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2019年5月22日 (水)

「ペダルなしで、しかしたくさんの色彩をもって」

20年ほど前、年輩のアマチュアチェリストと、彼が親しくしていた理髪師と話をする機会があった。バッハのゴルドベルク変奏曲のことになり、当時の僕にはグレン・グールドの衝撃的なデビュー盤か、彼がスタジオにこもるようになってからの晩年の録音か、しかなかったのだけれど、その理髪師(仕事中によく音楽を聞かれていたのだと思う)は、私はグールドではなくアンドラーシュ・シフの演奏を聴きます、と言ったことを覚えている。何かひっかかりながら、その時の僕は「ふーん」と思っただけだった。

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数ヶ月前、シフの弾くバッハの平均律(前奏曲とフーガ)のCDを求めた。ずっとグールドの録音しか知らなかった。スピーカーから流れてくるシフの演奏は、まるで今そこで音楽が生まれているようにみずみずしい。
よく知られているように、前奏曲とフーガはハ長調で始まり、ハ短調、半音上がって嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調、・・・、と全ての調性を一巡りする。それが第1巻と第2巻と二回りある。シフの2011年の録音は4枚組になっていて、僕はその4枚を順繰りに聞いている。ライナー・ノーツにはシフ自身による 'Senza pedale ma con tanti colori' という文章(「ペダルなしで、しかしたくさんの色彩をもって」)もあり、このイタリア語の題から僕はチェロ組曲の、アンナ・マグダレーナ・バッハによる写本の表紙 'Suites a Violoncello Solo senza Basso composees par *. *. *. Bach Maitre de Chapelle' を思い浮かべた。( * にはイニシャルが入っているのだけれど、僕には判読不能・・・。)

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前奏曲とフーガを聞いているうち、2回に1回ある短調の時に、長調の和音で終止することがしばしばあることに気付いた。チェロ組曲、第5番のプレリュードもそう。おもしろいのは5番のチェロ組曲をバッハ自身がリュートのために編曲したト短調の組曲では(BWV995)、プレリュードは暗いまま終わる。どうしてだろう?。暗く終わっても明るく終わっても、たいした問題ではないのだろうか、それともバッハにはきちんとした理由があったのだろうか。
もう一つリュート組曲の興味深いのは、チェロ組曲にはない音がたくさん書かれていること。僕たちの知らなかった声部があり、あぁバッハはこう感じていたんだ、と思う。アンナー・ビルスマが、バッハは3曲の無伴奏ヴァイオリン・ソナタと3曲のパルティータ(チェロを弾く人間には、目もくらむような見事な4声体だ)を書いた後、チェロのための、もっと音を省略した、弾き手や聴き手の想像力を呼び起こす曲を書こうとした、とどこかで言っていたことを思い出す。そして、ソナタ形式という便利な方程式のようなものが発明される前、即興的で生命力にあふれたフレーズを、あんなにたくさんバッハが生み出したことは、驚くべきことだ。

これもビルスマが言っていたことと思うけれど、チェロ組曲の、マグダレーナ・バッハの写本の表紙にはイタリア語、フランス語、ドイツ語が混在している。そしてチェロ組曲を構成する5つの舞曲の出自は多彩だ。アルマンドはドイツを意味するフランス語、クーラントはフランスまたはイタリアが起源、サラバンドはスペイン、メヌエットとブーレ、ガヴォットはフランス、ジーグはイギリスやアイルランド。バッハの時代、隣国フランスでさえ、ましてイタリア、スペイン、イギリスは実際に行くにはとても遠いところだったと思う。どうしてバッハはこうした様々な国の言葉や舞曲を用いたのだろう。多くのことを統合しようと試みたのだろうか。

様々な作曲家の様々な曲を弾いてきた。そうした中で今もし、バッハの音楽はどういう音楽ですか?と聞かれたら僕は答えに窮する。ベートーヴェンは?という問いの方がまだ答える方法がありそうだし、時代が下るにつれ、モーツァルト、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、・・・、ずっと答えやすくなる。
子供の頃読んだパブロ・カザルスの写真集か本に、彼が毎朝ピアノでバッハの前奏曲とフーガを弾く、とあったことを覚えている。(小さかった僕は、どうしてチェロでなくピアノなの、と不満だった。)カザルスは毎朝初めて弾くようにバッハを弾いた、毎朝新しくバッハを経験していたのでは、と思う。
'Bach'はドイツ語で小川を意味する、と聞いたことがある。’小さい’とは到底思えないけれど、そして長く顧みられない時代があったようだけれど、後の西洋音楽の大きな流れの源になっていると思う。

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