人懐こい猫がいたら
昨年夏、M君に教えてもらって使うようになったのがヒルのプレミアムという松脂。音が素直に伸び、角が立たず、もう一つ良い点は、ロココの第3変奏やコダーイの無伴奏など、高い音域を弾いて左手指先に松脂がついても、あまりべたべたしないこと。
長いことベルナルデルの缶に入った松脂が最上で、今の袋に入ったベルナルデルはあまり、と思い込んでいた。
昨年の梅雨時、そのベルナルデルを改めて求めた。高い倍音がよく出て、角が立つ。弓毛が弦によく掛かかり、心地良い。湿度の高い時期には良いかもしれない。
万能な楽器や弓、松脂、弦というものはおそらくなく、それらをどう使うのかが大切と思う。ベルナルデルの松脂もそうだったし、長く使ってきた弓でも、今までふさわしい使い方ができていなかった、と感じる時がある。
彼を知り己を知れば百戦あやうからず、という孫子の言葉がある。もちろん戦う訳ではないけれど、今使っている楽器や弓、取り替えることのできない自分の体と心を良く知り、生かすことが大切、と思う。
楽器も弓も人間も、日々変わっていく。演奏という仕事に携わっていて、楽器や人間の体と心には、こんな使い方があった、こう使えば良い、という発見はよくある。
チェロを弾くこと、音楽に触れることは、いつも新鮮で、楽しい。
どんな楽器が、弓が、どの弦が、どんなセッティングが、という話題にはなりやすい。でもそうしたことの違いは、舞台から遠く離れた客席にどのくらい届くだろうか。
どのように体を使えているか、どうその楽器や弓を生かせているか、そうしたことの方がはるかに影響が大きいと思うようになった。
オーケストラのリハーサルが朝からある日も、出掛ける前にケースを開け、音を出すようにしている。
できるだけ素の自分の時に、自分の楽器はどういう音がしているのか、どう聴こえているのか、自分の体はどうか、楽器の感触はどうか、毎日今日が初めて、という感覚で触れるようにしている。
僕が受けてきた楽器のレッスンでは、どう弾くか、ということに重きがおかれ、どう聞こえているのか、どう感じているのか、自分の行動の結果をどのように、どのくらい捉えられているのか、ということはあまり問われなかった。
指先の感覚、体を動かす感覚、関節の柔らかさ硬さ、指の形、手の形、腕の長さ、肩の動きは人によって大きく違う。体のつくり、神経のつながり、それらのことがよほど似ている人からでなければ、弓の持ち方や手の動かし方など、具体的な形を習うことは、さほど意味がないと思う。
オーケストラの仕事をしていると、多くの優れた演奏家に接する。彼ら彼女たちと自分は、いったい何が違うのか、そのことにいつも大きな関心をもってきた。
優れた演奏家は、感じ取る能力にも秀でているように見える。自分がどういう音を出しているのか、どんな音程の、どんな音色の、どんな向きの、どんな速さの、どんな飛び方の、どんなフレーズ感の、どんな色彩の。
それだけでなく、自分の立ち居振る舞いが周囲の人間にどんな影響を与えているのかも、よくわかっているように見える。
優れた演奏家に世界はどう見えているのか、それを想像するのは興味深い。
楽器を弾く、それで何かを表現する、ということは楽器や外界に対して働きかけをし、その結果起きたことを感じ、次の行動に反映させていくことだと思う。
僕の場合、楽器がうまく扱えていないときは大体、楽器に対して一方的に働きかけるばかりで、状況の的確な把握ができず、フィードバックもうまくできていないことが多い。
だからもしかして、長時間の楽器の練習より、普段どう生きているか、ということの方が大切かもしれない、と思う。
自分の行動がどのような結果となって返ってくるか、を気にしていれば。例えば、食器を机に置くときに丁寧に置く、とか、道端に人懐こい猫がいたら嫌がられないように触れてみる(そういう猫は本当に見なくなった)、とか、そのように生きていれば良いのかもしれない。逆に、力任せに扉を閉める、とか、周囲を気にせず大声で話す、ということは避けた方がよいのかもしれない。
何かをする、行動をすることが半分、その行動の結果を正確に捉えることが半分、ではないだろうか。うまくいっていないときは行動することにばかり気を取られ、行動の結果を的確に感じられていない。頑張れば頑張るほど、良い演奏は遠ざかっていく。
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