« シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲 | トップページ | 感情 »

2019年1月18日 (金)

「ひたむきな」

先週は国立科学博物館の「日本を変えた千の技術博」(meiji150.exhn.jp)へ、今週は2121デザインサイトの「民藝 Another Kind of Art 展」(www.2121designsight.jp/program/mingei/)へ。
どちらもさっと見て出るつもりが、見始めたら楽しくなり、ゆっくり見てしまった。科学博物館の展示の中に、昔の研究者の小さなノートがある。そこには実験のデータが丁寧に手書きで記され、研究に臨む姿がありありと感じられた。また、2121では様々な生活用具はもちろん、職人や流通にかかわる人の映像も素晴らしく、また柳宗悦さん、深澤直人さんの印象的な言葉があった。その中から。

『私は「どうしたら、美しいものが見えるようになれるか、とよく聞かれる。別に秘密はない。初めて「今見る」想いでみることである。うぶな心で受取ることである。これでものは鮮やかに、眼の鏡に映る。だから何時見るとも、今見る想いで見るならば、何ものも姿をかくしはしない。たとえ昨日見た品でも、今日見なければいけない。眼と心が何時も新しく働かねば、美しさはその真実の姿を現してはくれぬ。』 柳宗悦

『芸術家でも職人でもない人の無我な手から生み出されたものには、得も言われぬ魅力が潜んでいる。「私があの子どもたちの年齢のときには、ラファエロと同じように素描できた。けれどもあの子どもたちのように素描することを覚えるのに、私は一生かかった」と語ったパブロ・ピカソ。これは柳宗悦に同じく、ひたむきな心が創作に与える純粋性を評した言葉だ。』 深澤直人

E7666489f9984a44bd194767d0504a78

二つの展示に共通するのは、もともと誰かに見せることを考えていなかったものが、展示されていたことだ、と思う。会場を出るときに清々しい気持ちになっていたのは、そうした理由によるのだろうか。普段目にする様々な展示は、見られることが前提になっている。見られる、見てほしいと思う、そのような心の持ち方は、作ることとは別の何かを含んでいるのかもしれない。誰かに見てほしい、注目されたい、自分はこんなに素晴らしいことをしている、この心の叫びを・・・。そうしたものは表現の原動力なのかもしれないし、かえってその表現が人に伝わるのを邪魔しているのかもしれない。あるいはもしかして、表現すべきものですらないのかもしれない。

オランダ人の、ゴッホの専門家が来日した時、ゴッホは世界一幸せな画家でした、なぜなら自分の描きたいように描いたからです、と言っていた。生前ほとんど絵は売れず、ほとんど注文されず、おそらく注目もされず、弟テオに支えられながら絵を描いた、そういう人生だったのだろうか。今や多くの人の心を打ち、市場に出れば騒ぎとなる絵、そのことと、それを描いたゴッホの人生との間の開きを考える。

« シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲 | トップページ | 感情 »

映画・展覧会」カテゴリの記事