ベートーヴェンのピアノ•ソナタ
できるだけ毎日、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽章を一つずつ、聴くようにしている。
楽譜を開いて、CDを聴きながら音符を追い、気になった旋律や和声を、よちよちしたピアノでほんの少し弾いてみたり、歌ってみたりする。耳で知っていた曲がまるで違う姿で現れ、驚く。
西洋音楽はこういうもので、このように書かれている、ということが身体や、響きや、声から、ありありと感じられる。
ベートーヴェンの音楽との接点は、5曲のチェロ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ三重奏や弦楽四重奏などの室内楽、ヴァイオリン協奏曲、交響曲だった。ピアノ・ソナタから入れば良かった、と思う。
彼が最初の交響曲を書く前のピアノ・ソナタは、すでに驚くほど完成されている。ピアノは本当に作曲家の楽器だったのだろう。うまく表現できないけれど、ピアノ・ソナタで書かれた音符の親密さ、自然さは、例えばチェロのパート譜には感じられない種類のものだ。
いったいどうやって弾いたらよいのか、と感じるベートーヴェンの作品のモチーフや書法は、多くがピアノ・ソナタの中にすでにある。そして、それぞれのモチーフがどのように扱われ、展開されていくのか、追っていくのは興味深く、書物を読み進む感覚に少し似ている。
ヘンレ社から、小型の楽譜が出ていることを知ったのが、始めるきっかけだった。僕の部屋は、とっくに楽譜やCD、本であふれているから、ピアニストが使う大きな楽譜だったら手に入れようと思わなかった。
漱石や鴎外の書いた文章を読むと、2022年に生きる僕たちからは考えられないほど、広く深い漢文の素養のあったことが感じられる。
江戸時代の寺子屋では、漢文を教材に、意味や内容の理解はさておき、ひたすら文字の音読をする素読をしていたそう。現在の教育からすると、ずいぶん効率の悪い方法に見えるかもしれない。でも何かを身につけるには、結局こうした方法が良いのだろう、と思う。
今の僕は、寺子屋に通うには歳を取り過ぎているけれど、試みていることは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの素読。
聴いているのはフリードリヒ・グルダの全集。家には他に3人のピアニストの全集があり、さらに世界には僕の知らない素晴らしい演奏がきっとたくさんある。
聴くたびに彼の演奏に惹かれる。外連味のない、と言ったらよいのか。どこにもはったりや変な強調はなく、それぞれの音符が、グルダさん、本当にそう書いてありますね、と言いたくなるほど、見事に音楽になっている。
今日ちょうど「田園」と呼ばれる15番のソナタを聴き終わり、楽譜は2冊目に入った。これからワルトシュタインや告別、後期のソナタなど、昔から何度も聴いてきた曲を聴く。
同じ人間とは思えないような並外れた能力を持った作曲家が、何十年もかけて、どのように音符の扱い方を変化させていったのか、彼には音楽がどう見えていたのか、たどっていくのは、心躍る冒険だ。
生身では決して会うことのできない人が遺した音符に、身体的な感覚を伴って触れることができるのは、本当に素晴らしい。
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