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2021年12月22日 (水)

ショスタコーヴィチの5番

一昨日の都響定期演奏会(大野和士さんの指揮で、ショスタコーヴィチの交響曲第5番など)、サントリーホールの舞台に上がると、客席をほとんど埋め尽くす聴衆が目に入ってきた。感染が広がって間もなく2年、久しく見ていなかった光景だった。演奏の後、熱心に聴いて下さった方々からの長く続く拍手は、本当に有り難かった。
今年、入場者数の本当に少ない公演があった。プログラムや演奏をふり返っても、そんなに悪くなかったはずで、もうコンサートホールでのオーケストラ演奏は必要とされていないのだろうか、と考えたりした。

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ショスタコーヴィチの5番が始まると、昔訪れたソ連や東欧の薄暗く、日本では経験しなかった息苦しさをありありと思い出す。彼の音楽はあの空気感そのもののように感じる。
リハーサルの合間に同僚と様々な話をした。僕より上の世代の楽員は、世界が西と東に分かれて厳しく対立していた時代の、壁の向こう側を知っている。若い楽員は体験としては知らない。
家にあるCDはバーンスタイン&ニューヨークフィルの、東京文化会館でのライヴレコーディング(1979年)と、ムラヴィンスキー指揮のレニングラードフィル(1984年)。当時ソ連という国が存在し、なかには直にショスタコーヴィチを知っていた人たちの関わる演奏だ。

時間が過ぎ、そうしたことを知らない世代がオーケストラの中でも多くなり、演奏は変わってきたと思う。洗練され、美しさすらある。でも、昔のことを知らない人たちにも、ショスタコーヴィチの音楽は共感を持って受けいられている気がする。
例えばガリバー旅行記のように、その作品が生まれた文脈を離れても素晴らしさを持ち続けるのが古典、という意味のことを外山滋比古さんが書かれていたように記憶する。ショスタコーヴィチの音楽も演奏され続けていくだろうか。

世界中に感染が広がり、自由な行動が制限され、先が見通しにくく、予想もしなかった様々な問題が次々と起こり・・・。2021年の少し閉塞した状況はショスタコーヴィチが5番の交響曲を書いたときの状況に、もしかしてほんの少し似ているのかもしれない。
僕は以前よりずっと、曲の中に入っていけるようだった。

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ショスタコーヴィチが真情をこの曲にどのように埋め込んだか、という話は以前書いたけれど(2018年の日記、「ショスタコーヴィチ」をご覧下さい http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-ecdc.html)、作曲した音楽の内容によっては自分の身に何かが起きるかもしれない、という体制の中で生きていくのは本当に苛酷だっただろうと想像する。
(月刊都響12月号に掲載された増田良介さんの解説もとても興味深いです。https://www.tmso.or.jp/

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4番の交響曲を久しぶりに聴いている。5番との違いに驚くばかりだ。知らずに聴いたら、同じ人が書いたとは思えないかもしれない。このような4番の後、あのような5番を書いた(書かなければならなかった)ショスタコーヴィチに、世界はどのように見えていたのだろう。

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