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2020年6月10日 (水)

「心の中に」

この日記も意外と長くなり、忘れている記事は多い。確かある画家が別の画家のことを書いた文章があったはず、と探したら9年前のことだった。心にふれるものがあって書き留めたのだけれど、その時はそれが何かわからなかった。
2011年2月の日記、日経新聞で安野光雅さんが佐藤忠良さんについて書いた文章から、

『何という光栄だろう。彼が直接に絵を描くところを初心者の目で見たのである。当然だが、ほかの誰もが描く方法と少しも違わない。外見に違いはない。まねのできない心の中にどうすることもできない違いがあると思えた。』

当時僕の日記を読んでくださったOさんが、この文章に言及したことは覚えていた。引用した僕自身はよくわかっていなかったのだけれど、今、本当にそうですね、と思う。人の心の中に入ることはできない。でも、こうして書かれた文章からほんの少しだけ、うかがうことはできる。それはとても貴重な経験だと思う。

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以前の日記を見返していたらピアニスト、舘野泉さんの文章を何度か引用していることに気付いた。こんな文章があった。2010年4月の日記から、

『・・・私の日常も、ピアノを弾くのは別段何かをしているということでもなくて、金太郎飴のように何処で切ってもいいし、どこから始めてもよいのかもしれない。・・・一日何時間弾かなければならないし、しばらく弾かないでいると感覚が鈍くなるというものでもない。いつでも、どんな時でも弾ける。ただ、しかし、楽器に触れた途端になにか実態のあるものに触れ、自分が確かに生きているという自覚を覚え、頭が冴え冴えと澄んでくるのも事実である。・・・
私は、ピアニストというのは手職人だと思っている。若いときからずっとそうだった。音楽を手で触るという感覚は面白い。手で音を撫で、愛しみ、大事にしていくのだ。・・・作曲家の生涯だとか作品の構成とか歴史といったものに興味を持ったり考えたりしたことはない。あるのは作品だけ、その音だけである。・・・
手職人、・・・という言葉が私は好きである。海に網を投げる漁師も好きだ。作品との対峙、対決をし、自分の個性を主張する行き方は好きではない。作品を通して無名性にいたることこそが望みだ。』

この文章を引用した10年前の僕は何を感じていたのだろうか。10年経って、近くが見えにくくなったり、若くはないんだな、と感じることはある。けれど、年を取ることは決して悪くない。
図書館が再開して、舘野さんの本を借りてきた。「舘野泉の生きる力」(六耀社)から、

『僕はステージに出て行く直前、何も考えない。ステージに出たら、そのとき世界が変わるのだ。ポンと音をたたくだけで、即座に新しい世界に飛び込める。
一曲目が終わり、二曲目に移れば、また全然違う世界が開ける。それはあたかも俳優が、まったく異なる登場人物を演じるとき、前のキャラクターを引きずらないのに似ている。違う色、違う心象になって、その前の気持ちはもう全部消えている。次の曲に入る前にひと呼吸置くとか、そういう間合いもあまり考えない。とにかく、一音弾けば、僕はそれで次の世界に入ってしまう。次のステップにパッと飛んで行けるのだ。
 ・・・・・
そして、弾き終わればまたすべてを忘れる。「今のはよかった!今度も同じように弾こう」と過去に固執することもないし、「あの曲を弾いた!」という感動に浸ったり、そうした感動の中で弾いたりすることもない。』

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