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2019年12月30日 (月)

今年読んだ本から

今年も様々な本を読んだ中で、幾度も思い返すことがあったのは7月20日の日記(http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-31daf2.html)でも触れた釈宗演著「禅海一瀾講話」の中の、この部分だった。

『・・・飛騨の国あたりで、檜の版木板を造る所の人が、或る日、例に依って山の中に入って、そうしてそれを拵えようと思う中に、向こうを見ると古い年を経た杉が一本ある。その後ろに何者か居るかと思うて、眼を注いで見ると、山伏の姿をした者が一人立って居る。これが即ち世に謂う天狗というものであろう、この怪しい人間が即ち天狗であろうと、心にそう思って眺めたらば、その山伏らしい人間が声を荒らげて、「おぬしはおれを捉えて、怪しい天狗じゃと思うて居るな」、とこう云うた。それからまたその木挽が、こいつはどうも怪しい、是れはぐずぐずして居ってはいけぬ、早くこの仕事を片附けて家に帰ろうと、こう心で思うたらば、またその山伏が直ぐに、「おぬしはおれが怪しいとこう見て、早々此処を片附けて家に帰ろうと思うて居るな」とこういうて、天狗らしい奴が、こっちの心で思う通り、向こうで答えた。それから早々日も暮れるし、こんな所にぐずぐずして居ってはいけぬと思って、その版木板を片附けようとして、何か縄で括ろうとする拍子に、縄が切れて、一枚の版木板が山伏の鼻面に当たったと思うて見ると、その怪し気な人間がまたこういうことを言うた。「貴様は一向気の知れぬ奴じゃわい」、こう言うたかと思うと、その山伏の姿は掻き消すが如くに無くなった。これは或いは拵えた話であるかも知れぬが、なかなか面白い。』

人は何か意図をもって行動することが多いと思う。それはいったいどういうことなのか、とても興味深い。

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今年の後半も素晴らしい本に出会った。
養老猛司さんの著作をいくつか読んだ後で出かけた「虫展」は衝撃的だった。(2019年9月18日の日記htmlhttp://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-c697a1.html をご覧ください)
間もなく2020年になろうとする2019年に生きる我々は、素晴らしい科学技術と共に時代の最先端にいる、と思うかもしれないけれど、それは小さな一匹の虫にも及ばない、未だ人間は大腸菌すら作ることができない、と教えてもらえたことは幸せだった。
養老さんの「唯脳論」は1998年の出版、その冒頭に「現代人はいわば脳の中に住む。」という文章がある。街や電車の中で、とりつかれたようにスマートフォンの小さな画面を見続ける人がいる。養老さんはそのことを20年以上前、見事に予言していたのだと思う。交差点でも歩きながらでも、小さな画面を見続ける人たちは、家に帰ってもやはり見続けているのだろうか?確かに今、現実は見るに堪えないものになっているかもしれない。それでも携帯電話が普及する前、人々は移動する時ぼんやり外を眺めたり、誰かと話しをしていたのではなかったか。このような劇的な行動や脳の使い方の変化は、人間の感じ方や行動に、すでに変化をもたらしているのではないか、と思う。指先と視線を少し動かすだけ、それで毎日何時間も刺激を受ける。この状態が1年、5年、10年と続いた時、脳はどのように変化していくのだろう。

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猫を見ていると、常に周りの気配を感じていることに気付く。都会で暮らす人間はそうした能力をかなり失っていると思う。太陽の高さや向き、気温、湿度、風向き、風の強さ、草木の形、匂い、飛ぶ鳥たち、・・・。今月初めに三宅島を訪れた際、島の人たちが風向きのことを話していることに気付いた。残念なことに忘れてしまったけれど、二つの方向の風には名前がついていた。島の生活で風は、人や物資を運ぶ船や飛行機の運行に密接に結びついている。

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少し古い本になるけれどハロルド・ギャティ著「自然は導く」は特別な道具を用いず、周囲の自然環境から自分の位置などを知るナチュラル・ナヴィゲーションの本。もう少し自分を取り巻く様々なことに心を開こうと思った。そしてロバート・ムーア著「トレイルズ「道」と歩くことの哲学」は自然科学から文学、人生観に至る様々な分野をまたぐ本だった。何か新しい考え方のようなものがある。
分野は異なるけれど、森田真生著「数学する身体」にも何か新しいものを感じた。こうした考え方に触れると希望を感じる。数学は苦手だった、でも素直に数学って素晴らしい、と感じたし、彼のような人が中学や高校で教えたらずいぶん違うだろう、と思う。

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2018年4月13日の日記「最近の日経新聞から」(
http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-91fb.html )で触れた作曲家、望月京さんの作品を先月、演奏する機会があった。本番前、ご本人にあの新聞連載が楽しかった旨申し上げると、それらが一冊の本にまとめられたばかりと教えてくださり、さらに・・・。連載は望月さんがパリで借りた部屋の大家さんとのやりとりから始まった。この新しい本「作曲家が語る音楽と日常」もやはり、その話から始まっていて、何度読んでも楽しい。どの文章にも人間に対する共感が底にあり、そのことに僕はとても勇気づけられる。

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様々な本を読む中で、物語の魅力とは何だろう、と思う。子供の頃、話を読み聞かせてもらうことが好きだった。それは年を取っても変わらない、人間の何か深いところに根ざすものなのだろうか。
この秋の新聞書評でカナダの作家、マイケル・オンダーチェのことを知った。まず「ライオンの皮をまとって」を図書館で借りてきて読み、それから新刊の「戦火の淡き光」を読み、年越し用に「イギリス人の患者」と「名もなき人たちのテーブル」を借りてきた。読み始めた「イギリス人の患者」は「ライオンの皮をまとって」の続編であり、96年公開の映画「イングリッシュ・ペイシェント」の原作でもある。
オンダーチェの訳書は少なく、出版社も様々で、触れる機会は多くないかもしれない。知らなかった作家を知るのは素晴らしい出来事だ。本の中には経験したことのない世界が広がる。

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