マイスタージンガーについてのメモ
ワーグナーのオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」によく使われる付点音符のリズムは、ニュルンベルクの街並み、尖った屋根の連なりを現している、とリヒャルト・ワーグナーの孫ウォルフガングから若杉弘さんが聞き、そのことを若杉さんから聞いた矢部達哉さんが、さらに僕たちにも教えてくださった。
もともと昨年6月に予定されていた東京文化会館でのマイスタージンガーは、今年に延期され、1カ月近いリハーサルを経て、後は最後の通し稽古と本番、というところで中止になった。ようやく体と頭が長大な作品にフィットし始めたところだった。その感覚を忘れないよう、いくつかのことを思い出してみる。
演奏時間4時間半を超えるマイスタージンガーを、始まったらもう終わっている、そういう感じで弾けるようになりたいと思った。
譜読みを始める前にスコアを開き、歌、弦楽器、管楽器など着目するセクションを決めて、何度も演奏を聴いた。ずいぶんわかったつもりでチェロのパート譜を読み始めたら、まったく頭に入っておらず、能力の無さに驚くばかりだった。
それなりに長く仕事をしてきたつもりだったけれど、経験のない音符の連続だった。どういうことだったのだろう。
音の並びが予想外だった。読み間違いの多さに呆れるばかりだった。同じ音型が続いて以下同じ、ということがほとんどない。どんな細部も熟慮され推敲され、徹底的に書き込まれている。同じモチーフが出てきても、その度にリズムや音の並びが異なり、いつも細心の注意を必要とする。偏執狂的な情熱すら感じるほどで、彼がここまで書き込んだことは、後の作曲家、マーラーやR.シュトラウスに大きな影響を与えただろうと思う。
譜読みは大変だけれど、同じ形があまりないように見えるから、5時間近くオーケストラピットに入っていても、飽きにくいのかもしれない。
進行は目まぐるしく、一つのセクションが終わる前に、どのように次につながるのか、体に入っていないと間に合わない感じだった。マイスタージンガーを旅に例えると、長い旅路は複雑な旅程からなり、いくつもの分岐、いくつもの乗り換え、いくつもの出会いがあり、その場所では何かが起きるのだけれど、その時その場に行ってみないと何が起きるのかわからない。いつも心を開いて、考えずに体が動くように、できるだけスムースに物事が運ぶように。
音楽が体に入り始めてから、歌詞の対訳を見ながら演奏を聴いた時、まったく違う世界が立ち上がって驚いた。このストーリー、この歌詞に、音楽はそのように絡んでいたなんて。歌詞の中のいくつかの音節の長さは自由に伸び縮みしている。複雑に書かれた音楽の上で、このように自在に言葉を操る魔法があるのだろうか。
チェロはバスパートだったり、旋律だったり、対旋律だったり、和声だったり、八面六臂の活躍をする。例えば第1幕第3場はヘ長調の低い音域でずっと弾き続けるのだけれど、もしかして僕たちは一番長く弾いているパートだろうか、と最初に感じるところだ(ベートーヴェンの田園をひたすら弾き続けるような感じ)。チェロのパート譜が一番多いに違いない、と思ったらヴィオラの87ページが最大だった。同僚の黙々とした素晴らしい仕事ぶりに頭が下がるばかりだった。(チェロは79ページ)
第1幕の最後、誰がどう歌い、何が大切なパートなのかわからなくなるくらい歌が重なりあった後、オーケストラが残る。転調の後、急に静かになりオーボエのソロが際だった後、息もつかせない感じで終わる。ここのオンビートとオフビートの使い方は見事で、ワーグナーさんさすがですね、と言いたくなる。
終わり方で言うと、第2幕に2カ所、アーメン終止があって美しい。夜警の歌詞に"Lobet Gott,den Herrn"とあるからだと思う。1回目は夜の10時を、2回目は11時を告げる。
夜警が10時を告げた後(第2幕第6場)、ハンス・ザックスが「イェールーム、ハラハロヘ、オーホー、トラララーイ」と不思議な歌詞を、ベックメッサーをさえぎるように何度も歌う。その不思議な言葉の最後"O he"はソ♭に降り、少し前から鳴っていたチェロとコントラバスのファと強くぶつかる。器楽では当たり前のことかもしれないけれど、歌でもこういう音のぶつけ方をすることがとても新鮮で、好きなところの一つ。
マイスタージンガーの重要な役の1人に書記ベックメッサーがいる。彼が登場するときはオーケストラに滑稽な音符が書かれ、冗談というのか意地悪というのか、ワーグナーの筆が冴え渡る感じがする。(弾くのは易しくない。)
ベックメッサーがリュートを弾きながら歌う場面、旋律はシンプルなのだけれど、それに絡むチェロとヴィオラの断片は、ワーグナーさん、よくも書いてくれましたね、という感じで、僕たちの緊張感は高くなる。
ハンス・ザックスに邪魔されながらベックメッサーは歌い続け、さらに楽器が増えて、クラリネット、ファゴット、ホルン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス(どちらかと言うと、地味な楽器ばかりだ。この間、いつもは忙しいヴァイオリンの人たちは暇そうにしている、ようにみえる。)が絡む。この滑稽味あふれる部分だけ取り出して聴いたら、かなりおもしろいだろうな、と思う。
ベックメッサーの歌の後、大騒ぎとなり、それが落ち着くと再び夜警が登場して11時を告げ、2幕は間もなく終わる。
最後にファゴットが、ベックメッサーが何度も歌った旋律を回想するように吹くのだけれど、この見事な楽器の使い方を、R.シュトラウスが若いカール・ベームに、まさにファゴットでしかできない表現、と言った、と大野和士さんがリハーサル中に教えて下さった。
その話を聞いて、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第1楽章の終わりの、ファゴットの見事な使い方を思い出した。(写真は長哲也君)
第3幕の前奏曲は素晴らしい。それまで多くの歌や楽器の音が重ねられてきたのに、伴奏のないチェロの旋律だけで始まる、こうしたコントラストのつけ方は見事だと思う。その旋律が他の弦楽器に受け継がれ、声部が重なっていき、ホルンとファゴットの広がりのあるト長調の音楽につながり、突然強い感情のフレーズが現れる。わずか数分の前奏曲の中で様々なドラマを経験する、それは第2幕の軽さや騒ぎから一転して、親方ハンス・ザックスの内省を予感させるようだ。
マイスタージンガーは全音階を使って多くが書いてある。ドレミファソ・・・、がたくさん出てきて、当たり前のようだけれど、第3幕第2場で半音進行が特徴的な「トリスタンとイゾルデ」からの引用が現れると、あぁそうだった、と思う。
長大な作品を、ある書法をあまり使わず、一つの書法で書くのは、よほど力がないと難しいのではないだろうか。長編小説を、一人称(「私」とか「僕」)を使わないで書く、と決めるように。
「トリスタンとイゾルデ」も是非弾いてみたいと思う。
第3幕の後半、第5場に、7小節フレーズで100小節以上踊りの場面がある。7小節フレーズがこれほど続く音楽は知らない。西洋音楽の基本は4+4の8小節と思うけれど、ワーグナーはそれを崩したかったんだろうと想像する。
聴き手は7小節を意識しなくても、何となく落ち着かず、劇が早く進むように感じるかもしれない。7小節フレーズを繰り返すことは面倒なことだっただろうと思う。このオペラは手間を惜しむ姿勢がまったく感じられない。
電気の無い時代、緻密で膨大なスコアを全て手で書いた人がいたことは、本当に驚くべき事だ。
歌詞もワーグナーが書いている。Sさんが教えてくれたのは、言葉がしばしば脚韻を踏んでいること。そう言われてスコアを見て、目からうろこが落ちるようだった。
第3幕で騎士ワルターの歌を、ハンス・ザックスの歌と勘違いしたベックメッサーが頓珍漢に歌うところがある。言葉遊びというか、言葉の言い間違いをうまく使って、おもしろおかしく書いてあるのだろう、と想像する。ドイツ語に堪能な人にはどのように聞こえるのだろう。
オーケストラピットに入っている我々は楽譜を見て弾く。舞台の上の歌手は、プロンプターが助けてくれるとしても、決してメロディックとは言えない歌をどう覚えるのだろう、と不思議に思っていた。
歌手の中に同級生がいて彼が、主要な役は2年がかりで準備すること(カバーキャストも含めて)、ある重要な役の人はリハーサルの時からすでに楽譜を持たずに歌っていること、を教えてくれた。
1カ月のリハーサルの間に自分も少しずつオペラにフィットしていくことがわかった。目の前の音符を追うことに必死だったのが、進行が体に入り、聴くべきパートに自然と耳がいくようになり、歌をいつも追えるようになり、・・・。処理しきれない音符で散らかっていた頭の中がだんだん片付き、全体を少し遠くから眺められるようになり、落ち着いていられるようになった。自分が少し広くなった気がした。
書いても書き切れない壮大な世界が、1人の人間から生まれたことに驚くばかりだ。世の中にワグネリアンと呼ばれる熱狂的なファンがいて、バイロイト音楽祭が開かれることが理解できるようになった。素晴らしい経験だった。
今は11月に予定されている新国立劇場での公演が予定通り行われることを願うばかりです。
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