変わること変わらないこと
ラーセンのIl Cannoneという弦、素晴らしかったのだけれど、元の組み合わせに戻したら、という誘惑は断ち難く、2カ月ほどでヤーガーとスピロコアに戻した。
楽器を締め付けていた感じはなくなり、予想していたより開放的な音になった。同時に金属的な音も戻ってきて、それはまるで、しばらく会っていなかった家族に久しぶりに会い、あぁこんなだった、とこれまで以上にその人のことをわかるような感じだった。
ゆらぎの少ないIl Cannoneの音程感は、経験したことのないものだった。ヤーガーやスピロコアにその特性はなく、弾き方で微妙に変化する音程や音質を常に追いかけていく必要があると思う。僕はシャフランの演奏が好き。誰にも真似できそうにない彼の音色や音程感は、張力の高くない弦を巧みにコントロールした賜物ではないか、と思う。
改めて弾くヤーガーは、弓を返す時や左手がシフトする時、両方同時の時はさらに、硬い雑音が出やすいことを感じた。
昔からある弦の素晴らしさが発揮されるスイートスポットはそれほど広くなく、きっと使いこなしが重要だ。ラーセンはその点穏やかで使いやすい。どちらが良いのか、結論はない。
昨年夏、都内の楽器店が古い弦のストックを安価に販売していることを、親切な同僚が教えてくれた。お店としては古い在庫に価値はなく、処分したかったのだろうか。
真鍮で作るシンバルは、製造直後より1年寝かせた方が倍音の成分が伸びるというTV番組を見て以来、木だけでなく、金属の経年変化にも興味を持つようになった。迷いなく、僕は古いパッケージのスピロコアを求めた。
それにしても、いつの間にパッケージが変わったのだろう。以前にも10年以上ストックしてあったスピロコアを使って問題はなく、今回の弦もとても良い。
ヤーガーやスピロコア、中学生の頃から使っているこうした弦が今も変わらず生産されていることは有り難い。もちろん時代と共に小さな変化はあるかもしれない。でも様々迷った後に、以前の場所に戻れることは素晴らしい。
20年以上使っている万年筆を洗っている時に、うっかり軸を木の床に落とした。軽い音がして、驚くほどあっけなく軸が割れた。長く使ってきたから、樹脂が劣化して割れやすくなっていたのだろうか。気にも留めていなかったのだけれど、この万年筆、使ったり使わなかったりの長い歳月の間、一度もインクのトラブルがなかった。
幸いペン先は無事で、修理に出した万年筆は、感染の影響で工場の操業や物流が滞っていて数ヶ月かかり、戻ってきた。
変化の激しい時代に、変わらないことの素晴らしさを感じる。
今年1月に指揮のエリアフ・インバルが来日し、変わらず力にあふれた姿だった。年を取ることの手本のような人だと思った。舞台で聴衆に応える彼を見て、80代で満面の笑みができることは本当に素晴らしいと思った。
いつの間にか、所属するオーケストラでも自分より若い楽員が増えた。今でもオーケストラ初心者のような感覚で、音楽は謎ばかり。
50歳になり、これから10年どう生きていくのが良いのか、年を取るとは、若いとはどういうことなのか、時々考える。職業音楽家の難しさは、好きで、やりたくて入った道なのに、それが仕事となってしまうことだ。好きなことにはどれだけエネルギーを費やしても苦にならない。一方、仕事は最小限の労力で最大の効果を得ようとする。
できるだけ効率よく仕事をしようとする。譜読みは気の重い面倒な作業になり、はかどらない時は自分の能力の無さにいらいらし、スコアを見るのは要所だけ、リハーサルが1分でも長くなることは苦痛で、曲の演奏時間を気にし、・・・。そういうことを止めにした。
限られた資源しかなく、大したことはできないかもしれないけれど、その時自分にできる最大のことをしたいと思う。
何かに慣れる、ということは、重要なこととそうでないことが見分けられるようになり、要領よくできるようになる、ということだと思う。自分なりの方法や手順を確立して、それに則っていたら仕事はそこそこできる。
でも、何かが確立してしまうのはつまらないな、と思うようになった。ある優れた音楽家が、演奏は、自分のしていることが本当にそれで良いのか、いつも検証しながら弾くっていうことだろ、と言ったことを思い出す。
大学オーケストラ(音楽専攻ではない)と、とても若い人を教えている。僕の方が彼ら彼女たちより経験を積んでいることは間違いない。でももしかして、若い人たちの方が良い感覚を持っていたり、良い弾き方をしているかもしれない、と思って接している。自負や経験は脇に置き、何が良いやり方なのか、最善の方法は何か、冷静に見る必要があると思う。
子供の頃は興味のない勉強や好きでもないたくさんのことを、あれこれしなくてはならなかった。年を取ってくると、基本的には自分の気の進むことしか、しなくなっている気がする。いろいろなことが新鮮さを失い面倒になり、人間は楽な方に流れる。
それらを頭の中で起こっていることとして捉えた時、いったいどういうことが起きているのだろうか。面倒と感じることに秘密があるのではないか、と思う。
オーケストラの仕事では、自分が全体の中でどのような働きをしたらよいのか、把握していることが大切だと思う。チェロは比較的重要な役割を担うことが多いけれど、主導権を持つことはあまりなく、全体の中でタイミングを見つけたり、他の重要なパートに道を譲ったりすることが多い。
自分が中心になって物事を決めていくことより、変化していく状況の中で最適な着地点を導き出したり、誰かに譲ったり、誰かと誰かの橋渡しをしたり、支えにまわったり、そうしたことがスムースにできることが素晴らしいと思うようになった。混雑する駅で他の人に順番をゆずったり、誰かの話に耳を傾けることは、自分のことを主張してばかりいるより、エネルギーが要るのではないだろうか。
オーケストラに来るソリストには、ひたすら我が道を行く人も、オーケストラと一緒に音楽を作ろうとする人もいる。
前者のタイプは今あまり多くなく、もちろんオーケストラとしては後者が嬉しい。多くの楽器があるオーケストラと複雑なアンサンブルを構成しながら、自分の音楽を実現していくことは、高度な能力が必要で、奏者の負担は大きい。だからもしかして、客席で聞き映えするのはオーケストラを気にせず弾く人かもしれない。そのあたりはおもしろいところだと思う。でもせっかく後ろにオーケストラがいるのだから、その流れにうまく乗れたら、はるかに説得力のある演奏になると思う。
年齢を重ねても、みずみずしい音楽をしていたい。いつもはできないかもしれないけれど、少しだけ間口を広くして、自分の心を柔軟なものにしておくことが、と思う。
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