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2020年2月21日 (金)

黄色と黒の鉛筆

初日のリハーサル、軸が黄色と黒に塗られた鉛筆を持って指揮するロトさんを見て、前回もそうだったことを思い出した。
彼が都響を振った最初の演奏会の1曲目がシュトラウスのメタモルフォーゼンで、ひどく緊張したことや、次のストラヴィンスキーを指揮した演奏会も素晴らしく、終演後、また是非来て下さい、と言いに行ったことを思い出す。不思議なことに、それから4年後の演奏会もあっという間に終わり、どんな時間だったのだろうと思う。

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フランソワ=グザヴィエ・ロトさんが指揮した2月2、3日の都響演奏会の前半にはジャン=フェリ・ルベルの「四大元素」があった。原始的で野蛮でむきだしで、痛快だった。他の木管が2本ずつのところをファゴットは4本、コントラバスも通常より1本多くして、しかも下のH線をAまで下げ、ロトさんは低音の存在感を求めてきた。
ルベルは1666年生まれ、少し下の世代のバッハやヴィヴァルディ、ヘンデルとはまったく違う。ルベルが特異なのか、フランス音楽界全体がそうだったのかはわからないのだけれど。その頃、フランスと他の国との実際の距離感はどのくらいあったのだろう。
「四大元素」は僕が慣れ親しんできた定型から外れることが度々あった。冒頭の響き(強く弾く不協和音。もし20世紀の音楽ならさほど驚かない)からそうだし、ファゴットがチェロやコントラバスから独立して、ヴィオラとユニゾンで動く箇所も印象的だった。こんな楽器の使い方があるんだ、と思った。そして、ヴィオラは全11曲中5曲しか弾かない・・・。一方、ヴァイオリンはいつも以上に忙しそうだった。ロトさんの説明によると、当時の弦楽器はちょっと違うものだったらしく、今の感覚で捉えない方がよいのかもしれない。

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後半はラヴェルの「ダフニスとクロエ」。1日目のサントリーホールより、2日目の東京文化会館の方が響きが少ない分、様々な楽器に振り分けられた多様なテクスチュア、と言うのか、肌触りの異なる細かい音符が、舞台の前後左右、あちらこちらから立体的に聞こえてきて、おもしろかった。
ラヴェルの前にドビュッシーという先駆者がいたけれど、「ダフニスとクロエ」を2台ピアノのスコアから合唱の入った大編成のオーケストラに拡げていく時、彼の頭の中にはどんな色彩感があったのだろう。そしてどのくらい、自分はこれまで世界に存在していなかったものを生み出している、という確信があったのだろう。
今回使ったパート譜には僕の筆跡の書き込みがあり、でも記憶はまったくなく、不思議な気がした。2009年に演奏したそう。前回、残念なことに僕はこうした素晴らしい音符の数々を弾き飛ばしていたのだろう。
例えばPPPでチェロ以上の弦楽器が美しい旋律をユニゾンで弾くところがある。ロトさんはまずそのフレーズを強く大きな音で弾かせ、次にそれと同じ感情の強さで、とても小さな音で弾くことを求めた。なるほど。しかもそこに合唱が被さってくる。ラヴェルの見事な発想だ。
曲中にはたくさんの5や7の変拍子と、素晴らしい3拍子の旋律が出てくる。それらを弾いていて、以前よく演奏したラヴェルのピアノ三重奏を思い出した。「ダフニスとクロエ」より後に書かれたこの三重奏曲にも、多くの変拍子と、緩徐楽章の素晴らしい3拍子がある。自然倍音を多用する奏法や、ピチカートで弾く和音、終楽章で使われるトリルなど、ロトさんと「ダフニスとクロエ」を弾いた今なら、以前とは比べものにならないくらい多くの動きや色彩を感じて弾ける、と思う。バッハがチェロ組曲の少ない音符で多くのことを現したように、ラヴェルは膨大な色のパレットをピアノ三重奏に凝縮したのではないだろうか。

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ロトさんと弾いていて楽しいのは、奏者に心を大きく開いて演奏するよう求めるところだ。時々子供のようにいたずらっぽく笑う。2日目のリハーサルが始まる前、昨日出かけた渋谷のフレンチが素晴らしかった、と言ってみたり。フランス人が絶賛するフランス料理はいったい、と思わずにいられなかった。
「ダフニスとクロエ」は素晴らしい時間だった。あの黄色と黒に塗られた鉛筆は魔法を生み出す棒のように見えたけれど、少し日がたった今、彼は丁寧にスコアを読み、それを自分の方法で忠実に再現しようとしていただけだったのでは、と思ったりする。

リハーサル中ずっと鉛筆で指揮をしているのを見て、はて、この人本番はどうしていたんだっけ、と思った。本番の舞台には何も持たずに現れた。

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