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2019年7月

2019年7月28日 (日)

ブルックナーの4番

7月24,25日の都響定期演奏会はアラン・ギルバート指揮でブルックナーの交響曲第4番など。
以前知人が、この交響曲の四分音符二つと三連音符からなる主題は、手稿譜では五連符で書いてある、と教えてくれたことがある。二連と三連のリズムをはっきり分けるのではなく、五連符のように、少し曖昧に感じることが作曲者の最初の意図に近いのだろうか。でもこの二連と三連の組み合わせは、性格は違うけれど、やはり一度聞いたら忘れられない第3楽章のホルンのモチーフを構成してもいる・・・。さらに言うと、この組み合わせは3番の交響曲にすでに使われていて、でも4番の方がはるかに伸びやかに感じられる。

4番の大きな特徴は、ヴィオラの活躍だ。金管楽器のコラールとヴィオラの四分音符が絡む部分はかなり長く続く。この交響曲の最も美しい箇所の一つだと思う(チェロはその間ずっと休み)。この仕事の期間中、折りにふれてスコアを見ていた。そのヴィオラの旋律は、時として下の音域はファゴット、上はクラリネットで補うように書いてある。そのことを知って、自分の席で改めて聞いても、木管がヴィオラを補強しているようには聞こえず、金管の響きの中に、ヴィオラの弦の倍音が浮き上がるようにしか聞こえない。ファゴットもクラリネットも金管のすぐ前で吹いているので、自然にブレンドされて、直接音としては聞こえてこないのだろうか。

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そしてブルックナーと言えば何と言っても(弦楽器奏者にとって)、延々と続くトレモロだ。ただし、3番ではさほど使われておらず、本格的な使用は4番から。
新日フィルにいたとき、ハウシルトという職人肌の指揮者でブルックナーの7番を弾いた。ハウシルトはトレモロを、弦楽器奏者それぞれが違う弓のストローク、速さ、リズムで弾くよう求めた。人間は不思議なもので、隣の人と違うリズムで弾くことは難しいことがある(そうでないこともある)。トレモロのリズムが自然と同調するのはそういうことだろう、と思う。彼はあえてそうでないやり方を求めた。皆が同じようにきざむと十分にトレモロの効果が出ない、ということだ。
(ところで、職人肌と言ったら怒られるかもしれないけれど、しばらく前に放映された「N響伝説の名演」という番組の冒頭は、H.シュタインの指揮する運命だった。僕の興味はその後に放送されたガスパール・カサド(驚くほど情熱的で素晴らしいハイドンの協奏曲だった)やフルニエ、シェリングだったのだけれど、その運命が素晴らしくて耳と目を奪われた。90年代前半の収録。2019年現在、こういう熱さを僕たちは持っているだろうか。そのオーケストラの熱さを見事に引き出していたのはシュタインの、決して拍を直線的には強く出さない指揮だったと思う。あの曲はどうしてもオーケストラが硬くなるから、そこに硬い棒だとさらに両者硬くなってどうしようもなくなる。素晴らしいと思った。僕もこういう指揮で運命を弾いてみたいと思った。やわらかく、しかも音楽がこれから進む方向を見事に示していた)

20年くらい前、確かリンドベルイというフィンランドの作曲家の、同じ拍の中に様々な楽器で9連符、10連符、11連符、・・・、と異なる音価を重ねる曲を聞いたことがある。それはそれは不思議な、音のにじむような感じだった。
ブルックナーのトレモロは自然と16分音符、32分音符、・・・というように2の倍数で弾いてしまうと思う。ある程度の人数の奏者が3や5や7、11の倍数で弾いたら、どうなるのだろう。たとえピアニシモでも、ぶわっとふくらむような感じがより出るのではないだろうか。
2日目のサントリーホールでのゲネプロ、アランが冒頭のトレモロを始める前に大きく呼吸をとって、と言った。本番の舞台で音が出る前の、なんと言ったらいいのだろう、オーケストラ全体が音もなく呼吸する瞬間というのか、大きな船が静かに岸壁を離れて出航する瞬間のような、あの空気感は、もしかしてあの日の演奏会の中の白眉だったのかもしれない。

2019年7月20日 (土)

最近読んだ本から

しばらく前に2年がかりで読み終えたのは平家物語。岩波文庫版で4分冊、僕の浅い理解で、ものすごく大まかに言うと、最初の2冊は平家の世、後半2冊は流れが源氏に移っていく。最初はなかなか読み進めず、何ヶ月も中断していることもあったけれど、後半は合戦が多く、知っている地名も次々と出てきて、毎晩眠る前に少しずつ読むのが日課になった。文章に何かのリズムがあり、それが心地よい。
人の生き死に、誇り、おごり、見栄、恐れ、恩愛、別れ、出家、嘆願、ねたみ、・・・、そうした様々なことに一つ一つ心を動かされた。細部の描写と同時に、平氏から源氏へと流れが移っていく大きな動きも見えて、見事だと思った。作者不詳。琵琶法師たちがこの物語を各地で諳んじて語ったのだろうか。

昨日読み終えたのは釈宗演著「禅海一瀾講話」。図書館で借りて読み始め、この本は必ず読み返すことになる、と思い書店に行った。七百ページを越える分厚い本はどうにも持ち歩きにくく、非常に行儀が悪いのだけれど、半分あたりで分けてしまい、自分で表紙をつけた。

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どれほど理解したか、はなはだ怪しいけれど、釈宗演さんの語り口に触れているだけで十分と感じたし、ちんぷんかんぷんだった仏教書、例えば臨済録について、あぁそういうことなのかもしれない、と感じることがあった。先日のヨーロッパにもこの本を持っていき、飛行機の狭い座席に辛抱ならなくなったとき、機体後部、トイレ前のわずかなスペースに立って、読み進んだ。その時読んだ部分はとても印象的だった。

『・・・凡そ「大道」を知ろうというには須く「見性」しなければ話が出来ない。心を見るということが出来なければいかぬ。これは禅宗の本旨でありますが、世間的に言うと中々注目すべき文字でありましょう。心を知るとか、心を究むるとか、心を学ぶとかいうことは言うであろうが、「見性」というて、物質を手に乗せてアリアリと見るが如くに我が心を見るのが「見性」で、『血脈論』には「若し仏をもとめんと欲せば須く見性すべし」とある。また、「菩薩の人は眼に仏性を見る」などともある。こういうことは出来得られないと思うのは、我々が意識的に考えて居るので、モウ一層その上に出て来ると、この物質を見る如く明らかに見ることが出来る。大乗仏教の本領、禅宗の真髄はそこにある。』

今年の前半、この2つの本を読めたことは本当に素晴らしかった。得がたい経験だったと思う。
こうして古い本ばかり読むのは、まぁ僕が古くさい人間だということだろうし、それ以上に、昔の人の方が、人間というものについてよく知っていたのでは、と思うことがあるから。技術が進んだ現代、人々は自分たちついて本当によくわかっているのだろうか、現代人の心や体の使い方は本当にこれでいいのだろうか、と常々疑問に思う。スマートフォンはおろか、車も電気もなかった時代、人間と人間は生身でやりとりするしかほぼ方法がなかった時代、人々はどのように生きていたのだろう。

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少し前、書店でたまたま見つけ、それがとても幸せな出会いだったのが、V.S.ナイポール著「ミゲル・ストリート」。書いてあることは実際に起きたことなのか、それとも作者のファンタジーなのか、両方の混合なのか・・・。こんなに自由に生きていいんだ、と思った。
今読んでいるのはJ.M.シング著「アラン島」。確か読んだような気もするのだけれど。こうして始まる冒頭から素晴らしい。旅に出たくなる。

『僕はアランモアにいる。暖炉にくべた泥炭の火にあたりながら、僕の部屋の階下にあるちっぽけなパブからたちのぼってくるゲール語のざわめきに、耳を澄ませているところだ。・・・』

2019年7月13日 (土)

ペンデレツキ

少し前のことになるけれど、6月25日の都響定期演奏会はクシシュトフ・ペンデレツキの指揮で、彼のヴァイオリン協奏曲第2番とベートーヴェンの交響曲第7番など。ソリストは庄司紗矢香さんだった。

前回ペンデレツキが都響に来たのはもうずいぶん前。笑顔を見せることはあまりなく、自作のチェロソロの作品の楽譜にサインを求めると、面倒くさそうにぐぎぐぎ、と書いてくれた。左手で指揮をするので、3拍子の2拍目や、4拍子の3拍目がいつもと逆向きに手が動いたことを覚えている。簡単に言うとあまりフレンドリーではなかった。

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今年86歳。アシスタントを連れてきていて、込み入った譜割りのヴァイオリン協奏曲の、何度やってもカオスになってしまうところは、彼が振ってくれたりした。(初日に彼がざっと交通整理をしてくれていたら、ずいぶん見通しのいい演奏会になっただろう、と思う)失礼を承知で言うと、特に早いテンポの時、指揮の動きと要求されるテンポ感に開きがあり、何度か練習してわかっているつもりでも、やはり難しかった。音量のバランスの指示も時々、はて?と思うことがあった。

そのような中、はっとさせられたのは、オーケストラがただ音符を弾いているような時は、もっと弾くように強く要求することが幾度もあったのに、その奏者が生き生きと音符を弾いている時は何も言わない。心の耳で聞いている、というのか、意志を感じているというのか、五感を超えたものを人間は感じる、と思わずにいられなかった。
ヴァイオリン協奏曲には様々な箇所で、半音進行の3連符が同じパートの様々な奏者で回るように書いてある。前回弾いた弦楽合奏の曲にも同じことが書いてあったから、これは彼の重要なモチーフなのだろう。スコアで見ると単純だけれど、実際に自分がその1部分となって弾くのは、テンポも早いし、けっこう難しい。その時に誰かが落ちると(僕も練習で1回やらかした)、大変なことになる。爆発してドイツ語で罵る。こういう時、頑固爺だなと思う。

本番当日、舞台上の人間はかなり善戦したと思うけれど、それでも予定外の事は起きた。そんな状況で強く集中し続けた庄司さんは見事だった。小柄な彼女のどこにそんなエネルギーがあるのだろう。一方、アンコールで弾いた無垢なバッハは、協奏曲の対極にある素晴らしさだった。

プログラムの後半はベートーヴェンの7番。こちらは最初からほとんど何も注文がなく、3日間のリハーサルでは終楽章が終わる度、ペンデレツキは'Ole!'と叫ぶのだった。それはサントリーホールの本番の舞台でも同じだった。作曲家ペンデレツキからベートーヴェンへの敬意の現れのようにも見え、とてもチャーミングな人と感じた。指揮台に立って特別なことをする訳ではないのに、彼がいなかったらオーケストラはあのようには弾かなかっただろうし、当然あのような音楽は出てこなかっただろう、と思う。人間は不思議だ。86歳の人が舞台に立つ。多くの聴衆とオーケストラに囲まれたあの場所には、何か特別な力が働くのかもしれない。

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