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2020年9月18日 (金)

ベートーヴェンの3番

9月16日の都響公演、プログラムのメインはベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。
今年7月に新鮮な気持ちでベートーヴェンの1,2番を弾いた。そして今月、これまで幾度も弾き、オーケストラのレパートリーの重要な所に位置する「英雄」を、やはり初めて弾くような気持ちで弾いた。素晴らしい時間だった。

他の多くのベートーヴェン作品のように、「英雄」の始まり方も個性的だと思う。主和音が2度、強く打ち出されてから、第2ヴァイオリンとヴィオラの八分音符に乗ってチェロの旋律が始まる。

旋律が7小節目でド♯に行くことを、以前アラン・ギルバートは特別なこと、と言い、今回の大野和士さんもレからド♯に移る時を、と言った。本当に素晴らしい瞬間だと思う。変ホ長調の安定した響きの中に、一瞬翳りのようなものが見える。でも、まるでそんなことはなかったかのように、すぐに元の世界に戻る。

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作品61のヴァイオリン協奏曲ではティンパニの4つの音の後に、オーボエの旋律が続く。この冒頭は、主和音を2つ鳴らす「英雄」の経験の後に書かれたのだろうか。そして、ラズモフスキー第1番(作品59の1)の冒頭でも、第2ヴァイオリンとヴィオラの八分音符にチェロの旋律が乗る。(和声の構造や、旋律で始まる、という違いはある)
ラズモフスキーとの関連で言うと、「英雄」終楽章の404小節からの弦楽器のリズムは、ラズモフスキーの1番の、やはり終楽章に出てくるものとほとんど同じ。弦楽四重奏の方がテンポも速く、ずっと難しいけれど。

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「英雄」の第1、3楽章は3拍子。この二つの楽章を弾いていると、3拍子のリズムの豊かさ、躍動感に充たされる。
今回スコアを見ていておもしろいと思ったのは、第1楽章の124小節からの四分音符。半ば習慣のように、2拍目より3拍目を弱く弾く。でもその弱く弾く3拍目にはトランペットとティンパニ、という強い音の楽器が入り、しかも入り方が不規則・・・。興味深いことに、再現部ではその二つの楽器は2、3拍どちらも演奏する。でも入り方はやはり不規則に見える・・・。

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「英雄」のティンパニの使い方は素晴らしいと思う。特に終楽章のクライマックス、短い3連符のアウフタクトは大好きだ。

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2番の交響曲と比べた「英雄」の特徴は、スムースに旋律が運ばれていくことだと思う。そして、その理由を僕の身の周りで探してみると、チェロとコントラバスの働きが分化し始めていることではないか、と思う。例えば第1楽章の展開部、284小節からのフレーズでは、チェロは倍音の乗りやすい音域でオーボエを支え、コントラバスは変わらずバスパートを弾いている。

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コントラバスの動きで言うと、第2楽章の冒頭は当時、どのくらい斬新だったのだろう。2020年の今でも、僕には斬新に響く。

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木管楽器と弦楽器の音域を考えた時、クラリネットはヴィオラに、ファゴットはチェロに対応すると思う。でも「英雄」の終楽章、373小節からのフレーズではクラリネットの6連符はチェロとユニゾン、ヴィオラはコントラバスとユニゾンで動く。作曲者はこの楽器の組み合わせにどんな色彩感を持っていたのだろう。

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また、第3楽章の144小節からはファゴットとヴィオラがユニゾンで、少し軽い音域のバスパートを受け持つ。ここの感じは絶妙だと思う。

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終楽章の328小節からしばらく、チェロとコントラバスが16分音符でシ♭・ラ・シ♭・ラ・・・、と引き続ける。僕は7番の交響曲の終楽章でチェロとコントラバスがミ・レ♯・ミ・レ♯・・・、とやはり半音で弾き続ける箇所を連想する。

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16日の演奏会の前半は、やはりベートーヴェンの三重協奏曲。作品56のこの協奏曲は、短くて美しい第2楽章からアタッカでロンド形式の終楽章に入る。この書き方は作品61のヴァイオリン協奏曲と同じ。

前述のように、ヴァイオリン協奏曲はティンパニの4つの音で始まり、長大な第1楽章の間、4つの音の動機は陰になり日向になり、様々な楽器によって現れる。見事な書法だと思う。この書法をさらに推し進め、同じ動機を全曲を通して使ったのが、作品67の交響曲第5番ではないか、と思う。

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ずいぶん長いこと、ぼんやりと音楽に接してきた。それでも少しずつ、目や耳や心が開き始めると、その度にこうした音楽を作ってきた人たちのすごさに圧倒されるばかりだ。

この日記ですでに引用したのだけれど、チャールズ・ブコウスキーがこんな文章を書いている。(2015年12月の日記です。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-9a57.html)

『・・・クラシック音楽がわたしの拠点だった。そのほとんどをわたしはラジオで聴き、今も聴いている。そして今の今でさえ、力強くて、新鮮で、これまで耳にしたことのない音楽を聴くたびに、変わることなく驚かされている。・・・何世紀にも何世紀にもわたる、偉大な音楽の汲めど尽きない豊かな泉に、わたしは心底驚愕させられている。ということはそんなにも多くの偉大な人たちがかつて生きていたというわけだ。・・・ひょっとして、いつかそのうち、誰かが、どうしてクラシック音楽には驚嘆に値する人物のすさまじいまでのパワーが込められているのか、そのわけを教えてくれることにならないだろうか。・・・』

音楽に接していて、とうてい自分と同じ人間が書いたとは思えないことが、度々ある。でも最近、作曲家の大きさに圧倒される思いから、時々自由になることが、と思うようになった。同じように、多くのエネルギーを注いできた音楽やチェロから自由であることも、きっと大切だと思う。

限りない畏敬の念を抱くこと、心からの愛情とエネルギーを注ぐこと、そしてとらわれないこと。そうしたことがほんの少しでも実現できたら、もしかして良い演奏に近づけるのかもしれない。

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