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2019年3月23日 (土)

体験する

今日は福岡への移動日。東京から5時間新幹線に乗り、ホテルに荷物を置いた後、さらに1時間電車に乗って海に向かった。車窓から海が見える時にはいつも、はっとする喜びがある。どうして海を見るのか。自然は人間と関係なくあるからだと思う。素晴らしいことに、水平線はどこへ行っても水平線のままだ。

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音楽や文学、美術、社会、その他多くのことは、人間が関係している。そして100メートル走の記録のように明確な基準が存在することはあまりない。
音楽のよりどころは作曲家の残した楽譜だ。演奏とは、作曲家が何を言おうとしたかを読み取って、それを再現しようとすることだと思う。昔は、音楽は自分の好きなように弾けばいい、と思っていた。今は違う。黒子のように職人のように、楽譜に書いてあることを読み取ろうとする、そしてそれを実現しようとする。その先にはもしかして何かがあるのかもしれない。
多くの音楽に接してきた、そしてその時間が増えるごとに、作曲家のことをより強く感じるようになる。簡単に言えば、どうして人間にこんなことができたのか信じられないほどだ。

先日の演奏会はブルックナーの8番の交響曲だった。1月に6番を弾いた時も感じたけれど、テンポが速いと思う。先へ先へと追われているようだった。演奏会の前にO君が、ピアニストにとってブルックナーは最も遠い作曲家ではないでしょうか、と言っていたことを思い出す。オルガンのように常に持続する音の中にいる音楽だと思う。1つの和音から次の和音へ移るとき、その瞬間が本当に素晴らしい。
長大なこの交響曲の中で、第3楽章に先日の版では2カ所だけ、シンバルとトライアングルが入る。大変印象的な使い方だ。Nさんが教えてくれたのは、(音程がないことになっている)その2つの楽器に、音程が書いてあり、それはきっと作曲者が響きに明確なイメージを持っていたのでは、ということだった。シンバルとトライアングルが最初に入るところ、そこは曲全体の頂点と言っていいと思う。バスにシ♭が書かれたミ♭・ソ♭・シ♭の和音が輝かしく4小節鳴った後、バスがド♭に半音上がり、さらに強くド♭・ミ♭・ソ♭の和音が鳴る。その時が2度目のシンバルとトライアングルの登場だ。

ブルックナーの前には、バッハのマタイ受難曲の中から、アルトのアリアをごく小さい編成にアレンジして弾くことがあった。マタイ受難曲は昔よく聴いていた。純粋に音楽として聴いていたのだけれど、今回、対訳の歌詞を見ながら聴いたら、モノトーンだった世界が急に色彩を帯びてくるようで驚いた。言葉と音楽との関係が本当に興味深かった。言葉がどのように音楽に関わってくるのか、もしかして言葉が音楽を生み出すのか、チェロ組曲や他の器楽曲からは想像もできない豊かな世界があった。

このところ家にいるときによく聴くのはベートーヴェンのピアノソナタ。初期から始めて順番に中期、後期と聴き、32番まで行ったらまた初期に戻る。毎回初めて聴くように聴く。一人の作曲家がどのように変化していったかをたどるのは、奥深い探検のようだ。題名のついた有名な曲や、後期の人間離れした曲はもちろん素晴らしい。でも初期や名前のない曲にもたくさん惹かれるところがある。ベートーヴェンがどのようなモチーフを思いつき、どのように発展し展開させ、終わらせたのか。リチャード・グードがカザルスホールのプログラムに書いたように、驚くべきことにどの曲もまるで違っていて、でもどの曲もまぎれもなくベートーヴェンだ。
こういう聴き方をするようになり、たとえ聴く時でも音楽は体験するものだと、ようやく気がついた。

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