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2021年8月26日 (木)

心の何かを

8月初めのオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、月末のサイトウキネン(Aプログラム)が中止になった。気が抜けて、ぼんやりしそうだった。感染が広がって2年目の夏、このような厳しい状況になることは想像できなかった。

ワクチン接種が先行した外国の報道を見て、この秋、日本で接種が進んでも、残念ながら状況が劇的に好転することはない気がする。なかなか先が見えない中、どのように生き、行動することが良いのだろうか。

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表に出ることはあまりないけれど、都響の主要な公演の一つは学校向けの音楽教室で、かなりの数があった。
感染が広がってから、多くがキャンセルになっている。中には実現できたり、あるいは小編成の弦楽四重奏などで直接学校に出向くこともあった(それは親密で、素敵な時間だった)。
都心のコンサートホールでの演奏会に来て下さる方は、クラシック音楽を愛していて、すでに多くの演奏会を聴いている方がほとんどと思う。全人口のうちのおそらく数パーセント、限られた人たちが繰り返し演奏会に来て下さっていると思う。その日思いついて、あるいはたまたまふらりと演奏会に来る人は、かなり少ないのではないか。

学校向けの公演は、ほぼ全ての聴衆が初めてオーケストラを聴く得難い場だった、と今になって思い至る。都響のスタッフの中にも、教えている大学オーケストラの中にも、音楽教室を聴きました、という人がいる。一方で、その音楽教室が生涯で唯一、オーケストラを聴いた経験になる人もいるかもしれない。
今、演奏会だけでなく、様々な人の、様々な機会が失われていると思う。何年か経ったとき、その影響の大きさが思いもしない形で現れるかもしれない。

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困難な状況でも音楽は必要ですか、と問われたら、必要です、と僕は答える。言葉ではうまく表現できないけれど、音楽は心の何かを動かす。それはとても大切なことだと思う。

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マーラーの交響曲第9番を聴いている。
家にはバーンスタインがベルリンフィルを指揮したライヴ録音のCDがある。そのライナーノーツに、バーンスタインが1967年に書いた文章が載っていた。

『・・・アウシュビッツのガス室、ベトナムのジャングルでのすさまじい爆撃、ハンガリー、スエズ運河、ピッグス湾・・・ブラック・パワー、紅衛兵、アラブによるイスラエル包囲、マッカーシズム、相も変わらぬ軍備競争 - これらすべての末に、ようやく私たちはマーラーの音楽に耳を傾け、そこにすべてが予言されていたことを理解し得たのである。そして、予言を通してマーラーの音楽は世界中に美の雨を降らせたが、その後も世界が平等になることはなかった』

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何かの曲を何のあてもなく聴き続けることは久しぶりで、当時ほど熱狂的ではないけれど、高校生の時、ブラームスの2番のピアノ協奏曲をカセットテープのウォークマンでよく聴いていたことを思い出した。
マーラーの1番の交響曲「巨人」は、一つの音に支配されるセクションが長く続くことが特徴的だと思う(例えば冒頭から60小節、ラの音が持続する)。9番はずっと断片的で、様々なリズムが混ざり合い、モチーフが重なり合い、どうしてこのような和声進行を、このような音楽の運びを彼は選んだのだろう、と感じるところがたくさんある。
先日、バースタインが1970年代にウィーンフィルを指揮したマーラー5番の映像を見た。迷うことなく的確に素早く、オーケストラが進むべき方向を指し示すバーンスタインの姿は印象的だった。彼が79年にベルリンフィルを振った9番は、熱く、ほとばしる何かがあり、特に終楽章では声や、おそらく指揮台を踏み鳴らす音が入っていて驚く。

今は分析せず、ただ音楽を聴こう。

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