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2019年4月

2019年4月30日 (火)

「希望の灯り」

少し前に観たのが映画「希望の灯り」(原題'In the Aisles')kibou-akari.ayapro.ne.jp
すごい二枚目も絶世の美女も登場せず(こういうことを言うのははなはだ主観的だけれど)、舞台は時代に取り残されたような大型スーパー、画面に映るのはその大きな通路、陳列棚、フォークリフト、休憩所、幹線道路、街灯、バス、夜明けの空、・・・、昔の東ヨーロッパを思い出させる寒々とした光景ばかり。でもこの映画は美しい。見事だと思った。監督のトーマス・ステューバーは1981年生まれ、僕は30代半ばの時に世界をこう見ることはできなかった。彼は何が美しいのか、よく知っているのだと思う。美しいか美しくないか、は物によるのではない。
「希望の灯り」の冒頭は、スーパーの見上げるように高い棚の間をフォークリフトが動いていく映像で始まる(確か、僕の曖昧な記憶によれば)。その時にかかる音楽が「美しき青きドナウ」。それはS.キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を強く思い起こさせる。宇宙船が漆黒の宇宙をゆっくりと動いていくシーンに使われた音楽だ。
帰宅して久しぶりに「2001年宇宙の旅」を少し見たら、素晴らしくて驚いた。CGというものなどない時代。公開は1968年、アポロ計画が月着陸を果たす前だ。2019年現在、有人宇宙船は木星はもちろん、火星にだって到達していないけれど、あの映画で重要な役割を果たすコンピュータ「HAL」は今のAIを予言しているようだ。

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「希望の灯り」を観た週、都響は東京、大阪で公演があった。プログラムの前半はグリークのピアノ協奏曲。ソリストはニコライ・ルガンスキー。
この曲を弾いていると海が見える、波の音が聞こえてくるようだ。(「希望の灯り」の基調の色は青、隠れた主題は海だったと思う。)特に好きなのは第2楽章、主題が始まった瞬間に心動かされる。後半いきなり調性が明るくなってチェロが旋律を弾く時は、解き放たれるようだ。
ルガンスキーは2公演とも、アンコールでメンデルスゾーンの無言歌を弾いた。大阪で弾いたop67-2「失われた幻影」は良かった。たとえ大きなドラマはなくても、音楽は本当にいいな、と思う。フェスティバルホールは舞台も客席もバックステージも広大だ(時々自転車か、キックボードが欲しくなる)。笑顔で拍手をして下さる聴衆を見て、心温まる思いだった。

2019年4月10日 (水)

一本の木

桜が散り、街路樹には新しい芽が出て、様々な柔らかい色が見られるようになった。
4月8日の日経新聞に掲載された池上彰さんと黒田博樹さんの特別講演の記事から。
池上 「初めから自信のある人はいないし、自信があると言い切れる人は鼻持ちならない。私は働き始めてからも自信がないままの日々だった。だから目の前の課題にコツコツと取り組んで、少しずつ自信を持てる部分を増やしていくことが大事だ」
黒田 「一試合勝っただけで自信につながるなら、一試合に負けて自信を失うこともあるはずだ。自信とは、結果を出すための裏付けや取り組んできた過程があって、初めて経験できるものだ。小さな積み重ねでも、いつか『こういうことだった』とわかる日がきて、自信につながる」
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一本の木のことを考える。大きさや見映えはどのようでもいい、雨が降ったり風が吹いたりしても、何かに寄りかかることなく、まっすぐ立っていられたら、と思う。

2019年4月 4日 (木)

すらすらと

昨日までは冬のような北風で澄んだ青空、今日は南風が吹いてふわっと暖かくなり、空気の透明感はなくなった。紀尾井ホールに通っている。ライナー・ホーネックさんの指揮とヴァイオリンで、モーツァルトの交響曲第25番やセレナータ・ノットゥルナなど。駅からホールまで歩く間、桜が青空に映えて美しい。

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ホーネックさんがヴァイオリンを弾く姿は、まるで最初からそうだったように、楽器と体が一体となっている。言葉や指揮で説明するより、ヴァイオリンで弾く一つ一つの音が雄弁に語る。音、フレーズの感じ方、テンションのかけ方、音程の取り方、・・・。一つ一つのフレーズに話し方があり、ぼんやり聴いているとそれがとても自然なので気付かないけれど、日本人の感覚に遠く、もしかして気付いてすらいないことを教えてくれているのかもしれない、と思う。彼のヴァイオリンを聴いていると、projectionという言葉が浮かぶ。音は投射する、投影する、何かを空間に放つようなものだと感じる。手元で楽器をごしごし弾くのではなく。

ト短調、第25番の交響曲は劇的で暗い。冒頭にリズムの強い摩擦はあるけれど、皆同じ音を弾く。第3楽章、第4楽章の冒頭もユニゾンだ。4つの楽章のうち3つがユニゾンで始まる。どういうことなのだろう。

2楽章ではヴァイオリンが弾く主題をすぐファゴットが追いかける。2本のファゴットはぴったり3度音程で書いてあるのに、追いかけられるヴァイオリンは(第1ヴァイオリンと第1ファゴットは同じ音)、第2ヴァイオリンが少し違う動きをする。きっとヴィオラ、チェロ・バスとの兼ね合いをとるため、物事をスムースに進めるため、第2ヴァイオリンをそう書いたと想像するのだけれど、それは熟考の末なのか、それともすらすらと、こうした方がいいでしょ、という感じでモーツァルトは書いたのか、どちらなのだろう。 

モーツァルトのト短調と言えば、第40番の交響曲が有名だ。バーンスタインがハーバード大学で行った分析は本当に素晴らしい。(20171222日の日記をご覧ください http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-2a59.html)この交響曲は第3楽章を除けば、半音進行がたくさんあり(例えば第一楽章の、一度聴いたら忘れられない主題、ミ・レ・レがすでにそうだし、第2主題も)、それらは当然多くの転調を伴う。第2楽章の転調は魔法のようだ。信じられないのは、第4楽章の展開部の入り口、ユニゾンでシ・レ・ファ・ラ・シ・・・、と弾く19の音で書かれたフレーズ。主音のソ以外の全ての音(!)が使われている。モーツァルトはたまたまこう書けてしまったのか、それともそうしようと意図して書いたのか・・・。こういうことに出くわすと、以前にも引用したブコウスキーの言葉を思い出す。(20151230日の日記をご覧ください http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-9a57.html

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『・・・ひとつひとつの音を、新たなる血や意味の迸りを渇望している男のように大いに味わって楽しみ、しかもそうしたものが実際に含まれているのだ。何世紀にも何世紀にもわたる、偉大な音楽の汲めど尽きない豊かな泉に、わたしは心底驚愕させられている。ということはそんなにも多くの偉大な人たちがかつて生きていたというわけだ。そのことに関しては説明することができないが、そうした音楽を享受できたこと、感じ取れたこと、それらを糧にできたこと、そして賛美できたことは、わたしの人生に於ける実に幸運なできごとだと言える。ラジオをつけてクラシック音楽に耳を傾けることなしに、わたしはどんなものであれ決して書くことはできない。書きながらそうした音楽を聴くこと、それが常にわたしの仕事の一部となってしまっているのだ。ひょっとして、いつかそのうち、誰かが、どうしてクラシック音楽には驚嘆に値する人物のすさまじいまでのパワーが込められているのか、そのわけを教えてくれることにならないだろうか?・・・』

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