« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

2020年3月

2020年3月28日 (土)

創作の秘密は

先日M君と、今年彼らはラズモフスキーの1番を演奏することになっていて、やはり難しい曲、という話しをした。僕は10年ほど前、一分の隙もなく緻密に書いてあるこの曲を、少しでも実現できるよう練習したのだけれど(できたかどうかはさておき)、本番の舞台に上がる時、こんなに緻密に書いてある曲をいったいどうやって弾くのだろう、と感じた。
今は、余計なことは考えず、ただひたすら弾けば良かったのだ、と思う。

2734ad5c860d409597a32ae722088b7c

M君と話した翌日、スコアを見ながらラズモフスキーの1番を聴いてみた。それは素晴らしくわくわくする体験だった。久しぶりに楽譜を開いても、やはり音符は緻密で、けれど曲の成り立ちのようなものは以前より見えるようだった。この何年か、ベートーヴェンのピアノソナタをよく聴き、僕の頭の中が多少組み変わったのかもしれない。
ラズモフスキーの1番を聴いて楽しかったので、翌日2番を聴いてみた。こちらは30年近く前に弾いて以来。出してきたスコアはすっかり黄ばんでいた。ただ、同じスコアのはずなのに、はるかに多くのことを示しているようだった。(あの頃、倉田先生のところにレッスンに行くとよく、トルトゥリエの指使いや弓使いが書かれた楽譜を写した。自分のスコアが黄ばんでいるのを見て、当時写した先生の使い込まれた楽譜を思い出し、そして30年近い時間の経過を思った。)断片的な記憶になっていたラズモフスキーの2番を、再びスコアを見ながら聴く、というのは実にスリリングな経験だった。ばらばらにになった土器が、全ての破片が思いがけず揃って、もう一度元の状態に戻っていくようだった。しかも古い記憶が甦っていくと同時に、新しいことが僕の中で起きている感覚があった。

ラズモフスキーの1番だけ見ても、これほどたくさんの要素が一人の人間から生み出されたことが信じられない。そしてラズモフスキーの1番と2番の間には大きな違いがある。ベートーヴェンの作品に触れる度、どの曲も、他の作曲家では考えられないほど異なっているのに、同時にどの曲も紛れもなくベートーヴェンである、という矛盾した感覚にとらわれる。ラズモフスキーの3番はもっと違う。この創作の秘密はいったい何だろう。
ラズモフスキーの3番は桐朋に入った年に弾いた。今はどうしてこういう曲になっているのか、少しわかる。あの頃は何もわからず、ただ夢中で弾いていた。それはそれで素晴らしいことだったのかもしれない。

57e5f3fbcb924e3693fab50f93bd4d0d

ラズモフスキーの1番(ヘ長調)はチェロの旋律で始まる。なかなか印象的な出だしだ。でもこの冒頭は落ち着かない。ヴィオラがラ、第2ヴァイオリンがドを八分音符で刻んでいるのだけれど、主音のファがどこにもなく、しかも旋律が内声の八分音符より低い音域で動いている。チェロが8小節弾いた後、第1ヴァイオリンが旋律を受け継いでさらに8小節弾く。その時下3声はド・ミ・ソ・シ♭の和音を刻んでいて、さらに2小節ある経過部分を過ぎると、19小節目で初めてファ・ラ・ドの和音が鳴る(!)。ハーモニーの観点から言えば、ここが曲の始まり、ということだろうか。
どうしてもチェロや第1ヴァイオリンの旋律に耳がいってしまうけれど、実は16小節までずっとドを弾く第2ヴァイオリンが曲の構造を示していると思う。19小節目に現れる主和音を強く導く属音のド。横のつながりで見ると、それは動きを生み出す八分音符であり、縦に和音で捉えると最初はラ・ドのド(ファ・ラ・ドなのかラ・ド・ミなのか、わかりにくい)、やがてド・ミ・ソ・シ♭のドになる。見事な作りだと思う。

バーンスタインがハーバード大学での講義で言ったことだけれど(2017年12月の日記をご覧下さい http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-3c62.html )、同じような構造が、マーラーの5番の交響曲にもある。

有名なアダージェットの1小節目、ヴィオラがド、それからラを伸ばし、ハープが下降するアルペジオでド・ラ・ド、そこにチェロのラが加わり、・・・。ドとラしかなく、ファ・ラ・ドなのかラ・ド・ミなのか何なのか、わからない。2小節目の後半で第1ヴァイオリンがドで始まる旋律を弾き始め(ラズモフスキーの1番の旋律の始まりもドだ)、ド・レ・ミと弾いた次の3小節目でようやくコントラバスが主音のファを弾き、あぁなるほどヘ長調ですね、とわかる。でもその1拍目でも、倚音というのか、第1ヴァイオリンはまだミにいて、2拍目でファを弾く。素晴らしい。時代が下り、書法が複雑になるとはこういうことか、と思う。

694c852a35ef4afbaace092ebb62f89a

しばらく前、やはりM君と、シューベルトはフーガを書かなかったのか、という話しになった。確かに、晩年の素晴らしいピアノ・ソナタでも、長大な「グレート」と呼ばれる交響曲でも、それぞれのフレーズは次々転調し、ディテールの細かな変化を伴って、果てしなく続くけれど、ものすごく乱暴な言い方をすれば、それ以外のところには行こうとしない、それ以上の展開はないように見える。もしシューベルトほどの人がフーガを書かなかったとしたら、それはいったいどういうことだったのだろう。

当たり前のように聴いてしまうベートーヴェンの第九には、いくつも革新的な試みがあると思う。(第2楽章について、2013年12月の日記をご覧下さい http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-b87b.html )終楽章で、メドレーのように途切れなく、いろいろな要素や様式が次々現れることもそう。後半に「二重フーガ」と呼ばれる部分がある。一方で合唱とオーケストラが二分音符と四分音符で構成されるテーマを演奏し、一方でオーケストラが八分音符の速い動きを弾く。どのような構造になっているのか、理解できていないけれど(だいたい弾くのが大変。チェロはまだともかく、コントラバスにも同じ音符が書いてある)、これは晩年のベートーヴェンが能力を全て注ぎ、渾身の力技で書いたものではないか、と思う。こんなに複雑で壮大な音楽を頭の中で鳴らすことができたなんて。

2020年3月21日 (土)

音楽の自然な流れが

学生時代、あれほど通った演奏会に行くことが本当におっくうになり、ずっと足が遠のいていた。今年は1月にイッサーリス、今月は2つの演奏会に出かけた。いずれも素晴らしい経験だった。

2957f533ccc94ba48e0d3f8dc19d1a5a

3月12と19日、オペラ・シティでのサー・アンドラーシュ・シフ、ピアノリサイタルへ。
12日の演奏会、シフさんは1曲終わるごとに立って拍手に応え、またすぐ弾き始めた。19日は、曲間の拍手を控えるようアナウンスがあり、彼は曲が終わっても、鍵盤から手を離すことはほぼ無く、演奏を続けた。音楽をすること、ピアノを弾くことがごく自然で、一度その中に入ると、いつまでもそこにいられるようだった。音楽の自然な流れがあり、彼が鍵盤に向かうと、その流れを僕たちにも見えるものにしてくれるようだった。
演奏を全身で聴いている、けれどいつもあっという間に終わっていて、もっと聴いていたかった、と思う。川の流れに手をひたすことはできる、すくおうとすると、水が手のひらからこぼれ落ちてしまう、そんな感じだった。

12日のアンコール、イタリア協奏曲の第1楽章が始まったので、ということは2と3楽章も弾きますね、と思ったらその通りになり(17日の大阪いずみホールでは「ワルトシュタイン」ソナタを全曲弾いたそう(!))、その後のベートーヴェンが素晴らしく、さらにメンデルスゾーンがあり、ブラームスの有名な間奏曲が始まった時、まさか今日聴けるとは思いませんでした、本当にありがとうございました、と思った。さらにシューベルトが演奏され、シューベルトとは今ここにいることの心地よさ、というあるピアニストの言葉を思い出し、演奏を聴いている幸福感でいっぱいになった。

19日、開演前のアナウンスで、今晩の演奏はP.シュライヤーとP.ゼルキンに捧げられる、と伝えられた。二人の素晴らしかった演奏がよみがえるようだった。
演奏会はシューマン、ブラームス、モーツァルト、・・・。曲が変わる度、確かにその作曲家の音の世界はそうですね、と感じながら聴いた。プログラム最後の「告別」ソナタの後は、ゴルトベルク変奏曲のアリア。その美しさに、大きく拍手をするのがはばかられるようだった。それからソナチネアルバムに入っているモーツァルトのハ長調のソナタ(子供のように無垢だった)、ブラームスと続き、シューマンの「楽しき農夫」は意外で、チャーミングだった。この日も最後はシューベルト。

E2b572a972f7432cbb9d46e1b8e02603

2020年3月、あふれかえる情報に接しないわけにはいかず、ますます人生が断片的になっている気がする。他方で、このような時間の流れがあり、そこに身を任せることができたのは幸せだった。
演奏会の翌朝、いつものように楽器を出してさらった。これまで本当に雑多な音ばかり出してきた、と思う。今からでも遅くない。

2020年3月11日 (水)

3.11

9年前の今日、函館の市民会館にいて長く続く揺れを経験した。
幸い数日後に帰宅でき、東京のスーパーでトイレットペーパーを抱えて右往左往する人たちを見たとき、1970年代のオイルショック時に人々がトイレットペーパーを求めて狂奔する映像がよみがえり、目の前の現実と重なって信じられない思いがした。

先週、トイレットペーパーが棚から消えた、と報道され、震災当時を思い出した。(2011年3月14日の日記をご覧下さいhttp://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-550a.html

9年しかたっていないのに、身の周りで起きたことを書き留めておくのは意味がある、と思う。

65e5eaff078e4443b1b8395efe0c4891

ウィルス感染に対する様々な対応を見て、4年前の日経新聞に掲載された記事のことを思い出した。2016年3月11日の日経新聞で組まれた「大震災から5年」という特集の中の、自衛隊統合幕僚長だった河野克俊さん(震災当時は統幕副長)の文章から、

『福島原発が危ないと最初に我々に知らせてくれたのは実は米軍だ。米軍は原子力空母を持ち、原子力に対する知識が豊富だ。当時、米原子力空母『ロナルド・レーガン』が三陸沖で活動していたが、原発周辺の情報収集にあたっていた艦載ヘリコプターが「原発事故があった」と母艦に知らせたようだ。
 私は当時のフィールド在日米軍司令官からの電話で、初めて原発から放射性物質が漏れていると聞いた。その時点では全く知らなかった。日本に多くの自国民を抱える米国は日本の原発対応にいら立っていた。日本の問題は米国の問題でもあった。』

593745a0f6b344bb8200d1168ff5f82b

休みの度に海に行く。僕がどんなにあたふた行動しても、心をどんなに乱しても、海はいつも海で、水平線は水平線のままだ。
9年前のあの日、海が近い函館駅前のホテルに戻ると、夜の7時頃、停電で暗くなった建物の1階に、黒い水が音もなく上がってきた。函館にはずいぶん遅れて津波がやって来て、東北ほどは大きくなかった。海がいつもの海ではなく、そこから巨大な嵩の水が押し寄せてくるのは、どんなに恐ろしかっただろう、と思う。

« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »