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2024年12月

2024年12月30日 (月)

ショスタコーヴィチの8番

12月4、5日都響定期公演の後半はショスタコーヴィチの交響曲第8番だった。

有名な5番の交響曲のように低弦楽器が荒々しく弾く付点のリズムで始まり、ヴァイオリンが息をひそめるようにしてハ短調の主題を弾く。ドで始まった主題がソを通り、ラ♭に到着した時の響きにはっとする。この進行は、モーツァルトのハ短調のピアノ協奏曲の冒頭を思い起こさせる。

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「レニングラード」という名前のついた有名な7番の交響曲の作曲が1941年、8番は1943年。7番も何度か弾いたことがあるけれど、いつも音符が僕の手をすり抜けていった。今回、8番の準備を始めた時から曲に絡めとられるようだった。曲を知るにつれ、その緻密な作りや見事な構成、規模の大きさに驚き、わずか2カ月で書いたとはとても信じられなかった。

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マリス・ヤンソンスがピッツバーグ交響楽団を指揮した時のリハーサルを聞くことができる。
どちらも戦争中に書かれた2曲のうち、7番は戦争を描き("pictures of the war")、8番は行為ではなく、戦争に影響を受けた人間を描いている、という彼の言葉が印象的だった。
1楽章で金管楽器が担う「荒々しい行進曲」はモーツァルトのトルコ行進曲の引用だ、とも言っていた。

第1楽章の対位法的な部分を弾く時、ショスタコーヴィチがピアノのために書いた24のプレリュードとフーガを連想し、そしてその背後にあるバッハの2巻の平均律(前奏曲とフーガ)のことを思った。

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第4楽章は、第1楽章の主題の変形で始まり、その音型が9小節フレーズとなって低弦楽器に受け継がれ、11回繰り返される。低弦の定型の上に様々な楽器の、意匠を凝らした見事な変奏が繰り広げられるのだけれど、この書法を見て、例えばコレッリのフォリア、バッハのシャコンヌ、ブラームスの交響曲第4番の終楽章パッサカリアといった、古くからの様式を連想した。
ショスタコーヴィチの8番は、彼独自の見事な世界を築いている。同時に先達の残した音楽を受け継いでいることも様々な箇所で感じた。

演奏時間1時間を超えるこの曲の5つの楽章をモチーフから考えると、1と4、2と5がそれぞれ関連を持ち、真ん中に第3楽章が置かれた、言わば変則的な対称配置に見える。

都響公演を指揮したロバート・トレヴィーノさんは、5拍子は不安定さを表す、と言っていた。この曲には5拍子が多く使われ、さらに5連符や、9あるいは11、13小節フレーズ、といった奇数が多い。
[西洋音楽は(2+2)、4、8、それらを基にした16小節フレーズを定型としている。賛美歌や、日本では多くの校歌、おそらく演歌も、8や16小節のフレーズで書かれていると思う。それらは安定した感じをもたらす]

ショスタコーヴィチ8番の第3楽章に変拍子はなく、速い2拍子で書かれている。1小節に4つの4分音符が、無窮動のようにひたすら続く。
冒頭のヴィオラこそ16(8+8)小節フレーズで始まるけれど、少し進むと奇数小節のフレーズになり、手に汗を握る展開になる。予測や記憶が難しいので、舞台にいるオーケストラはひたすら小節数を数えなくてはならず(飛び出したら大変だ)、緊張感は増す。きっとそれは客席にも伝わり、生演奏ならではの臨場感につながるのではないか、と思う。

西洋音楽で緊張感を高めていくとき、フレーズを縮めていく手法(ストレット、例えば8小節フレーズを4、2、1というように短縮していくと切迫感が増す)はよく使われる。
ショスタコーヴィチの見事なところは、この第3楽章でヴァイオリンが大きなクライマックスをもたらす際に、逆の手法を用いたこと。
ヴァイオリンの無窮動が始まると、他のパートは裏打ちに回り(必死に走る馬に、容赦なく鞭を入れるよう)、そのフレーズは9、11、13小節と広がっていく。常に予想を裏切った先に次のフレーズがあるので、どこまで広がるのか不安になる。そしてクライマックスで打楽器が圧倒的な音量をもたらし、第4楽章に入る。

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この数十年の演奏技術向上は目をみはるものがあると思う。同時に、弦楽器で言えば新しい弦の登場など、技術的発展もあり、オーケストラの音はより大きく、なめらかに、耳当たりの良いものになっているのではないだろうか。
ムラヴィンスキーが指揮するレニングラード・フィルの、伝説的な演奏がある。指揮者とオーケストラの関係も変わり、現在このように強い緊張感をもった演奏は少なくなったかもしれない。
今回ショスタコーヴィチの8番を演奏するにあたり、様々な録音を聴いた。作曲家が生きていた時代の音を知る人は違和感を覚えるかもしれないけれど、現代の精度の高く、機能的なオーケストラから現れるショスタコーヴィチの音楽は、驚くほど豊潤で奥行きのあるもので、もしかしてこれまで感じられなかった世界を見ているのかもしれない、と思う。

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ハ短調で始まった8番の交響曲は、ハ長調で静かに終わる。調性だけで見ると、「運命」と呼ばれるベートーヴェンの第5交響曲のようだし、静かに終わるということでは、例えばブラームスの3番のようだ。ハ長調で書かれた終楽章をヤンソンスは、抑圧の中の小さな希望(small hope)と言っていた。

ショスタコーヴィチは4番の交響曲を書いた後、危うい立場になり、それを回復するべく5番を書いたと言われる。作品の政治的な評価を厳しく問われる、とはいったいどんな時代だったのだろう。
西側に亡命したロストロポーヴィチは、ショスタコーヴィチを連れ出さなかったことを激しく悔いたそうだけれど(2018年4月3日の日記「ショスタコーヴィチ」をご覧下さいhttp://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-ecdc.html)、困難な状況に置かれた作曲家の残した仕事の凄まじさは、2024年が暮れようとする今でも、あるいは今だからこそ、強く感じられる。

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24のプレリュードとフーガ作品87は、1950年にライプツィヒで開かれたバッハを祝う音楽祭、その中のコンクールで優勝したタチアナ・ニコラーエワの演奏に感銘を受けたショスタコーヴィチが作曲した、と伝えられる。すぐれたピアニストでもあった作曲家に曲を献呈される、とはいったいどんな気持ちがしたのだろう。

僕はこの曲の録音を3つ持っていて、ニコラーエワのCDを求めたのは最後だったかもしれない。
購入し、帰宅して封を開けて聴き始めると、ショスタコーヴィチでも何でもない、室内オーケストラの曲が流れてきてびっくりした。すぐ店頭で交換してもらったのだけれど、その顛末を当時僕が在籍していた新日フィルのAさんに話したら、何ともったいないことを、と怒られた。彼によると、盤面の印刷と中味が違うものはとても価値がある、とのことだった。
久しぶりにニコラーエワの演奏を聴きながら、少し前に亡くなられたAさんのことを思い出す。

この曲を聴くのは夜が多い。以前は目がさえて眠れなくなることがあった。
ハ長調で始まり、同主調のハ短調、半音上がって嬰ハ長調、嬰ハ短調と続くバッハのプレリュードとフーガより、ハ長調・イ短調、5度上のト長調・ホ短調とたどっていくショスタコーヴィチの方が、楽器を弾く身には、響きの変化をたどりやすい。
静かになった夜、この曲を聴いていると、ふと音楽と自分の境がなくなり、心の深いところに音が触れてくる感覚に満たされることがある。

2024年12月15日 (日)

シェーンベルク、長三和音、短三和音

11月20日の都響定期公演、後半はシェーンベルク:ペレアスとメリザンド作品5だった。
大編成のオーケストラ、40分を超える演奏時間、スコアにびっしりと書き込まれた無数の音符を見て、当時20代の作曲家が並々ならぬ意欲をもって書いたと想像する。
作品番号が1つ前の「浄夜」と同じように、耳当たりの良い旋律が展開されるロマンティックで官能的な作品と思う。

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ペレアスとメリザンドのリハーサルが始まる頃、翌12月に同じシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を演奏するオーケストラのメンバーから、この(難しい)曲をどう捉えたらよいのか、と聞かれた。

僕にとっても印象深い曲だったので(2019年1月12日の日記「シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲」をご覧下さい。http://ichirocello.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-6443.html)、久しぶりに聴き直してみると、冒頭が独奏ヴァイオリンとチェロの絡みで始まることは覚えていたのだけれど、他は見事に抜け落ちていた。

 

ペレアスとメリザンドからヴァイオリン協奏曲まで三十数年の月日があり、作品がこのように変化したことは興味深い。
ペレアスとメリザンド、浄夜はどちらもレの音を軸に書かれた、ある意味でわかりやすい調性音楽と思う。それが12音技法の、初めて聴くとまるでつかみどころのない音楽に変貌している。

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西洋音楽の重要な要素である和声が、制約の多いシンプルな形から、信じられないような能力を持った作曲家たちの、幾世代にもわたる音の冒険によって発展を続け、とうとう調性感をなくしてしまうところまで行き着いたのは、必然的な結果だろうか。

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1つの和音には少なくとも3つの音が必要。その和音は誰か偉い人、聖職者、学者、作曲家、・・・、そうした人たちが発明したものではなく、物理的な現象を基にしていることがおもしろいと思う。

チェロやコントラバスなどの、弦が長くて振動が見えやすいものが身近にあるとわかりやすいのだけれど、張られた弦の長さを1とした時、最初の倍音は弦長のちょうど半分、1/2のところにある。弦長が半分、振動数は倍、この音程間隔が1オクターヴ。
次の倍音は1/3のところで、基音がドだったら、5度上のソ。その次の倍音は1/4のところのド(基音から2オクターヴ上)、次は1/5でミ、次は1/6で再びソ、そして1/7のところにすごく低いシ♭(あるいはとても高いラ)が現れ、・・・。
ここまででド・ミ・ソ・シ♭が揃う。(奏法として、フラジオレット、あるいは自然ハーモニクスと言ったりする。弦をしっかり押さえずにその場所を触るだけでも、弾いたらその音が鳴る)

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このときに現れる第3音のミは1オクターヴを均等に割った音程より少し低く、第7音あるいはblue noteとも呼ばれるシ♭(またはラ)はかなり低く(高く)、同時に鳴らすと澄んだ響きになる。(純正調)
逆に言うと、一般的なピアノの調律では、弾き手の絶妙なコントロールがないと、様々な和音はきつい響きとなるかもしれない。

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振動数が倍になる音程間隔を1オクターヴとし、その次に現れる1/3の弦長の倍音が構成する5度音程を基として調性のシステムが作られていることは、本当に見事と思う。仰ぎ見るように巨大で奥深い、西洋音楽の森の秘密を垣間見るような気がする。
[ドに対してソ、ソに対してレ、レに対してラ、・・・。トニックとドミナント。
ハ長調、ト長調(♯1つ)、ニ長調(♯2つ)、・・・、♯が1つずつ増えていき、異名同音を読み替えて♭になり、♭が1つずつ減っていき、12の半音全てが現れて、ドに戻ってくる。
ド、ソ、レ、ラ、ミ、シ、ファ♯、ド♯(レ♭)、ラ♭、ミ♭、シ♭、ファ、ド。
それぞれの長調は平行調となる短調を持っているから、12×2で24の調性]
(こうした内容はL.Bermstein著"The Unanswered Question"で学んだ)

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ド・ミ・ソの和音、ハ長調の和音は明るいことになっていて、実際明るく聞こえる。ではどうして長三和音が明るく聞こえ、短三和音(例えばド・ミ♭・ソ)は暗く聞こえるのだろう。

人間の認知能力に関わる問題と思う。全ての人間が生まれつき長三和音を明るく感じるのか、あるいは文化的な背景によるのか。生まれてからまったく音楽を聞いたことがない人が、あるとき初めて長三和音を聞いたら明るいと感じるのか、それとも感じないのか・・・。

誰かに聞いてみたい。このことを研究している方はいないのだろうか。

 

前後の和声進行の兼ね合いで長三和音が明るく聞こえない時はある。でもそれなりに長く音楽に携わってきて、実は長三和音が暗く聞こえてしまうんだ・・・、という人には会ったことがない。

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和音の明るさを握るのは第3音だけれど(ド・ミ・ソだったらミが♮か♭か、その半音の違いが決定的に重要)、年の暮れの日本でよく演奏されるベートーヴェンの第九交響曲は、その第3音を欠いたラ・ミという響きで始まる。この色を持たない5度の響きだけで16小節続く冒頭は尋常ではない。

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今年の夏、ビートルズのイエスタディをチェロとピアノで弾くことがあった。この曲はFのキー(ヘ長調)で書かれていて、冒頭に"F5"というコードネームが書いてある。何だろう、と思ったら、どうやら第3音を欠くファ・ドということらしい。
これまで調性感を気にしたことはなかったけれど、

"Yesterday all my troubles seemed so far away"

と始まるこの歌は、あまり明るい感じは受けない。

明るいのか暗いのか、どちらともつかないイントロの後(ちょっと不安な気持ちになる)、メロディーは倚音のソで始まり、それに絡むEm7、A7、Dmというコード進行を見て(ポールさん、お見事です)、この歌が多くの人の心に入った理由がわかる気がした。

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毎週土曜日朝はNHK-FMのウィークエンドサンシャインという番組を聞く。この秋の放送では、ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバム"One Hand Clapping"がひとしきり話題になった。

one hand clapping、つまり片手の拍手は、禅の公案「隻手音声」(せきしゅおんじょう)を連想させる。拍手は両手でするものだけれど、では片手の拍手はどのような音がするのか。

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時々、チェロを練習する手を止めて、隻手の声とは何だろう、白隠禅師はいったい何を問うたのだろう、と考える。

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