3.11
9年前の今日、函館の市民会館にいて長く続く揺れを経験した。
幸い数日後に帰宅でき、東京のスーパーでトイレットペーパーを抱えて右往左往する人たちを見たとき、1970年代のオイルショック時に人々がトイレットペーパーを求めて狂奔する映像がよみがえり、目の前の現実と重なって信じられない思いがした。
先週、トイレットペーパーが棚から消えた、と報道され、震災当時を思い出した。(2011年3月14日の日記をご覧下さいhttp://ichirocello.cocolog-nif
9年しかたっていないのに、身の周りで起きたことを書き留めておくのは意味がある、と思う。
ウィルス感染に対する様々な対応を見て、4年前の日経新聞に掲載された記事のことを思い出した。2016年3月11日の日経新聞で組まれた「大震災から5年」という特集の中の、自衛隊統合幕僚長だった河野克俊さん(震災当時は統幕副長)の文章から、
『福島原発が危ないと最初に我々に知らせてくれたのは実は米軍だ。米軍は原子力空母を持ち、原子力に対する知識が豊富だ。当時、米原子力空母『ロナルド・レーガン』が三陸沖で活動していたが、原発周辺の情報収集にあたっていた艦載ヘリコプターが「原発事故があった」と母艦に知らせたようだ。
私は当時のフィールド在日米軍司令官からの電話で、初めて原発から放射性物質が漏れていると聞いた。その時点では全く知らなかった。日本に多くの自国民を抱える米国は日本の原発対応にいら立っていた。日本の問題は米国の問題でもあった。』
休みの度に海に行く。僕がどんなにあたふた行動しても、心をどんなに乱しても、海はいつも海で、水平線は水平線のままだ。
9年前のあの日、海が近い函館駅前のホテルに戻ると、夜の7時頃、停電で暗くなった建物の1階に、黒い水が音もなく上がってきた。函館にはずいぶん遅れて津波がやって来て、東北ほどは大きくなかった。海がいつもの海ではなく、そこから巨大な嵩の水が押し寄せてくるのは、どんなに恐ろしかっただろう、と思う。
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