったのだろうか、それともただただ、欲しかったのだろうか。

大晦日、除夜の鐘が108回撞かれる。それほど人間には煩悩があり、それらがしっかりと根を下ろす前に払ってしまいなさい、ということだろうか。来年のことを言うと鬼が笑う、というけれど、来年はできることなら、なぜ、どうして、何のために、など考えず、毎日真っ白な心で、ひたすら生きて弾いて、過ごしたい。

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