創作の秘密は
先日M君と、今年彼らはラズモフスキーの1番を演奏することになっていて、やはり難しい曲、という話しをした。僕は10年ほど前、一分の隙もなく緻密に書いてあるこの曲を、少しでも実現できるよう練習したのだけれど(できたかどうかはさておき)、本番の舞台に上がる時、こんなに緻密に書いてある曲をいったいどうやって弾くのだろう、と感じた。
今は、余計なことは考えず、ただひたすら弾けば良かったのだ、と思う。
M君と話した翌日、スコアを見ながらラズモフスキーの1番を聴いてみた。それは素晴らしくわくわくする体験だった。久しぶりに楽譜を開いても、やはり音符は緻密で、けれど曲の成り立ちのようなものは以前より見えるようだった。この何年か、ベートーヴェンのピアノソナタをよく聴き、僕の頭の中が多少組み変わったのかもしれない。
ラズモフスキーの1番を聴いて楽しかったので、翌日2番を聴いてみた。こちらは30年近く前に弾いて以来。出してきたスコアはすっかり黄ばんでいた。ただ、同じスコアのはずなのに、はるかに多くのことを示しているようだった。(あの頃、倉田先生のところにレッスンに行くとよく、トルトゥリエの指使いや弓使いが書かれた楽譜を写した。自分のスコアが黄ばんでいるのを見て、当時写した先生の使い込まれた楽譜を思い出し、そして30年近い時間の経過を思った。)断片的な記憶になっていたラズモフスキーの2番を、再びスコアを見ながら聴く、というのは実にスリリングな経験だった。ばらばらにになった土器が、全ての破片が思いがけず揃って、もう一度元の状態に戻っていくようだった。しかも古い記憶が甦っていくと同時に、新しいことが僕の中で起きている感覚があった。
ラズモフスキーの1番だけ見ても、これほどたくさんの要素が一人の人間から生み出されたことが信じられない。そしてラズモフスキーの1番と2番の間には大きな違いがある。ベートーヴェンの作品に触れる度、どの曲も、他の作曲家では考えられないほど異なっているのに、同時にどの曲も紛れもなくベートーヴェンである、という矛盾した感覚にとらわれる。ラズモフスキーの3番はもっと違う。この創作の秘密はいったい何だろう。
ラズモフスキーの3番は桐朋に入った年に弾いた。今はどうしてこういう曲になっているのか、少しわかる。あの頃は何もわからず、ただ夢中で弾いていた。それはそれで素晴らしいことだったのかもしれない。
ラズモフスキーの1番(ヘ長調)はチェロの旋律で始まる。なかなか印象的な出だしだ。でもこの冒頭は落ち着かない。ヴィオラがラ、第2ヴァイオリンがドを八分音符で刻んでいるのだけれど、主音のファがどこにもなく、しかも旋律が内声の八分音符より低い音域で動いている。チェロが8小節弾いた後、第1ヴァイオリンが旋律を受け継いでさらに8小節弾く。その時下3声はド・ミ・ソ・シ♭の和音を刻んでいて、さらに2小節ある経過部分を過ぎると、19小節目で初めてファ・ラ・ドの和音が鳴る(!)。ハーモニーの観点から言えば、ここが曲の始まり、ということだろうか。
どうしてもチェロや第1ヴァイオリンの旋律に耳がいってしまうけれど、実は16小節までずっとドを弾く第2ヴァイオリンが曲の構造を示していると思う。19小節目に現れる主和音を強く導く属音のド。横のつながりで見ると、それは動きを生み出す八分音符であり、縦に和音で捉えると最初はラ・ドのド(ファ・ラ・ドなのかラ・ド・ミなのか、わかりにくい)、やがてド・ミ・ソ・シ♭のドになる。見事な作りだと思う。
バーンスタインがハーバード大学での講義で言ったことだけれど(2017年12月の日記をご覧下さい http://ichirocello.cocolog-nif
有名なアダージェットの1小節目、ヴィオラがド、それからラを伸ばし、ハープが下降するアルペジオでド・ラ・ド、そこにチェロのラが加わり、・・・。ドとラしかなく、ファ・ラ・ドなのかラ・ド・ミなのか何なのか、わからない。2小節目の後半で第1ヴァイオリンがドで始まる旋律を弾き始め(ラズモフスキーの1番の旋律の始まりもドだ)、ド・レ・ミと弾いた次の3小節目でようやくコントラバスが主音のファを弾き、あぁなるほどヘ長調ですね、とわかる。でもその1拍目でも、倚音というのか、第1ヴァイオリンはまだミにいて、2拍目でファを弾く。素晴らしい。時代が下り、書法が複雑になるとはこういうことか、と思う。
しばらく前、やはりM君と、シューベルトはフーガを書かなかったのか、という話しになった。確かに、晩年の素晴らしいピアノ・ソナタでも、長大な「グレート」と呼ばれる交響曲でも、それぞれのフレーズは次々転調し、ディテールの細かな変化を伴って、果てしなく続くけれど、ものすごく乱暴な言い方をすれば、それ以外のところには行こうとしない、それ以上の展開はないように見える。もしシューベルトほどの人がフーガを書かなかったとしたら、それはいったいどういうことだったのだろう。
当たり前のように聴いてしまうベートーヴェンの第九には、いくつも革新的な試みがあると思う。(第2楽章について、2013年12月の日記をご覧下さい http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-b87b.html )終楽章で、メドレーのように途切れなく、いろいろな要素や様式が次々現れることもそう。後半に「二重フーガ」と呼ばれる部分がある。一方で合唱とオーケストラが二分音符と四分音符で構成されるテーマを演奏し、一方でオーケストラが八分音符の速い動きを弾く。どのような構造になっているのか、理解できていないけれど(だいたい弾くのが大変。チェロはまだともかく、コントラバスにも同じ音符が書いてある)、これは晩年のベートーヴェンが能力を全て注ぎ、渾身の力技で書いたものではないか、と思う。こんなに複雑で壮大な音楽を頭の中で鳴らすことができたなんて。
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