椿姫
2月後半の都響は東京二期会のオペラ、椿姫。
指揮のG.サグリパンティ氏が話すイタリア語を聞いていると、そのまま歌になっていくようだった。歌うように話す。彼がそうなのか、イタリア語がそういう言葉なのか、心地よいリズムと抑揚のついた言葉を耳にすることは楽しかったし、そういう言葉で生きていることをうらやましく思った。
練習が進んで舞台稽古に字幕が入るようになると、断片的ではあるけれど歌詞のわかる時があり、なるほど、と思うことが幾度もあった。一つの言葉と一つの和音の組み合わせに始まり、ストーリー展開への音楽の合わせ方まで、全体像が見えかけてくると、勘所を押さえた書き方がしてあることがわかってくる。
ヴァイオリンで静かに始まる前奏曲は短調(オペラの結末を暗示している)、間もなく明るい旋律となり、舞台の幕が上がるといきなり賑やかな場面が現れる。見事なコントラストに、見る者はあっという間に劇中に導かれてしまう。
東京文化会館のオーケストラピットの裏側には来演した団体の落書きがたくさんあり、それを見るのはピットに入るときの楽しみだ。今回、椿姫の時のものが多いことに気が付いた。なるほど、確かに人気演目なのでしょう。
あさはかな僕は、タイトルの"La Traviata"は椿を意味するものと思っていたけれど、プログラムの解説を読んで驚いた。椿はイタリア語で"camelia"、デュマ・フィスの書いた原作(フランス語)の題は"La Dame aux camelias"、直訳すると「椿の婦人」だろうか。"La Traviata"は道を誤った女、という意味だそう。初演から大成功という訳ではなかったらしい。
ヴェルディの音楽はシンプル。2年前に弾いたワーグナーのローエングリンに比べると拍子抜けするくらいだ。
サグリパンティ氏が、この曲に3拍子が多いのは、当時のパリ(椿姫の主要な舞台)ではワルツが流行っていたから、と説明していた。幕が上がっている間、チェロとコントラバスは頭拍を刻み、ヴァイオリンやヴィオラはその間の拍を埋める、そんな時間がひたすら続く。でもそれは決して退屈ではなく、素材の良さ、素性の良さのようなものをいつも感じていた。サグリパンティ氏の指揮はその良さをよく引き出していたと思う。歌が始まった時の彼の集中は素晴らしかった。歌の世界に没入する、というのか。オーケストラに対してはあまり口を使わず、棒で示すタイプだった。
何年か前にムーティの指揮でヴェルディを弾いた時、彼が、ザルツブルク(きっと音楽祭のオーケストラのことを指していたのだと思う)ではシューベルトだと丁寧に弾くのに、ヴェルディは皆ぞんざいに弾く、と憤っていたことを思い出す。その時は、ムーティさん、お怒りはわかりますが、なぜここでシューベルトを引き合いに出すのでしょう、と思った。
今はよくわかる。シンプルな書法、自然な旋律線はこの二人に共通する美質だと思う。
パート譜には歌詞のガイドがかなり書いてあり、つい読もうとしてしまう。台詞がゆっくりな時は問題ないけれど、口が速く回る時の、サグリパンティ氏の合図の出し方が興味深かった。きっと言葉のどこかの音節をつかまえて拍を出している。
もし歌手が生まれた時からイタリア語を話していて、オーケストラのメンバーもそうだったら、歌詞とオーケストラが絡むところは絶妙な間合いでずばっと、あるいはスムースに入ったりするのだろうか、と想像した。
オペラが始まってすぐ、有名な「乾杯の歌」が出てくる。その少し前、「アルフレードはいつも貴女のことを想っていますよ」、と言われたヴィオレッタは「ご冗談を」と返す、その時"Scherzate"という言葉が耳に入ってきて、あぁなるほど、楽譜でよく見かける"scherzo"とはこんな感じなんだな、と思った。
20代の後半、毎夏トスカーナ州、シエナの夏期講習に行った。行くと受付の女の子に、イチロー、毎年来るならイタリア語を勉強しろ!、と言われ、その時はうるさいことを言う、と思っていたのだけれど、今は話せるようになる貴重な機会だったのに、と思う。信じられないくらい浅はかなことに、当時の僕は英語がわかればイタリア語もなんとかなる、くらいに思っていた。
ある日、文化会館ピット裏の落書きを見ながら、もしかしてこの中に知った名前はないのか、と思った。探してみると、シエナのマリオ・ブルネロのクラスで一緒だったイタリア人の名前が二つもあった。日付は僕が都響に入った後だから、彼らとはニアミスしていたんだろうと思う。
サラ・ナンニ。97年のクラスにいたフィレンツェ出身の小柄な女性。フィレンツェ訛り、というのだろうか、"c"を"h"のように発音して、クラスの親分格だったミラノ出身のルカのことを「ルハ!」と言っていた。あの年、クラスにサラは二人いて、もう一人は南のバーリから来た豪快なサラ・ジェンティーレ。二人とも気っ風のいい女性だった。
ウンベルト・クレリチ。チェロが上手で実に楽しい若者だった。(どうしてこの落書きは目茶苦茶な綴りなのか)当時17歳くらいだったと思う。トリノ出身、お母さんが司法関係の仕事をしていたはず。そのお母さんが僕たちのアパートを尋ねてきたとき、イタリア語の罵り言葉を口にして、この言葉はこう使うんですね、と僕は驚いた。
秋葉原の電気街に行ったことのあるウンベルトは、高額商品が店員の目の届かないところに置いてあるのは不思議、と言ったり、確かキアーラという彼女とくっついたり離れたりしていたことや、ぐでんぐでんに酔っ払って、カンポ広場にいる大人を煙に巻いていたことや、ロンドンから来たパブロス(本当にいい奴だった。ギリシアとブラジルのハーフ)が「ウンベルトン!」と呼んでいたこと、・・・、思い出し始めると終わらなくなる。
あの頃皆若かった。ブルネロが30代後半、生徒たちは彼のことをアニキのように慕い、ジャズの講習を一緒に聴きに行ったり、徹夜で遊んだりした。今や先生はすっかり風格がつき、何者でもなかった生徒たちもきっと世間にもまれ、何かをまとうようになったのだろうか。
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