変奏曲
1月16日の都響定期演奏会のソリストはヨルゲン・ファン・ライエンで、マクミランのトロンボーン協奏曲。超絶技巧や大音量は予想できたけれど、彼の出す音には不思議な魅力があった。なんだろう。技術的にどうやって音を出しているか、ということより、彼が持っている音に対しての感覚に魅力を感じた。最初のリハーサルの後、その感覚を自分のチェロに置き換えたらどういうことになるんだろう、とこっそりさらってみた。
指揮のブラビンスはいつも穏やかで、自信に満ちていてるように見える。彼が指揮台に立っているとオーケストラが落ち着く気がする。(まっすぐ立つ、肩に力が入らない、長くしゃべらない、・・・、そうしたことは指揮者にとってものすごく大切な要件だと思うけれど、音楽大学の指揮科で教えるのかしら)
この演奏会のメインはエルガーのエニグマ変奏曲。ブラビンスはいくつかの変奏について説明してくれた。今ひとつつかみにくい曲と思っていたけれど、説明があるとぐっと近くなってくる。それぞれの変奏には特定の人物があてられていること、その中のある人の子孫と、ブラビンスは子供の頃友達だったこと、そのことがほんの2年前にわかったこと・・・。ここには書かないけれど、戯画的な描写もあるようだ。
昨年秋、立教大学のオーケストラを尾高忠明さんが指揮をした。その時のアンコールはエニグマから、有名なニムロッド。尾高さんは、エルガーの音楽では7度音程の跳躍が大切であり、しかもニムロッドでは下降型で使われていることが特徴的、という話をした。それはすとんと腑に落ちるものだった。チェロ協奏曲の第3、4楽章、感情の高まるところで何度も7度の跳躍が出てくる。ただし、こちらは上行型。
その話を思い出しながらエニグマを弾くと、そこここに7度の下降音型が見つかる。わずかな説明のおかげで、音楽がよく見通せるようだった。
今日19日は長尾洋史さんの演奏会でバッハのゴルトベルク変奏曲。何度も何度もCDを聴いた曲、でも実際に聴くのは初めてだったかもしれない。
僕の席からは長尾さんの両手が見え、耳では知っていた音楽が、左手と右手、そのように声部がわかれているんですね、ととても興味深かった。もともと鍵盤が2段ある楽器のために書かれているから、ピアノで弾くと手が交差して、という話は以前に伺っていた。弦楽三重奏にアレンジされた楽譜があり、しばしば演奏されることは知っていたけれど、確かに楽器を分けて弾いてみたくなる、と思った。
長尾さんの演奏には甘さがなく、がっしりとして、曲の構成がよく伝わってくるようだった。
それにしても、これだけのフレーズを書いたバッハの豊かさに驚かされる。チェロ組曲、ヴァイオリンの無伴奏作品、様々な協奏曲、・・・、ソナタ形式という便利なものがなかった時代に、信じられないくらいの量の、生命力にあふれたな音楽を生み出した。
長尾さんのプログラムノートから、
『ちなみに鍵盤上の困難(何しろ1段しか鍵盤がないので両手の交差はチェンバロより難しくなる)に関してはいろいろな対処法がある。ご希望があればいくらでもお教えする。
・・・私は弾き手の皆様にゴルトベルクを弾くことをおすすめする。誰に聴かせるのでもなく、聴き手は自分ひとり。音の縦の重なり、横の連なり、斜めのやりとりに耳を傾ける。そしてなんとか30の変奏を弾き通した後に、再び、、、。・・・
・・・この曲をできれば「楽譜を見ながら」聴くことをおすすめする。アリアのメロディーが耳に残る先から繰り広げられる30もの変奏の構成、書法の驚くべき綿密さ、緻密さ、見事さ、と楽譜を通して向き合うことは、それこそ難解なパズルを解くのと同じような高度な脳トレになるだろう。そして同時にそこにはまぎれもない、耳の、そして心の愉楽がある。・・・』
帰宅して夜、NHK-FMで東京都交響楽団の昨年11月の演奏会を聴いた。先週と今週の2回に分けて、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフ、チャイコフスキーのプログラムが放送された。
7時のニュースの後の音楽番組は日常的によく聞いているけれど、そこに自分の所属するオーケストラの演奏が流れるというのはちょっと不思議な感じだ。それより何より、演奏がまずいとまずいなぁ・・・、と思っていた。いろいろ反省点はあるけれど、ひとまず・・・。
ところでインバルさん、やはりいくらなんでもロメオとジュリエットや1812のテンポは速すぎはしませんか?
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