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2020年1月28日 (火)

幻のように

月に2回くらい、近所にコーヒー豆を買いに行く。その小さな店で焙煎され、ガラス瓶に入れられた豆を計り売りしてもらう。瓶を開けた瞬間、はっとするような香りが立ち上がることがある。コーヒーの素晴らしさはあの香りだと思う。コーヒーを淹れることは毎日の楽しみだけれど、うっとりするような香りを飲むコーヒーに移すことはほとんどできず、幻のように消える。

家にはたくさんのCDがあって、もう置く場所がないから、できるだけ買わないようにしている。どうして買ったのかわからないものも多い。少し前、棚にグールドの弾くイギリス組曲の2枚組CDを見つけ、聞くようになった。いつこの録音を買ったのか記憶にないし、ほとんど聞いてこなかった。知らない曲をたまたま聞いているような新鮮さがある。
イタリア協奏曲のように派手でも、ゴルトベルク変奏曲のようにセンセーショナルでも、平均律のような壮大さもないけれど、いいな、と思う。グールドがとてもユニークで尖った才能の持ち主だったということを、なぜか忘れて聞いてしまう。全身全霊で弾いているのに、しみじみ聞いてしまうのは申し訳ないような気もする。
いつもは小さな音で何かをしながら聞いているのだけれど、ボリュームを上げると、あの独特な歌、というか声が聞こえてくる。彼の演奏の特徴をいくつもあげることはできると思う。でも、思わず声が出てしまうほど(きっとそういうことなのだろうと思う)音楽に没入できることは、本当に常人離れした才能だ。僕たちは結果として録音された彼のピアノの音(と声)だけを聞くのだけれど、コーヒー豆の香りを全て抽出することが不可能なように、いったい彼の中ではどんなに豊かな音楽が鳴っていたのだろう。

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ゴッホの手紙の中の言葉を思い出した。

『一番美しい絵は寝床のなかでパイプをくゆらしながら夢みて、決して実現しない画だ。』(ベルナール宛て、1888年6月の手紙から)

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