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2019年1月12日 (土)

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲

1月10日の都響定期演奏会の前半はシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲。パート譜をざっと見た時、そんなに黒くないし(細かい音符が多くないということ)きっと大丈夫、と思っていたら、僕のこれまでの音楽人生の中で(さほどのものではない)、指折り何番目かの難しさだった。ただし同僚から、そんなに難しいんですか?、とか、チェロ大変そうだね、と言われたから、パートによって印象はずいぶん違うらしい・・・。(オーケストラではよくあること)

何が難しかったのか、考えてみる。
最大の理由は定型がほとんどなかったことだと思う。リズムが似ているようにみえる時でも、毎回少しずつ違う。あるリズムが拍の前にきたり、拍の頭にきたり、アップビートが八分音符だったり十六分音符だったり、複雑に入り組んでいる。慣れてきて他のパートが耳に入るようになると、かえって惑わされる。その上、十二音技法というのか、音の予想がいつもつかない。リズムにも音にも定型がない。逆に言うと普段、身についた定型に頼っている部分がかなりあるということだ。
そのような場合は、淡々と、ただ目の前の音符を一つずつ丁寧に弾いていく、それが良い方法だったのかもしれない。実際問題、丁寧に弾く時間はほとんどなかったけれど。猛烈なスピードで動いていく現在の状況の中に身を置きながら、楽譜を読んで、その中にフィットしていくように音を出していく。以前、オーケストラ奏者は空間認識能力が高い、という話を聞いたことがある。楽譜を図形のように、地図のように素早く読む、ということだろうか。(残念ながら、僕の能力がたいしたものだとは思えない)素人考えだけれど、世界ラリー選手権に出場するようなナビゲーター(運転席の隣に座って、地図を読み、方向などの指示をドライバーに出す人)がもしオーケストラ奏者になったとしたら、非常に高い能力を発揮するかもしれない、と思う。オーケストラで弾くことが趣味の、プロのナビゲーターがもしどこかにいたら、話を伺ってみたい。

自分が間違えて飛び出した箇所を、次に通る時気をつけていると、他の人が飛び出したりして、あぁ自分だけじゃないんだ、と思う。シェーンベルクという人は人間のことをよくわかっていて、こう書くと君たちは間違えるよね、と見られているようだった。
そして、これはいつものことだけれど、記譜が、へ音記号、ハ音記号、ト音記号と目まぐるしく変わり、ピチカートとアルコの持ち替えに加えてバットゥート(弓の木の部分で弦をたたく)の指示もあり、ディヴィジの指示(パートの中でさらにパートが分かれる)であちこち目が泳ぐ。加えて追い討ちをかけるように、写譜が読みにくい。同じ小節の中で1拍にあてられるスペースが違い、あぁもう、実に読みにくい。大事な休符が隅の方に追いやられて、くしゃっと書いてあったりする。写譜屋さんは独自の美学お持ちなのかもしれないが、たとえば四拍子なら、一小節をだいたい四等分して書いて頂きたいと切に願う。

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一言で言えば、足りない頭と体ををフル回転させた演奏会だった。難しさに翻弄されて終わったけれど、曲自体はなんだかおもしろそうだった。ソリストはパトリツィア・コパチンスカヤ。リハーサルの最初から素晴らしい演奏だった。何より素晴らしいと思ったのは、超絶技巧の演目のはずなのに、いつも自然な感じでいたところだ。そこが一番大切なのかもしれない。本番の衣装ではわからなかったけれど、彼女はいつも素足でヴァイオリンを弾いていた。

僕は聴いていないけれど、この曲はヒラリー・ハーンの録音がよく知られているらしい。そのCDのカップリングはシベリウスの協奏曲で、収録順はシェーンベルク、シベリウスだそうだ。何人かのヴァイオリンの同僚と話していて、シベリウスを聴く目的でこの録音を持っている人が、その時初めてシェーンベルクも入っていることに気づいていた。収録順からすると、演奏者の意図は明らかにシェーンベルクを聴いてほしい、ということだろうけれど、進んでシェーンベルクを聴く人は多くないかもしれない。だって例えば、朝すごく早い時間に目が覚めた時、シベリウスを聴こう、とは思っても・・・。(シェーンベルクさん、ごめんなさい)

プログラムの後半はブルックナーの6番。久しぶりに弾いた6番は、バランスが取れて美しい曲だった。
大野さんの指揮は早めのテンポで、横のつながりがよく見えた。シェーンベルクとは対照的に、ブルックナーのフレーズは2、4、8、16小節の定型で書かれている。それぞれのフレーズの和音がどのように書かれているのか、どのような進行をしているのか、そして次のフレーズに移る時、前のフレーズとどういう関係なのか、そんなことを感じながら弾くのは楽しかった。ブルックナーの演奏は重厚長大になりがち、でも今回のようによく進むテンポもいい、という思いと、低弦が十分に鳴り切るにはもう少し時間がほしかった、という思いがまざった。

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